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第47話『幻影の回廊──記憶と現実の狭間』
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魔導工房への扉が開いた瞬間、俺たちは淡い靄に包まれた。
空気はひどく湿り気を帯びていて、まるで時間そのものが止まっているかのような静寂が支配していた。
「っ……これは……」
美優が胸元を押さえて呻いた。
「幻影魔法です。これは……精神に干渉する類いの」
ヴェルの表情が引きつっている。いつもは冷静な彼が、薄く唇を噛んだのを見て、ただごとではないと直感した。
「……分断された」
レオンの声が、空気に吸い込まれるようにして消えた。
気がつけば、俺たちはそれぞれ別の空間に立たされていた。
◆ ◆ ◆
気がつけば俺は、あの無機質な廊下に立っていた。
コンクリートの壁に、鋼鉄の扉。低く唸る蛍光灯。閉塞的で、どこか冷たい空気。
──ここは、日本の刑務所。
懐かしい、というより、重苦しい記憶が胸を押し潰してくる。
「眞嶋看守、また自殺未遂だ。付き添い頼む」
背後から響く声に、俺は無意識に返事をしていた。数年前、あのときと同じように。
錆びたドアの向こうには、若い男がうずくまっていた。目に生気はなく、手首から血を流しながら、俺を見上げて──笑った。
「あなたに……助けてほしかったんですよ」
声が、心を刺す。
これは幻影だ。そう分かっている。だが、止められなかった現実の後悔が、胸をえぐるように疼く。
「どうして、あの時声をかけてくれなかったんですか?」
「……俺は……」
言葉が、喉に詰まった。
正義感だと信じていた。規律を守ることが最善だと。だが、それは俺の思考を止める“逃げ”だった。
「お前の命を、俺は……無視したんだ」
幻の囚人は、血の涙を流して笑った。これは俺自身の罪だ。誰よりも俺がよく知っている。
だからこそ──逃げてはいけない。
「俺はあの時、間違っていた。今さら言い訳もできないし、許されるとも思ってない」
俺は幻の青年に歩み寄った。彼の前に膝をつき、その肩に手を置いた。
「……だけど、俺はここでやり直す。命の重さから逃げない。あんたの分も、背負って、生きる」
青年の姿が、ふっと揺れて、光の粒になって散った。
気づけば、俺はまた魔導工房の回廊に戻っていた。
湿った空気。遠くから聞こえる、美優の祈りの声。仲間の誰かが幻を乗り越えた気配がする。
──俺は、もう過去に縛られない。
今は俺の目の前に、救うべき命がある。仲間がいて、戦う理由がある。
「……行くぞ。ここで、立ち止まってなんかいられない」
剣を握り直し、幻の残り香の中を、俺はひとり歩き出した。
◆ ◆ ◆
──白い。
目の前に広がるのは、あの病院の隔離病棟だった。
壁も天井も、シーツさえも真っ白で、無機質な消毒の匂いが鼻を突く。窓の向こうでは、パトカーの赤色灯が無遠慮に光を放ち、報道クルーのざわめきが、かすかに響いていた。
……そう。ここは私が最期を迎えた場所。
「綾瀬さん……また一人、だめでした」
防護服を着た若い医師が、力なく言った。私は動けず、ただベッドの中からうなずくしかなかった。
生き残ったことが、罪のように感じていた。
「助けられなかった……私には、何もできなかった……」
そう呟いたときだった。窓ガラスに、もう一人の私が映っていた。真っ青な顔。口元にはマスク。疲れ切った目は、どこか死んだ魚のようだった。
「──じゃあ、なんであんたは生きてんの?」
彼女──もう一人の“私”が言った。
「感染して、苦しんで、命を落とした人がどれだけいたか分かってる? 医療従事者だからって偉そうにして、結局、何も救えなかった。あんたも、そのひとりでしょ」
「違う……私は……」
声が震える。否定したい。でも、本当は──分かってた。
私だって、怖かった。死ぬのが怖かった。患者の手を握るとき、心のどこかで「私にうつさないで」と思っていた。
「それでも私は、逃げなかった……! 怖くても、手を離さなかった!」
幻の私が、一瞬だけ目を見開いた。
私は、涙を流しながら、言葉を紡ぐ。
「無力だったかもしれない。でも、それでも……あの時、命に寄り添おうとした。見捨てなかった。私が、生き残った意味は……今、ここで誰かを癒やすことにある!」
胸の奥から、光が溢れる感覚がした。
幻の私は黙って頷き、そして──微笑んだ。
その姿は白い光に包まれ、やがて霧のように消えていった。
私は静かに瞼を閉じ、深く息を吐いた。
──私は、癒やしのために生きている。
幻影が晴れたとき、回廊の向こうで、眞嶋さんが振り返っていた。彼の目にも、微かに涙がにじんでいた。
私たちは、無言でうなずき合う。
過去は消えない。けれど、それを抱いて歩いていく。
私は、今を生きる。
◆ ◆ ◆
──静かだった。
あまりに静かすぎて、世界の音が消えたのかと錯覚した。
俺は、見覚えのある塔の中に立っていた。
石造りの壁、幾何学紋様の彫られた書棚。天井まで届く巨大な書庫の中、窓から差す光すらなかった。ただ淡く浮かぶ術式の灯りが、部屋をぼんやりと照らしている。
ここは──師に師事していた、魔導学院の最奥部。
足音一つ響かせないまま、黒いローブを纏った老人が姿を現す。
「……感情に支配される者に、真理は扱えぬ」
その声を、俺は何度夢に見たか分からない。
「ヴェル・カーティス、お前は“魔導士の器”に非ず」
その言葉と共に、俺の前途は閉ざされた。十三歳にして史上最年少で術式学を修めたにもかかわらず、感情的すぎると判断され、正式な認定を与えられなかった。
「感情は歪みだ。歪んだ者が使う魔法は、災厄を生む」
「……じゃあ、あんたの言う“真理”って何だよ」
俺は静かに言い返した。過去の自分では口にできなかった言葉を。
「命を捨てさせることか? 仲間を計算で切り捨てることか? それを“理”と呼ぶなら、俺は魔導士をやめてもいい」
老人は無言だった。
だが、それはもはや“過去の幻影”でしかない。
「今の俺には……一緒に進む仲間がいる。力を使う理由がある」
俺の周囲に、仲間たちの姿が一瞬だけ重なる。隼人、美優、ベルン、そして──レオン。
「“感情”は、俺を縛るものじゃない。“感情”があるから、俺は選べるんだ」
そう告げた瞬間、宙に浮かんでいた術式が、音を立てて崩れ落ちた。
重圧がすっと消える。世界が淡く光に包まれる。
──幻影は、俺を試したんだ。
かつての俺が否定したものを、今の俺が肯定できるかどうか。
「……まったく、えげつない仕掛けを残してくれたもんだな、アルセリス」
皮肉を込めて呟くと、消えていた扉が開き、仲間の気配が感じられた。
もう迷いはない。
俺は、魔導士だ。
感情を持って、それでも“守る”と決めた魔導士だ。
◆ ◆ ◆
──鉄の匂いが鼻を刺した。
「また……ここかよ」
レオン・グレイアッシュは薄く眉をひそめ、剣を握った。
目の前に広がるのは、地の底のような暗黒の戦場。焼け焦げた大地に、倒れた兵士たちの屍。そのすべてが、自分と共に戦った仲間たち──否、かつての戦友であり、希望だった者たち。
「レオン、お前は“あの日”、何を見ていた?」
血に濡れたローブを纏い、漆黒の杖を手に現れたのは、魔導士アルセリス──の幻影だった。
「……てめぇの顔なんざ、幻で十分だ」
レオンはそう吐き捨てたが、その声にはかすかな震えが混じっていた。
あの戦い。魔王を討った最後の戦線。
そして、彼は見たのだ。勝利の代償として、アルセリスの瞳に浮かんだ“何か”を。
狂気とも絶望ともつかぬ、心の深淵。
「お前は、気づいていたんじゃないのか? あのとき、俺が“何かに憑かれていた”ことに」
幻影のアルセリスが静かに問う。
「なのに、お前は黙っていた。止めなかった」
「……違う」
レオンの声は低く、しかし確かだった。
「止められなかったんだ。俺は、てめぇの中に残ってた“人間”を、信じちまった」
その信頼は、裏切られた。
あのとき止めていれば──そんな思いを、何度繰り返したか。
「それが俺の“罪”だ。てめぇに何も言えず、信じたまま戦いを終わらせちまったことが」
レオンは、剣を構える。
「だから今度は、迷わねぇ。てめぇが堕ちたってんなら──今度は俺が、叩き斬る」
幻影のアルセリスが歪み、叫び、消えていく。
周囲の幻影も、音を立てて崩れ去る。
燃える大地は光に包まれ、静けさを取り戻していた。
レオンは剣を下ろし、肩で息をしながら呟いた。
「……終わったわけじゃねぇ。ここからだ。俺の、戦いは」
そして彼は、仲間の元へと歩み出す。
新たな“正義”を、信じられる仲間と共に築くために。
◆ ◆ ◆
──それは、思い出の香りと共に始まった。
陽の光が差し込む木造の小さな家。窓の外では、赤子の泣き声が響いていた。
「……うそだろ……ここは……」
ベルン・タルカは呆然と呟いた。
彼の前には、かつて自分が“守るべきだった家族”が確かに存在していた。
妻が赤子を抱き、笑っている。あの頃の、何よりも大切だった光景。
「パパ、おかえりーっ!」
幼い娘が駆け寄ってくる幻影。
ベルンは無意識に膝をつき、その小さな体を抱きしめた。
「……会いたかった。ずっと……」
けれど、そのぬくもりはやがて淡く溶けはじめる。
「ベルン……どうして、帰ってきてくれなかったの?」
妻の声が響く。
「私たち……ずっと、待ってたのに」
「パパ、どうしてママ泣いてるの……?」
幻影の家族の顔が、次第に血のように赤く染まっていく。
「やめろ……やめてくれ……!」
ベルンは頭を抱え、叫んだ。
かつて、ある盗賊事件の濡れ衣を着せられ、彼は無実の罪で投獄された。
帰れなかった。訴えも届かなかった。
彼は家族を守れなかったのだ。
「……俺が悪い。全部、俺のせいだ……っ!」
頬に伝う大粒の涙。
──そのとき、背後からふと声が響いた。
「けど、あんた……今のあんたは、逃げてない」
それは──監獄で出会った誰かの、言葉だった気がした。
目を開けると、目の前にいた娘の幻影が、優しく微笑んでいた。
「パパ、今、がんばってるんでしょ?」
「わたし、それ、ぜーんぶ知ってるもん!」
幻影の娘が、笑って小さな手を差し出してくる。
「だから、大丈夫。もう、自分を責めないで」
ベルンは、その手をそっと握りしめた。
「……ありがとう。パパ、まだやれるよな」
その瞬間、全ての幻が風に吹かれるようにほどけていった。
幻影の空間は砕け、再び仲間たちの元へと戻る出口が見える。
「待たせたな……みんな」
ベルンのその大きな背中には、もう迷いはなかった。
家族に誓った「守る」という意志は、今ここで、新たなかたちとなって輝いていた。
◆ ◆ ◆
それぞれが試練を超え、再び集まった俺たちは、無言でうなずき合った。
幻影は、ただの幻ではなかった。
それは、心の奥底に封じてきた“痛み”そのものだった。
「……これが、アルセリスの仕掛けた試練か」
レオンが渋い声で呟いた。
「だとしたら、ここは……“心の闇”を越えなければ進めない迷宮だ」
だが、俺たちはもう進むしかなかった。
待ち受ける真実に、正面から向き合うために──
※
今回の【幻影回廊】編では、主人公・隼人や美優、ヴェルといった主要キャラたちの“幻影”と向き合う姿を一人称で描いてきましたが、レオンとベルンのパートについては、あえて三人称の文体を選びました。
それは、彼らが「過去に向き合う瞬間」を、読者の視点から客観的に描きたかったからです。
特にレオンは、“勇者”という存在でありながら一度は戦いから逃げた過去を持ちます。彼の葛藤と再起は、自ら語らせるよりも、「一歩引いた視点」で見ることで、その痛みや決意がより際立つと考えました。
またベルンは、家族への悔恨という、非常にパーソナルな想いを抱えているキャラクターです。彼の“弱さ”と“優しさ”を繊細に描写するために、一人称ではなく三人称で彼の内面を浮かび上がらせるよう意識しました。
どちらの人物も、主人公と並ぶほどの“戦士”でありながら、それぞれに「守れなかったもの」や「背負ったもの」がある──
その重さと、再び前に進む決意を読者の皆さまに静かに伝えるための演出として、文体の使い分けを行いました。
少しでも彼らの心に寄り添っていただけたら嬉しいです。
空気はひどく湿り気を帯びていて、まるで時間そのものが止まっているかのような静寂が支配していた。
「っ……これは……」
美優が胸元を押さえて呻いた。
「幻影魔法です。これは……精神に干渉する類いの」
ヴェルの表情が引きつっている。いつもは冷静な彼が、薄く唇を噛んだのを見て、ただごとではないと直感した。
「……分断された」
レオンの声が、空気に吸い込まれるようにして消えた。
気がつけば、俺たちはそれぞれ別の空間に立たされていた。
◆ ◆ ◆
気がつけば俺は、あの無機質な廊下に立っていた。
コンクリートの壁に、鋼鉄の扉。低く唸る蛍光灯。閉塞的で、どこか冷たい空気。
──ここは、日本の刑務所。
懐かしい、というより、重苦しい記憶が胸を押し潰してくる。
「眞嶋看守、また自殺未遂だ。付き添い頼む」
背後から響く声に、俺は無意識に返事をしていた。数年前、あのときと同じように。
錆びたドアの向こうには、若い男がうずくまっていた。目に生気はなく、手首から血を流しながら、俺を見上げて──笑った。
「あなたに……助けてほしかったんですよ」
声が、心を刺す。
これは幻影だ。そう分かっている。だが、止められなかった現実の後悔が、胸をえぐるように疼く。
「どうして、あの時声をかけてくれなかったんですか?」
「……俺は……」
言葉が、喉に詰まった。
正義感だと信じていた。規律を守ることが最善だと。だが、それは俺の思考を止める“逃げ”だった。
「お前の命を、俺は……無視したんだ」
幻の囚人は、血の涙を流して笑った。これは俺自身の罪だ。誰よりも俺がよく知っている。
だからこそ──逃げてはいけない。
「俺はあの時、間違っていた。今さら言い訳もできないし、許されるとも思ってない」
俺は幻の青年に歩み寄った。彼の前に膝をつき、その肩に手を置いた。
「……だけど、俺はここでやり直す。命の重さから逃げない。あんたの分も、背負って、生きる」
青年の姿が、ふっと揺れて、光の粒になって散った。
気づけば、俺はまた魔導工房の回廊に戻っていた。
湿った空気。遠くから聞こえる、美優の祈りの声。仲間の誰かが幻を乗り越えた気配がする。
──俺は、もう過去に縛られない。
今は俺の目の前に、救うべき命がある。仲間がいて、戦う理由がある。
「……行くぞ。ここで、立ち止まってなんかいられない」
剣を握り直し、幻の残り香の中を、俺はひとり歩き出した。
◆ ◆ ◆
──白い。
目の前に広がるのは、あの病院の隔離病棟だった。
壁も天井も、シーツさえも真っ白で、無機質な消毒の匂いが鼻を突く。窓の向こうでは、パトカーの赤色灯が無遠慮に光を放ち、報道クルーのざわめきが、かすかに響いていた。
……そう。ここは私が最期を迎えた場所。
「綾瀬さん……また一人、だめでした」
防護服を着た若い医師が、力なく言った。私は動けず、ただベッドの中からうなずくしかなかった。
生き残ったことが、罪のように感じていた。
「助けられなかった……私には、何もできなかった……」
そう呟いたときだった。窓ガラスに、もう一人の私が映っていた。真っ青な顔。口元にはマスク。疲れ切った目は、どこか死んだ魚のようだった。
「──じゃあ、なんであんたは生きてんの?」
彼女──もう一人の“私”が言った。
「感染して、苦しんで、命を落とした人がどれだけいたか分かってる? 医療従事者だからって偉そうにして、結局、何も救えなかった。あんたも、そのひとりでしょ」
「違う……私は……」
声が震える。否定したい。でも、本当は──分かってた。
私だって、怖かった。死ぬのが怖かった。患者の手を握るとき、心のどこかで「私にうつさないで」と思っていた。
「それでも私は、逃げなかった……! 怖くても、手を離さなかった!」
幻の私が、一瞬だけ目を見開いた。
私は、涙を流しながら、言葉を紡ぐ。
「無力だったかもしれない。でも、それでも……あの時、命に寄り添おうとした。見捨てなかった。私が、生き残った意味は……今、ここで誰かを癒やすことにある!」
胸の奥から、光が溢れる感覚がした。
幻の私は黙って頷き、そして──微笑んだ。
その姿は白い光に包まれ、やがて霧のように消えていった。
私は静かに瞼を閉じ、深く息を吐いた。
──私は、癒やしのために生きている。
幻影が晴れたとき、回廊の向こうで、眞嶋さんが振り返っていた。彼の目にも、微かに涙がにじんでいた。
私たちは、無言でうなずき合う。
過去は消えない。けれど、それを抱いて歩いていく。
私は、今を生きる。
◆ ◆ ◆
──静かだった。
あまりに静かすぎて、世界の音が消えたのかと錯覚した。
俺は、見覚えのある塔の中に立っていた。
石造りの壁、幾何学紋様の彫られた書棚。天井まで届く巨大な書庫の中、窓から差す光すらなかった。ただ淡く浮かぶ術式の灯りが、部屋をぼんやりと照らしている。
ここは──師に師事していた、魔導学院の最奥部。
足音一つ響かせないまま、黒いローブを纏った老人が姿を現す。
「……感情に支配される者に、真理は扱えぬ」
その声を、俺は何度夢に見たか分からない。
「ヴェル・カーティス、お前は“魔導士の器”に非ず」
その言葉と共に、俺の前途は閉ざされた。十三歳にして史上最年少で術式学を修めたにもかかわらず、感情的すぎると判断され、正式な認定を与えられなかった。
「感情は歪みだ。歪んだ者が使う魔法は、災厄を生む」
「……じゃあ、あんたの言う“真理”って何だよ」
俺は静かに言い返した。過去の自分では口にできなかった言葉を。
「命を捨てさせることか? 仲間を計算で切り捨てることか? それを“理”と呼ぶなら、俺は魔導士をやめてもいい」
老人は無言だった。
だが、それはもはや“過去の幻影”でしかない。
「今の俺には……一緒に進む仲間がいる。力を使う理由がある」
俺の周囲に、仲間たちの姿が一瞬だけ重なる。隼人、美優、ベルン、そして──レオン。
「“感情”は、俺を縛るものじゃない。“感情”があるから、俺は選べるんだ」
そう告げた瞬間、宙に浮かんでいた術式が、音を立てて崩れ落ちた。
重圧がすっと消える。世界が淡く光に包まれる。
──幻影は、俺を試したんだ。
かつての俺が否定したものを、今の俺が肯定できるかどうか。
「……まったく、えげつない仕掛けを残してくれたもんだな、アルセリス」
皮肉を込めて呟くと、消えていた扉が開き、仲間の気配が感じられた。
もう迷いはない。
俺は、魔導士だ。
感情を持って、それでも“守る”と決めた魔導士だ。
◆ ◆ ◆
──鉄の匂いが鼻を刺した。
「また……ここかよ」
レオン・グレイアッシュは薄く眉をひそめ、剣を握った。
目の前に広がるのは、地の底のような暗黒の戦場。焼け焦げた大地に、倒れた兵士たちの屍。そのすべてが、自分と共に戦った仲間たち──否、かつての戦友であり、希望だった者たち。
「レオン、お前は“あの日”、何を見ていた?」
血に濡れたローブを纏い、漆黒の杖を手に現れたのは、魔導士アルセリス──の幻影だった。
「……てめぇの顔なんざ、幻で十分だ」
レオンはそう吐き捨てたが、その声にはかすかな震えが混じっていた。
あの戦い。魔王を討った最後の戦線。
そして、彼は見たのだ。勝利の代償として、アルセリスの瞳に浮かんだ“何か”を。
狂気とも絶望ともつかぬ、心の深淵。
「お前は、気づいていたんじゃないのか? あのとき、俺が“何かに憑かれていた”ことに」
幻影のアルセリスが静かに問う。
「なのに、お前は黙っていた。止めなかった」
「……違う」
レオンの声は低く、しかし確かだった。
「止められなかったんだ。俺は、てめぇの中に残ってた“人間”を、信じちまった」
その信頼は、裏切られた。
あのとき止めていれば──そんな思いを、何度繰り返したか。
「それが俺の“罪”だ。てめぇに何も言えず、信じたまま戦いを終わらせちまったことが」
レオンは、剣を構える。
「だから今度は、迷わねぇ。てめぇが堕ちたってんなら──今度は俺が、叩き斬る」
幻影のアルセリスが歪み、叫び、消えていく。
周囲の幻影も、音を立てて崩れ去る。
燃える大地は光に包まれ、静けさを取り戻していた。
レオンは剣を下ろし、肩で息をしながら呟いた。
「……終わったわけじゃねぇ。ここからだ。俺の、戦いは」
そして彼は、仲間の元へと歩み出す。
新たな“正義”を、信じられる仲間と共に築くために。
◆ ◆ ◆
──それは、思い出の香りと共に始まった。
陽の光が差し込む木造の小さな家。窓の外では、赤子の泣き声が響いていた。
「……うそだろ……ここは……」
ベルン・タルカは呆然と呟いた。
彼の前には、かつて自分が“守るべきだった家族”が確かに存在していた。
妻が赤子を抱き、笑っている。あの頃の、何よりも大切だった光景。
「パパ、おかえりーっ!」
幼い娘が駆け寄ってくる幻影。
ベルンは無意識に膝をつき、その小さな体を抱きしめた。
「……会いたかった。ずっと……」
けれど、そのぬくもりはやがて淡く溶けはじめる。
「ベルン……どうして、帰ってきてくれなかったの?」
妻の声が響く。
「私たち……ずっと、待ってたのに」
「パパ、どうしてママ泣いてるの……?」
幻影の家族の顔が、次第に血のように赤く染まっていく。
「やめろ……やめてくれ……!」
ベルンは頭を抱え、叫んだ。
かつて、ある盗賊事件の濡れ衣を着せられ、彼は無実の罪で投獄された。
帰れなかった。訴えも届かなかった。
彼は家族を守れなかったのだ。
「……俺が悪い。全部、俺のせいだ……っ!」
頬に伝う大粒の涙。
──そのとき、背後からふと声が響いた。
「けど、あんた……今のあんたは、逃げてない」
それは──監獄で出会った誰かの、言葉だった気がした。
目を開けると、目の前にいた娘の幻影が、優しく微笑んでいた。
「パパ、今、がんばってるんでしょ?」
「わたし、それ、ぜーんぶ知ってるもん!」
幻影の娘が、笑って小さな手を差し出してくる。
「だから、大丈夫。もう、自分を責めないで」
ベルンは、その手をそっと握りしめた。
「……ありがとう。パパ、まだやれるよな」
その瞬間、全ての幻が風に吹かれるようにほどけていった。
幻影の空間は砕け、再び仲間たちの元へと戻る出口が見える。
「待たせたな……みんな」
ベルンのその大きな背中には、もう迷いはなかった。
家族に誓った「守る」という意志は、今ここで、新たなかたちとなって輝いていた。
◆ ◆ ◆
それぞれが試練を超え、再び集まった俺たちは、無言でうなずき合った。
幻影は、ただの幻ではなかった。
それは、心の奥底に封じてきた“痛み”そのものだった。
「……これが、アルセリスの仕掛けた試練か」
レオンが渋い声で呟いた。
「だとしたら、ここは……“心の闇”を越えなければ進めない迷宮だ」
だが、俺たちはもう進むしかなかった。
待ち受ける真実に、正面から向き合うために──
※
今回の【幻影回廊】編では、主人公・隼人や美優、ヴェルといった主要キャラたちの“幻影”と向き合う姿を一人称で描いてきましたが、レオンとベルンのパートについては、あえて三人称の文体を選びました。
それは、彼らが「過去に向き合う瞬間」を、読者の視点から客観的に描きたかったからです。
特にレオンは、“勇者”という存在でありながら一度は戦いから逃げた過去を持ちます。彼の葛藤と再起は、自ら語らせるよりも、「一歩引いた視点」で見ることで、その痛みや決意がより際立つと考えました。
またベルンは、家族への悔恨という、非常にパーソナルな想いを抱えているキャラクターです。彼の“弱さ”と“優しさ”を繊細に描写するために、一人称ではなく三人称で彼の内面を浮かび上がらせるよう意識しました。
どちらの人物も、主人公と並ぶほどの“戦士”でありながら、それぞれに「守れなかったもの」や「背負ったもの」がある──
その重さと、再び前に進む決意を読者の皆さまに静かに伝えるための演出として、文体の使い分けを行いました。
少しでも彼らの心に寄り添っていただけたら嬉しいです。
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描いて下さる絵師さんも募集中、要相談Xにて。
どうも、命中率0%の最弱村人です 〜隠しダンジョンを周回してたらレベル∞になったので、種族進化して『半神』目指そうと思います〜
サイダーボウイ
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この世界では15歳になって成人を迎えると『天恵の儀式』でジョブを授かる。
〈村人〉のジョブを授かったティムは、勇者一行が訪れるのを待つ村で妹とともに仲良く暮らしていた。
だがちょっとした出来事をきっかけにティムは村から追放を言い渡され、モンスターが棲息する森へと放り出されてしまう。
〈村人〉の固有スキルは【命中率0%】というデメリットしかない最弱スキルのため、ティムはスライムすらまともに倒せない。
危うく死にかけたティムは森の中をさまよっているうちにある隠しダンジョンを発見する。
『【煌世主の意志】を感知しました。EXスキル【オートスキップ】が覚醒します』
いきなり現れたウィンドウに驚きつつもティムは試しに【オートスキップ】を使ってみることに。
すると、いつの間にか自分のレベルが∞になって……。
これは、やがて【種族の支配者(キング・オブ・オーバーロード)】と呼ばれる男が、最弱の村人から最強種族の『半神』へと至り、世界を救ってしまうお話である。
「キヅイセ。」 ~気づいたら異世界にいた。おまけに目の前にはATMがあった。異世界転移、通算一万人目の冒険者~
あめの みかな
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秋月レンジ。高校2年生。
彼は気づいたら異世界にいた。
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科学ではなく魔法が発達した、もうひとつの地球を舞台に、秋月レンジとふたりの巫女ステラ・リヴァイアサンとピノア・カーバンクルの冒険が今始まる。
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