セピア色の恋 ~封印されていた秘め事~

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03 Across the Universe

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 生徒会室は冷えていました。

 一番乗りしたわたしはすぐにストーブを点けました。あいにく灯油がなくなりかけていたので一階に降りて校舎裏の倉庫に行きドラム缶から補給用の10リットル缶に灯油を移し、再び二階の生徒会室まで運びました。結構な重さに泣きそうになりましたが耐えました。部屋の隅にあるタンクに灯油を補充すると三分の一程度になりました。ストーブは灯油の燃える独特の匂いを放ちながら徐々に温かさを増してゆき、わたしは凍えた指先を翳して温めました。

 指先に感覚が戻ると、鉄筆のセットを取り出して準備しました。

 ガリ版印刷というと、今の若い人にはちょっとピンと来ないかもしれません。謄写版印刷というのが正しいらしいのですが、要は蝋を引いた紙に鉄筆で文字を書き、インクを塗って文字を印刷する方法のことです。

 今はパソコンやスマートフォンの中のアプリになってしまったワードプロセッサーは、当時すでに初期型が販売されていたようです。それは机ほども大きなもので当時の価格で数百万円しました。それではとても予算の少ない公立高校が買える金額ではありません。なので、学校の試験問題やプリント、広報、資料などを印刷するために、それはどの学校でも必須なアイテムとして使われていたのです。当時はどこの文房具屋に行っても鉄筆セットは売られていたように思います。

 まず机の上に鉄の板を敷き、その上にフィルムにあたる蝋紙を置き、そこに先の尖った鉄筆で文字を書いてゆくのです。間違うと専用の修正液で消し、それが乾くのを待って文字を書き直します。わたしは字が下手だったのですが、この鉄筆筆記を一年間やったおかげで少しはマシになりました。鉄筆で文字を書くたびにガリッガリッと音がします。「ガリ版擦り」という名前はおそらくそこから来たのでしょう。

 書き上げたら印刷機のローラーにインクを補充し、ローラーの周りに蝋紙を張り、印刷される紙をセットし、ハンドルを回すと紙が一枚一枚引き出されてローラーの文字が転写されてゆきます。この時のインクの濃さを調整するのがミソで、濃すぎると上の紙の裏にインクがべっとりと着いてしまうし、薄すぎると読めない、なかなかに難しいものでした。そのため、週一回のこの印刷をしているお陰でわたしの指先にはいつも黒いインクのシミが出来ていました。

 ガラッ。

 生徒会室のドアが開いて廊下の冷気と共にワシオ君が入ってきました。

「あれ、他のヤツらは?」

 わたしは首を振りました。

「ハヤカワだけか。しょうがねえなあ・・・」

 ワシオ君はカバンとギターケースを壁際に置くとストーブの上で手を炙りながら、

「いつも悪ぃな」と言いました。

「・・・書記だから」

 わたしは顔を上げずに応えました。恥ずかしかったからです。

「マジメだな。ハヤカワを選んで良かったよ」

 その言葉は小さなわたしの胸を鷲掴みにしました。あまりの感動にしばし鉄筆の手が止まりました。ですがあまりジーンとしていると彼が気にすると思い、鉄筆筆記を続けました。


 

 わたしが身分不相応にも学級委員に立候補し、身の程知らずにも生徒会の役員を買って出たのは、このワシオ君と近づきたかったからです。

 彼は、生徒会長でした。一年生の時から、彼は目立っていました。

 サッカー部のフォワードとして一年生で早くも話題になり、グラウンドで練習する彼を見るための女子のギャラリーが十人を下回ったことはなかったと思います。彼の華麗なシュートがゴールのネットを揺らすたびに彼女たちの黄色い声援が響いていました。

 定期テストの結果が廊下に張り出されると、いつも上位十番以内に彼の名前がありました。そのくせガリガリ勉強している風を見せることは全くなく、時折学校にギターを持ってきては休み時間に屋上でビートルズを爪弾いたりしていました。

 目立ちたい一心でバレー部に入ったわたしがそんな彼を見過ごすわけがありません。クラスの女子に誘われて練習を見に行き、一目で彼の虜になりました。

 ことあるごとに隣のクラスの彼の眼に留まるように日々努めたのですが、なかなか成果があがりません。直接告白するなんて大それたことはとても無理でした。ヤマギシ君に弁当箱を取ってと頼むことはできても、もし同じ席に彼が座っていたら、購買部に駆け込んだ時にワシオ君がいたりしたら、毎日早弁できなくても菓子パンが食べられなくとも構いませんでした。彼にそんな恥を見せるぐらいなら、わたしは躊躇なく飢え死にする方を選んでいたでしょう。

 そのようにして一年生が終わり、次こそ彼と同じクラスになりますようにと願掛けまでしていたのにクラスが分かれて落胆していたわたしでしたが、隣の隣のクラスで彼が学級委員に選ばれたことを知ったとき、迷いはありませんでした。

 各クラスの学級委員で構成される生徒会の会議は、彼と同じ空気を吸うことが出来る月に一度のオアシスでした。

 二年生の夏休みが終わり二学期が始まると次期生徒会長の選挙があります。

 慣例に従って現生徒会長の三年生が生徒会の中から会長候補の立候補を募りましたが候補が出なかったので推薦を募りました。そこでワシオ君が推されました。

「いいんですか? 僕が会長になったら学校がハチャメチャになっちゃいますよ」

 彼の推挙に反対の者は誰もいませんでした。

 もちろん、そこで決定ではありません。最終的には生徒総会で承認される必要があります。そしてそこでも一般生徒からの立候補を募ります。立候補があれば生徒会選出の立候補者との選挙がそこで行われます。投票は立候補演説の終了後に拍手で行われます。拍手の多い方が当選です。

 そういう場で生徒会推薦の候補を前にして立候補するなんてよほど勇気がいる行為です。過去にも生徒総会で生徒会推薦の候補を破って当選した会長が何人もいたそうです。それがわたしの高校の伝統だったらしいです。文武両道。質実剛健。切磋琢磨。人の上に立つリーダーを養成するのを主眼とした校風というのを、わたしは入学してから知りました。

 全校生徒の見守る中、一般生徒の立候補者が募られ、果たしてそれは現れました。まさに校風通りの、文武両道。質実剛健。切磋琢磨。人の上に立つリーダーを絵にかいたような、成績優秀な対立候補が名乗りを上げました。

 即、選挙演説が行われました。

「僕が生徒会長になった暁には・・・」

 対立候補の演説は校史に残るぐらいの荘厳で煌びやかな、格調の高い、それはそれは長い演説でした。休めの姿勢ではあっても全校生徒立ったままで拝聴していなければなりません。その時初めて、わたしは立ったまま寝るという特技を会得しました。

 その長い演説が終わって、いよいよワシオ君が壇上に上がりました。しかもギターを抱えて。

「僕は口が下手なので演説なんかできません。だから歌を歌います。よかったらみんなも一緒に歌ってください」

 彼はギターのストラップを肩に掛けると、あの有名なイントロを掻き鳴らしではなくアルペジオで爪弾き始めました。曲は『レット・イット・ビー』。ビートルズの最後に発売されたアルバムに収録されていた曲であることを、後に彼から教えてもらいました。

 あるがままに。

 そのメッセージは、質実剛健の対立候補の長い演説よりもはるかに生徒たちの心を打ったようで、曲の途中から唱和に加わる生徒がどんどん増えて行き、最後には全校生徒全員合唱のようになってとても感動しました。ギターのラストのフレーズが爪弾かれ、マイクが拾う弦の響きが衰え消えかかると同時に大きな拍手が歓声と口笛と共に起こりました。

 その後、対立候補が壇上に立ち、立候補を辞退しワシオ君を推薦する旨を宣言し次期会長選挙は終わりました。それは、わたしのワシオ君への密かな思慕が崇拝へと変わった瞬間でもありました。

 それから新年度の生徒会で役員人事が行われました。

 会計を除いて生徒会長に役員の人選を全て一任する、という慣例になっていました。学級委員でなくても二年生であれば誰でも構いません。ですが、今までの慣例から二人の副会長と二人の書記はいずれも学級委員で構成される生徒会から選ばれることが多かったのです。そのほうが面倒がなかったからでしょう。

 会計だけはその性質上、生徒会運営を監督する教師が学級委員の中から立候補を募りいない場合は教師の指名で選びます。会長と副会長書記の三役の選出が終わった後、三役を退出させた席で男女それぞれ一人が選ばれます。

「誰か役員やってくんねえかなあ・・・」

 教師や監修役の旧年度三年生の三役たちが居並ぶ前です。普通は彼らを気にして、ではこれから新年度の生徒会役員の選出を始めますとかなんとか言い方がありそうなものですが・・・。ワシオ君は一事が万事こんな感じでした。

 その生徒会の席上、わたしは二年生8クラス16名の中で勇気を振り絞って手を挙げたのです。

「あの・・・、書記なら、やります」

「おう、ありがと。君、名前は?」

「三組の、ハヤカワミオです」

「ミヨ?」

「ミオ。澪標(みおつくし)のミオです」

「わかった。じゃあ、書記はハヤカワで決まりね。イエィ! 他、副会長ともう一人の書記やってくれる人・・・。頼むよ~。誰かやってくれよォ~」

 彼はそう言いながら黒板の書記と書かれた文字の下に「早川澪」と名前を書いてくれました。端正な彼の相貌に似合いの、美しい筆跡でした。自分の名前を他人に書かれるのは様々な場面であることですが、それまでのどの名前よりも愛おしい文字に思えました。


 

 そんなわけでその日の放課後、わたしは月に一度の生徒会報用のガリ版を作っていたのです。

「原稿集まった?」

「うん。あとは、ワシオ君のコラムだけ、かな」

「・・・おおっ! やるなあ、みんな。・・・ということは、もしかしてオレ待ち?」

「・・・うん」

「悪ぃ。じゃ、急いで書くわ」

 そう言うとワシオ君はケースからギターを取り出してストーブの傍の椅子に座り調弦を始めました。そしてそのままイントロを奏で始めたのです。

 それは美しい旋律の、奇妙な魅力を持った歌詞の曲でした。

「"Jai Guru Deva Om…"」

 こんな風に曲を弾きながら頭の中に原稿を書くのが彼のやり方でした。最初は他のメンバーもわたしもビックリしましたが、すぐに慣れ、彼のコラムの執筆はわたしの心の潤いを充填する憩いの時間になりました。

 歌い終わると、彼はギターを置いてわたしの真向かいに座りました。

「書けたよ」

 わたしがもう一組の鉄筆セットを渡すと、蝋紙をセットし即書き始めました。普通は鉛筆で紙に下書きして推敲を重ねてから蝋紙に取り掛かるものですが、

「だって、面倒じゃん。これなら一回で済むだろう」

 彼はなんでもそうでした。

 試験勉強も毎日の予習復習も、

「だって面倒じゃん。オレ、一回教科書読めばだいたい覚えちゃうんだ」

 予習復習はもちろん、一度も試験勉強なんかやったことが無いというのです。授業で一度教科書を読めば足りると。

 サッカー部の練習にもあまり参加しませんでした。それなのに、試合では何度もハットトリックを出すほど優秀な成績を収めているので彼をレギュラーから外せないのだと、同じサッカー部の男子が言うのを聞いたことがあります。マークされるとすぐに誰かにパスして、誰も予想していなかったところに現れてもらったボールを簡単に蹴ってしまう。アイツが蹴ると何故か入っちまうんだこれが、と。そんなヤツを外せるか? と。同級生はわたしに苦虫を噛み潰したような顔で言いました。

「ボールがどこに来るか、ある程度予測できれば、どこからどう突っ込めばいいかわかるだろ。オレはただそうしてるだけなんだけどなあ・・・」

 要するに、彼は天才なのでした。

 凡人のわたしが理解できるわけがないのです。彼には凡人のわたしたちに見えないものが見えるのです。

 それから何十年かして、そのころのワシオ君のような選手がワールドカップ日本代表として活躍しているのをテレビで見ました。

「何故オレのパスについて来れないんだ!」

 ドイツ大会に出場した後引退し、その後実業家に転身したその選手が言い残した言葉はまさにあの頃のワシオ君にそっくりでした。天才とは、凡人がどれだけ努力しても彼の域に達することが出来ないというのが理解できない人種なのでしょう。

 また脱線してしまいました。高校時代に戻ります。

 

「ワシオ君・・・」

「んん?」

「さっき歌ってたのも、ビートルズ?」

「『アクロス・ザ・ユニバース』」

 ガリ版原紙をガリガリ書きながら、ワシオ君は答えました。

「ここでハヤカワに問題です。これはポールの曲でしょうか、ジョンでしょうか」

 そう言う間にも、彼は物凄い速さでガリ版を書いてゆきます。しかも、一生懸命書いた私より美しい筆跡で。ひとつの間違いもなく。

 それまで何度かの会報作りがありましたが、最初は副会長ももう一人の書記も参加していたのです。それが徐々に、

「悪いけど、塾があるから」「どうしても部活、抜けられないんだ。記事を集めるのはやるからさ、まとめるのはお願いできないかなあ・・・」

 みんなそんな言い訳をして三回目ぐらいから広報作りはワシオ君と二人きりになることがほとんどでした。彼は不真面目な他の役員たちを嘆き、終始わたしに「悪ぃなあ」と言ってくれましたが、わたしは密かに他の役員たちに感謝していたのです。だって彼らはワシオ君との二人きりの時間を作ってくれているわけですから。

 その甘い時間の中で、彼はいろんなことを教えてくれました。レノン=マッカートニーというのも彼から教わりました。どちらかが詩担当でどちらかが曲というのではなく、これはポールの、これはジョンの曲というふうになっているのだと。

 ネットのない時代です。今のようにスマートフォンでグーグルやウィキペディアさえ開けば何でも教えてくれるような便利なものはありません。女の子が知らない分野の情報を手にする手段は限られていました。ですが今にして思えば、限られていたからこそ却って良かったのではないでしょうか。

「ワシオ君はジョンとポール、どっちが好き?」

「う~ん、難しいなあ。メロディーラインが綺麗なのはポールだし、リリックが優れているのはジョンだしなあ・・・」

 ワシオ君が歌っていた曲はメロディーも詩もどっちも素敵な曲でした。

「・・・降参」と私は言いました。

 見上げると、優しい顔がありました。

「こっちはできた。そっちは?」

 わたしがローラーに蝋紙をセットするのに四苦八苦していると、

「これな、コツがあるんだ」

 彼が代わりにやってくれました。各階の掲示板の数だけの枚数を印刷して来月の広報づくりは終わりました。

「今回もありがとな。まだ時間あるだろ。お礼にコーヒー奢るよ。さっきの問題の解答はそこで教えてあげる」





・・・・・・・・・・・・・


いつもお付き合いいただきありがとうございます。

「エッセイ・ノンフィクション」カテゴリーに「take 5(ちょっと休憩)」という名前で小説や日々の雑感やなんかをつらつら書いてます。

本作の各話のうんちくなんかも書いてます。

お時間ありましたらお立ち寄り下さい。
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