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1972

02 Something

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 わたしは生まれも育ちも北の国です。

 そのころはまだ炭鉱があって石炭を運ぶ蒸気機関車が走っていました。真っ白な雪原を真っ黒な煙を吐いて走る炭鉱列車は、冬場街の高校に通う列車の窓から見える風物詩になっていました。木造の、四人掛けのボックス席の並ぶ客車の座席であくびをしながら嗅いでいた、風に漂ってくる石炭のばい煙の香りを今も懐かしく思い出します。

 通勤列車が駅に着くとスーツ姿も学生服もセーラー服もみんな真っ白な息をさせながら駅から吐き出されてゆきます。気温は十度。時には十五六度。お断りしておきますが、マイナスです。

「今日は五度だって」

「あったかいね」

 その街ではそんな会話があいさつ代わりになっていました。人間とは慣れるものです。ですから、今住んでいるこの南の国に住み慣れて歳を取ってしまったわたしにはもうあの頃の寒さは想像もつきません。もう一度あの北の国の冬を過ごせと言われたら断固、お断りします。

 皆同じように固く凍った雪をガリガリジャリジャリ鳴らしながら歩きます。その流れからスーツ姿が消え、近場の徒歩通学の生徒が合流し、黒い制服の群れがどんどん大きくなってゆきます。

 今なら耳にイヤホンをして、あるいはスマホを見ながらの登校風景になるのでしょうが、当時はスマホはもちろん、ケータイもウォークマンもポケットベルさえ無い時代です。

 男子は解散したばかりのビートルズやローリングストーンズのレコードの話、女子は来年度になったら施行される制服の廃止、服装の自由化について、何を着てこようか、どんな服を買いに行こうかという話をしながら次々に校門をくぐってゆきます。

 その、ほんの二三年ほど前まで。

 意味不明な何かのスローガンがペンキで書かれた立て看板や、そこここでメガホンでがなり立てる、まったく意味の不明なアジテーションの演説。ヘルメットを被った生徒の学生運動への勧誘や国や社会や学校への抗議のビラ撒き・・・。全国の大学で吹き荒れた学生運動の余波はこんな田舎の高校にまで及んでしまっていました。少数派の、わたしと同じようなナンパな先輩たちはみな肩身の狭い思いをしながら登校していたと聞きました。

 一体あれはなんだったのか。あれから半世紀以上経ち、わたしも、あれをやっていた人たちもみんな歳を取りました。人生も残り少なになった今でも、わたしにはあれがなんだったのか未だによくわかりません。

 あれをやっていた人たちのほとんどは、卒業すると長い髪を切って、あれだけ攻撃していたお堅い国の役所やあれだけバカにしていたそこここの大企業に入って行きました。そしてそれを定年になるまで真面目に勤め上げ、退職するやまたかつての若いころを思い出したのか、歯の抜けた口から口角泡を飛ばして国や大企業の悪口をまき散らし、老人ホームで学生運動の武勇伝をフガフガ叫んでいるのです。そこまで忘れられないことだったのなら、なぜそれを貫き通さなかったのかと思いますが・・・。

 よくわかりませんけれど、きっと彼らにとってはあれは、とても大切なことだったのでしょう。

 幸いなことにわたしの入学時には先輩たちが登校の度に見掛けたそうした風景はもうどこにもありませんでした。もうそんなことは昔話かおとぎ話か何かでもあったかのように、みんな高校生活をエンジョイするために全力で遊び、部活動にいそしみ、かつ少しだけ勉学に励む日々を送っていました。高校生活も二年目を迎えるころになると、少なくともわたしの周りではそれは、つまり高校生活のエンジョイは至高の目的になっていました。


 

 今でもそうでしょうが、運動部系は一般の生徒より早めに登校し部活の朝練を課されていました。わたしもそうだったのですが、家の事情と電車のダイヤのせいにしてそれを免れていました。

 登校して教室に入り、まず最初にすることはお弁当を取り出すことです。もちろん食べるためではありません。夜の間に零下まで下がった教室内は教室の中央にある大きな石油ストーブに暖められてなんとか人間の生息に適した温度になっています。そのストーブの周りに巡らされた保護枠に多数ぶら下がっているカギにお弁当をひっかけておくのです。そうするとカチンコチンになったお弁当がお昼ごろにはもうひもじさを感じさせないほどに温められているという仕掛けなのです。北国の学校の真冬の知恵というものでした。

 そうしておいて、自分の席に戻り一時間目の授業の準備を始めました。

 その当時の全国すべての公立高校がみんなそうであったかどうかは知りませんが、わたしの高校の教師たちには変人が少なくありませんでした。

 担任は比較的まともでしたが、ある生物の教師は、先ほどお話ししたその筋のカツドウをしている生徒が授業中にもかかわらず演説をしに入ってくるとあっさり教壇を明け渡し、そのカツドウ生徒の演説に「そうだそうだ」「いいぞっ」「うん! その通りだ」などと合いの手を入れながら拝聴していたそうです。もっともその教師はあとで、

「あの時はそうでもしなければ身の危険を感じたので」と言い訳していたらしいです。要は生徒を叱るのが面倒で仕事をサボリたかっただけなのでしょう。

 また、教室に入って来るなり黒板の方を向いて板書きを開始し、授業が終了するまでブツブツ呟きながら一心不乱に数式を書いているだけという教師もいました。

 また中には、最初の十分ほどは普通に授業を進めるのですが、途中からふと思い出したように、

「ちょうど私の所属する部隊が中国からラバウルへ転戦を命じられ、輸送船に分乗し駆逐艦に護衛されながら南太平洋を航行していたときのことです。突然襲来した敵機の攻撃を受けまして・・・」

 などと戦争中の武勇伝を延々とブッたりしている教師もいました。戦争が終わってまだ二十数年しか経っておらず、こういう先生は全国の至る所に居たような気がします。

 そういう場合、真面目な生徒は諦めて模試や定期テストの試験勉強を始めましたし、もちろん、わたしを含めたナンパな生徒は極力静かに隣同士で筆談でのお喋りに興じたり、早弁をして空腹を満たすのに勤しんでいたりしていたものです。

 そんな高校でしたが、毎年上位のうち百名ほどは、あのポプラ並木で有名な、まっすぐに伸ばした腕で彼方を指す外国の博士の銅像でお馴染みの大学へ進学していきました。もちろん道内の高校では一番で、ということはすなわちその大学への全国一の進学率を誇っている高校ということになります。よほど生徒の質が良かったのでしょう。もちろんわたしは除いて、ですが。

 今思うと、あのころは何事にも大らかな時代ではありました。


 

 その日の三時間目はその、「板書き」の数学教師の授業でした。

 例によってその教師が「起立、礼」の言葉も待たずに板書きをはじめるや、その板書きを写す一部の真面目な生徒は別にして、ほとんどが各個に自主活動をはじめました。

 と、わたしの前のストーブのすぐ脇に座っていた男子がそーっと手を伸ばし、カギにぶら下げた自分の弁当を取り外していました。

 早弁です。

 数Ⅱの教科書を立て、その裏でアルマイトの弁当箱を開いていました。教室内に彼の弁当のおかずであろう、シャケの香ばしい香りが広がります。その匂いに、わたしのお腹もグウッと鳴りました。

 鉛筆で彼の背中をつつきました。

「(なんだよ)」

 モグモグしながら早弁の男子が振り返ります。

「(わたしのも取ってよ)」

「ハヤカワ。お前、女のくせに早弁すんのかよ」

 ヤマギシ君は何故かわたしにイジワルでした。ワザと比較的大きな声をあげ、わたしに周囲の注目を集め、恥をかかせようとするのです。

「(シィーッ。声、大きい! あんたが食べるからおなか空いちゃったの)」

「(しょうがねえな。・・・これか?)」

「(違う。その下の青いチェックのヤツ)」

「(じゃあ、これか?)」

「あんた、フザけてんの?」

 思わずアタマにきてわたしも地声を出してしまい、慌てて口を塞いで机に伏せました。

「(条件がある)」

「(なによ)」

「(お前の写真撮らせろ)」

 彼は写真部に所属していました。

「(撮らせるわけないでしょ、このスケベ!)」

「(お前はなにか誤解している。俺の写真はゲイジュツなんだぞ)」

「(写真以外なら考えてもいい。先輩直伝の物理のノート、タダで一回貸してあげる)」

「(ふふふ。それなら間に合っている。気の毒だがお前は早弁にありつけない。残念だったな)」

 このクッソ、ムカツク・・・。思わず拳を握り締めると、

「(おい、静かにしろよ。授業中だぞ)」

 わたしの前後左右はみんな男子でした。特に右隣はオダブツというあだ名の真面目くんでした。本当はオダ君というのですが、死ぬまでカタブツなのだろうということでそういうあだ名になったらしいです。

「(それに君は学級委員じゃないか。少し自覚が足りないんじゃないのか)」

 センセーか、アンタは!

 そう言いたくなりましたがオダブツ君だから仕方がないとグッとこらえ、教科書の陰に沈み空腹を耐えました。


 

 三時間目が終わってすぐ、五分でお弁当を食べました。四時間目は教室を移動するからです。昼休みには昼練習があります。部活の練習がキツイせいか、そのころのわたしはいつもお腹を空かせていました。

 ほんの数年前まで男子校だったからでしょう。わたしの通っていた高校は女子が圧倒的に少なく、わたしの学年でもその男女比は七対三。よほど容姿に恵まれず、服装や髪や肌のケアなどに無頓着な、勉強のことしか頭にないようなごく一部のお気の毒な方々を除いて、並よりは少しだけいいんじゃないかな程度のわたしですらヤマギシ君のように揶揄って来たりチヤホヤしてくれる男子に事欠かないという、きわめて良好な環境ではありました。本当なら私の学力では無理筋の学校だったのですが、将来有望で優秀な男子ばかりが集まると聞き、どうしても入りたくなり凡才ながらも必死に精進してやっと入れた学校であったわけです。

 そのように非常に不純な動機で辛くも入学を許されたわたしが、今でいう「リア充」(この言葉は孫娘から教わりました)を目指すべく、さらなる精進を重ねたのは言うまでもありません。

 女子バレー部へも「とにかく目立ちたい」一心で入りました。

 孫の楓に話して聞かせたように、東京オリンピックをきっかけにした女子バレーボールの「ブーム」は益々盛んで、わたしの通う高校の女子の部活動の中で最も「目立つ」クラブだったのです。

 その女子バレー部でレギュラーになりエースアタッカーの座を不動のものにしインターハイに出場する。そしてとにかく、「目立つ」。 それが、わたしの悲願だったのです。

 女子バレー部の練習はキビシイものでした。朝練に出ない部員は昼にその分のメニューを消化しなければなりません。もう鬼のような三年生は引退しているのでそこは安心でしたが、チームの目標であるインターハイ出場のために部を引き締めねばなりません。一年生を鍛えるために率先して模範を垂れる必要があったのです。それに、ライバルにレギュラーポジションを奪われたくはありませんでした。だからある程度は必死に頑張っていたのです。それにその日は生徒会の仕事がありました。放課後の練習に行けないので、昼だけは行っておかないと立場が無いのです。

 昼休み。

 校内放送がビートルズの「Something」を流していました。

 ジョージ・ハリスンの甘い歌声をBGMに、廊下や教室の片隅で男子と楽し気に語らい、青春している文科系クラブの女子たちを羨まし気に見ながら、ジャージを掴み、部室ではなく体育館に直行し、その隅で制服を脱ぎます。下にはすでにブルマーと半袖の体操着を着けています。体育館にはストーブなんかありません。すぐにジャージを着てマイナス二度の寒さに耐え何周か走ると身体が温まってきます。路面が凍り付いていて屋外での走り込みやランニングは危険なのです。

 昼休みまで練習をする部は女子ではバレー部しかありません。外では野球部でさえ一面雪の原の校庭の一角でうさぎ跳びをしているだけで。女子バレー部がいかにキツイクラブだったかがわかると思います。今と違って屋内練習場のなかった時代です。北国ですから、冬場、屋外スポーツの部活の練習の場はどうしても限られてしまうのです。

 昼はセットプレーなどはやる暇がないのでひたすら基礎錬を行います。主に折り返しダッシュとかジャンプトレーニングなどボールを使わずにできるものです。

「一年生! 声小さいよっ! 絶対インハイ行くからねっ! 気合い入れてくよっ!」

 朝練に出なかった分、存在感をアピールしておかねばなりません。そういうキャラではないのを承知の上で、厳しい上級生を演じていました。

「ホラッ! 朝練出ない先輩に言われてんじゃないよっ! キビキビやるよっ! 」

 サオトメヒサヨ。

 この、名字はお高めなのに名前がくそダサい、イヤミなヤツがわたしとレギュラーポジションを争っている女です。

 そんなどうでもいいことが憎たらしくなるほど、彼女のイヤミは絶品でした。成績もわたしよりちょっとだけいいのも癪に障りました。

 そんなにイヤミを言われたくないならもう少し早起きして一本前の電車に乗りちゃんと朝練に出ればいいのですが、ダメだったのです。起きられないのです。そのころのわたしはとにかく毎日眠くて、朝ギリギリまで寝ていたい欲望に勝てませんでした。そんな朝寝坊のわたしが朝スッと起きられるようになったのは子供を産んでからです。ですがそれはまた別の話なので、高校時代に戻ります。

 そうして五時間目が始まるギリギリまで練習し、三十秒でまた制服を身に着けて購買部の閉まる寸前に飛び込み、菓子パンやアンパンが売れ残っていればそれを買って口に詰め込みながら各員教室に戻ります。

 そのようにして六時間目が終わり、放課後がやってきます。


 

 教師たちはとにかく面倒ごとを嫌う傾向にあったようで、学級委員の集まりで生徒会長や役員を組織させ、そこで志願者がいない場合は推薦させ、それでも出ない場合は全二年生から立候補者を募って選挙を行い、しかもその選出の監修や監督の全てを引退してゆく三年生の役員たちにやらせるのです。生徒の自主性を尊重するといえば聞こえはいいですが、要は面倒な指導をしたくなかっただけのような気もします。でも、結果的にそれが生徒の組織力や指導性を鍛えることにつながるので、成績のいい高校の教師はみんな怠け者。という、おかしな定理が成立してしまうのでした。

 「男女平等」という時代の流れに妙に敏感になっている教師たちは学校運営の全てのシーンにおいてそれを実施していました。どんな役割も全て男女平等。当然七対三で絶対的に少数の女子にはどんな凡才にも男子より多い確率でいろいろな役割が回ってきます。どうせ何かの役目がまわって来るならと、わたしは学級委員に立候補しました。

 凡才の身で身分不相応の極みであることは十分に承知していましたが、わたしにはある目的があったのです。

 わたしが立候補してまで学級委員という大それた役になりたがったのは、ある他のクラスの男子が推されて学級委員になったことを聞いたからでした。
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