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46  Isn't She Lovely

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 目をつぶるとヨドガワ主任の顔が浮かんできます。

「わたし、高校の時、コレと同じのがありましたよ」

 お前、バカだろ!

 なんであんなこと言うんだっつーの!

 あたし処女じゃありません、つってるようなもんだろうっつうの!

 でも胸の中の片隅では、それでいいんじゃないの? という自分もいたのです。

「ぶりっこ」

 そういう言葉が流行ったのは長女を産んでからだったと思います。

 そのきっかけは、ディズニーのアニメ映画で氷の魔女になった姉を助けようとする妹のキャラクターボイスを担当した女性シンガー、その彼女のお母さんです。

 そのお母さんが芸能界にデビューしたての頃、

「ぶりっこ」

 と呼ばれていて、それが流行語になりました。

 今彼女は、娘を連れて全国辻浦々のホテルでディナーショーに忙しいようだと、芸能界の動向に詳しい孫娘から聞きました。

 ですが、それは置いておいて・・・。

 ヨドガワ主任はそんな「ぶりっこ」の女なんか嫌いだろう。

 何の根拠もない直感でしたが、そう思い込んでの発言だったのでした。

 それが、「ちょっと、早まっちまったか・・・」と気になっていたのです。

 眠れないのは、そのせいでした。

 眠る努力はしました。

 ですが、それでもやってこない睡魔に業を煮やし、結局一人で慰めました。

 虚しさから逃れたかった。ストレスも溜まりまくっていました。とにかくスカッとしたかったのです。

 思いっきり淫らな、ミジメなシチュエーションでイキたいと思いました。思う存分、死ぬほどイカされていたマスターとのセックスから随分ご無沙汰だったのもあったでしょうし、バレーから離れてしばらく身体を動かしていなかったせいもあったでしょうし、部長の独りよがりなセックスが続いていてタマっていたのもあったでしょう。とにかく、わたしは欲求不満の塊だったのです。


 

 かつて、ヤクザ映画というジャンルがありましたが、70年代は実録シリーズというのが流行った時期でした。高倉健、菅原文太、松方弘樹・・・このヤクザ映画を彩ったスターたちがここ十数年ほどで相次いでお亡くなりになりました。当時は彼らの全盛の時代でした。

 わたしはこのヤクザ映画が、大好きでした。

 あの、ヤクザの世界の男と男のホモっぽいカラミが、えも言われぬ快感を呼ぶのでハマってしまっていたのです。孫娘から「ボーイズラブ」というのを教わりましたが、わたしが嵌っていたのはそれに近いかもしれません。

 ヒマになるとよく映画館に通ったものです。観客は男性のサラリーマンが多く、女性一人でそういう映画を見に行くのはハゲしくレアな行為でした。派手なアロハシャツの前をはだけてお腹にサラシを巻いたような、その筋の方々もよくお見かけしました。その方々が「健さん・・・」とか呟きながら泣いているのを見ると、「なんか、カワイイ・・・」と思ってしまうこともありました。

 

『高倉の兄貴! こんどのヘタレ組の組長を殺る鉄砲玉、オレがやります。

 ああん? なんだと?

 兄貴はムショから出て来たばかり。姐さんはこの日をずっと待っていらしたんです。そのアニキがまた・・・。そうなったらオレは姐さんになんって言えばいいんスか。オレがやります! やらせて下さいっ!

 バキっ!

 生意気言ってんじゃねえっ! まだ女も抱いてねえようなケツの青い小僧がきいたふうなことを言ってんじゃねえよ。そういうのはな、好いた女と思いを遂げてから言え。・・・好きなんだろ? ミモザのマリのこと・・・。

 ・・・ア、アニキ・・・。

 ミオはな、今ヘタレのヤブナカのヤサにいるんだ。

 あ、姐さんが? あのヘタレ組の組長のとこにですか・・・。

 そうだ。アタシがアイツの気を引いてる間に、油断したとこを殺って・・・、て書置きまでしてな。

 あ、姐さん・・・。そんなことまで・・・。

 ひっぱたいてドヤしつけたんだが、ちょっと目ェ離したすきに、アイツ、行っちまいやがった。こんなバカなオレのために、そこまでバカやってくれる女、いねえよ。

 アイツは、ミオは必ずオレが助け出す。おう、テツ。オレがまたムショ行ったら、ミオを、頼むな。

 ア、アニキ・・・』

 で、相手のイヤらしい組長というのが、あの脂ぎった部長なのです。わたしは甘んじて部長の組長にイヤらしいイタズラをされ、組長を油断させるのです。

 ところが、あまりな快感につい本気になってしまい、トロトロにイカされまくってしまうのです。愛する健さんのために身を投げ出したのに。心までは奪われまいと思っていたのに・・・。愛する男を裏切りそうになることに、身悶えするのです。

「ああん、そん・・・、やああん・・・。そこ、そん、・・・イヤああん」

『へっへ。上玉だな。あんな健みたいなヤツのところにいるより、オレの女になれば店の一つも持たせてやるぞ。どうだ、んん? オレの女になれ、ミオ・・・』

「ダメ・・・それは、ああ、そんなにしたら、あはああんっ! 主任、ヨドガワ主任、許して。ミオは、ミオは・・・」

 ん?

 いつの間にか、高倉健がヨドガワ主任になっていました。

 ヨドガワ主任をこんなイヤらしい妄想に勝手に出演させてしまったことへの罪悪感で、快感が数倍になって襲ってきました。

「ああっ! も、もうダメっ、ミオは、こんな下劣な部長に、こんなヤラしいことされて悦んでる女なの・・・。も、イク。・・・ああっ、あ、イクぅ~っ! ・・・んんんん」

 実際に部長にされるより、はるかに深くイッてしまい、醒めた後の自己嫌悪がヒドかったです。

 主任はきっと、こんな女はイヤだろうな・・・。

 そう思うと、あんな部長と関係していることに深く後悔してしまう日々でした。


 

 自己嫌悪は深かったですが、生理的にはたいへんスッキリして目覚め、仕事に行きました。おやつの時間まで待ちなさいと言われたケーキをフライングして食べてしまい、ママへの言い訳を考えている子供のような気分でした。

 積算資料を片手に役所の施設課に行きカウンター越しにサカイさんを呼び出してもらいました。

 市役所の制服を着た、わたしより二つ三つ年上らしい銀縁メガネのさっぱりした男の人が向こう側に立ちました。ネームプレートに「境」とあります。

「カナリホームズ南国支店のハヤカワと申します。よろしくお願いします」

 そう言って名刺を差し出すと、コクっと一つ頷いてくれました。わかってますよ、という意味です。それから黙って積算資料のページをめくり、

「あの~、ここのところなのですが~」

 とかいいつつ、最後の合計額のところだけを出して、サカイさんの顔を見ながらペンで指します。金額が合っていれば、一つ頷き、合っていなければ、

「高すぎるかなあ」とか「低すぎるかなあ」とわたしのほうではなく明後日(あさって)の方を向いて呟きます。

 サカイさんはひとつ頷いただけでした。合っている、ということです。

 ひとつ、ホッとします。次いで、金額の下に「15」と書き入れます。最低制限価格の指数のことです。予定価格の15パーセントマイナスまではOKという意味です。彼はそれにも一つ頷きました。これで官製談合が成立したわけです。もちろん、法律に違反する行為です。露見すればわたしの会社だけでなく、予定価格を漏らした彼も罰せられます。

「官製談合」というと役所の役人がワイロをとるのをイメージされる人がいるかもしれません。ですが、わたしの知る限り、それは誤ったイメージだと思います。これでわたしの会社が利益を得るのはもちろんですが、彼らもまた、大きな利益になるのです。

 役所の担当者が望むのは円滑な仕事の運営なのです。

 ある公共事業が計画されると、その事業にどれくらいの予算がかかるかを試算します。それには外部のコンサルタント会社が関わります。当然ですが、そのコンサルタント会社も指名競争か随意契約かで選ばれます。

 予算ができるとそれが議会にかけられ、議員たちの質問攻めにあっても大丈夫なように事務方は夜遅くまで汗水たらして問答集を作ります。

 議会で予算が承認されて初めてそれを具体化してゆく作業に移りますが、施工に困難が予想されたり複雑な工事の場合は実際に施工する可能性のある企業が設計に加わるケースもあります。その場合、役所の担当者としては出来れば設計に協力してくれた企業、この場合はわたしの会社、「鹿成建設」子会社の「(株)カナリホームズ南国支社」に請け負ってもらいたい、落札してもらいたいのです。

 設計に協力してもらっているので細かい説明など必要なく安心して任せられるからです。それだけで彼らの労力負担はかなり軽減されます。仮にもし何も知らない企業が最低制限価格スレスレで落札しようものなら、手間はかかるわ、もしかすると儲けを出すために手抜きをするんじゃないかと心配になるからです。業者が手抜き工事をしたりすると監督部署である彼らの責任になってしまいます。出来るならば入札の必要が無い随意契約をしてしまいたいのですが、金額が大きいと議会で問題になるのでやむを得ず入札にかけるのです。

 利害関係が一致するのでワイロの必要はなく、逆にワイロを受け取ったりすると彼らの上役に危険視されて睨まれ、昇進出来なくなってしまうこともあるのです。

 わたしが二件目の金額を確認してもらっていると、サカイさんの課のトップの課長から声を掛けられました。ゴマシオ頭の痩せぎすの優しそうな人です。

「キミ、ヨドガワんとこの子?」

「ハイ。ハヤカワと申します。よろしくお願いします」

「それ、終わったら来てくれる?」

 三件の確認が終わりサカイさんにお礼を言って課長の席に行くと、課長は無言でウンと頷きました。サカイさんはこの課長の指示で予定価格を教えてくれたのです。

 他の会社の営業マンの名刺がたくさん並んだ課長の机の上に名刺を置きました。課長はわたしの名刺を拾い上げて眺めながら、

「・・・へえ。ハヤカワ君か。キミ、この辺の子じゃないだろ。出身はどこだ」

「北海道です」

「おおー、北海道かあ。・・・で、ここへは転勤でか?」

「・・・実は親会社の、本社からなんです」

「あ・・・、なある、ほど。・・・そうかあ。そりゃまた、大変だな。・・・ま、よろしく頼むな。帰ったらさ、ヨドガワに『落ち着いたらまた飲もう』って伝えてくれるか?」

「ハイ。かしこまりました。・・・こちらこそ、よろしくお願いします」

 彼はいろいろ察してくれたようで、気持ちは複雑でした。

 課長がわたしに声を掛けたのはナンパしようとかスキを見て誘って頂いちゃおうとかのイヤらしい目的ではありません。かかわる人間の素性、どこの誰でどういう人間かをきちんと把握していくことは重要だからです。課長も自分が危ないことをしているのは百も承知なのです。

 オフィスに戻り、まだヨドガワ主任が戻っていなかったので、指示された通り手書きで「札」を作りました。学生時代、女子寮の「札」ではずいぶんお世話になりましたが、札は札でも、入札の「札」です。

 記録が残るワープロはダメです。自分の会社の金額を予定価格の96~95パーセントぐらいに設定して、他の入札者に配る札を作って配るためです。もちろん、ウチの会社が入れる札より高い金額を書きます。金額の多寡にもよりますが、大体1~3パーセントぐらいの間隔を置いて、ランダムに、時には僅差の札も作り、ワザとらしくないように作るのがコツです。

 同時に金額を書いたものを入れる封筒も作ります。入札参加社はすでに公表されているので、それを全て案件ごとにリストにし、入札件名、金額を記入していきます。封筒の肩にも小さく社名を記入して、そこまでやり終えると主任が出社してきました。

「早よ。行ってきたか?」

「おはようございます。これです」

「ちょっと・・・」 

 主任と二人で応接室に籠ります。

 設計書とわたしの作った札の表を見てチェックをしてもらい、OKなら表を一社ごと短冊状にハサミで切り、その短冊を封筒に入れてゆきます。そうしてもう一度二人でダブルチェックをして完成です。最後に封筒の束を二人で分けて、

「オレこっち届けるから、お前こっち頼む。各社の場所、わかるな?」

「はい」

 入札に参加するメンバーに札の金額を届けるのです。談合に応じた各社はその金額を入札書に記入し応札します。結果今回この三件はわたしの会社が落札する。入札会場にいるすべての会社と入札を実施する役所の全てが、全ての案件でそれが行われていることを暗黙の裡に了解しているのでした。部長の父親のような保守党の議員も役所に口利きをしてそれこそワイロを取る。そういう世界です。知らないのは革新系の議員さんぐらいで、彼らが入札会場に入って来ることはまずありません。大学で核物理を学んでいたわたしが、まさかこんな世界に来て、こんなことすることになるとは思ってもみませんでした。ですが、それがわたしの仕事だったのです。

「それとな、今度の入札、お前行ってみるか」

 主任は封筒の束で掌をパンパンと叩きながら楽しそうにわたしの反応を見ていました。

「・・・わたしがですか」

 イキナリでビックリしました。

「責任重大だぞ。でも、何事もチャレンジだ。やってみろ。無事落札したらまたラーメン奢ってやる」

「ハイ・・・。頑張ります。あ、それから・・・」

「あ?」

「施設課長さんが、またこんど飲みに行こう、だそうです」

「はは・・・。そうか。どうやらまた仕事くれるらしいな」

 主任と顔を見合わせてニンマリと笑い合いました。どことなく、なんとなく、幸せを感じました。


 

 本当たまらないぐらい可愛いんだよ

 こんなに素晴らしいことがあったのかって

 何もかもが尊い存在なんだ

 さっき奇跡の瞬間が起こったばかりさ

 想像もできなかったよ 

 二人で歩んでいく道の先にこんな素敵な出会いが待っているだなんて

 二人が繋いだ愛の形がこんなに愛おしいだなんて・・・


 

 入札に参加するメンバーの会社に確実に札の数字を届ける。手渡した人の名前を確認し覚える・・・。

 そういう気の張る配達の中であっても、わたしはどことなく楽しい幸せな気分でハンドルを握っていました。FMから流れて来るスティーヴィー・ワンダーの軽快で楽し気でハッピーな気分を高めてくれる曲を聴きながら、ふと、

「もしかするとわたし、主任と結婚するかも・・・」

 自然に口笛すら吹きながら、バカげた妄想をしてしまうのでした。

 この人なんかいいな・・・。

 ここへ転勤してきてからずっと思い続け、でもサインはことごとくスルーされ続け、そのうちにあの気持ちの悪い部長の手に墜ち、淫らなプレイにだんだん嵌りつつある今もなお、そんな能天気な妄想ができる自分に驚いてさえいたのです。

「案外そうなるかも。子供も生まれて、ハッピーな人生が待っているのかも・・・」

 きっと、自分を信頼して重要な役割を任せてくれたことが嬉しかったのだと思います。束の間の夢であってもいいから、投げやりな日々を送っていた現実から逃げたかったのかもしれません。まだ若かったといえばそれまでの話ですが、使命を与えられるというのは、何故か人を前向きにするものなのです。
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