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【第二章】第十四話『隣国ヴァロワ王国』
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魔女の館の広間には、蝋燭の炎がゆらめき、壁に掛けられた古びたタペストリーが淡く浮かび上がっていた。外から吹き込む夜風が古木を軋ませ、低い音を響かせる。
長椅子に身を預けたヴァルセリアが、黒曜石のような瞳でじっとセリーヌを見据えた。
「さて、セリーヌ。次はどう動くつもりだ?」
胸の奥で渦巻いていた黒い熱が、言葉となって形を結ぶ。セリーヌは迷いなく答えた。
「隣国――ヴァロワに潜入します。王女を乗っ取り、いずれは今の王国の王妃として玉座に座る。そして第三王子レオンハルトや侯爵家を、一族ごと滅亡させます」
ぱち、と暖炉の炎が弾け、ヴァルセリアの唇に愉悦の笑みが浮かんだ。
「ふふ……冷たく鮮やかな計画だ。おまえの舌からそれが出るとはね」
立ち上がった彼女は、棚から黒革の古書を取り出し、卓上に広げる。羊皮紙には古びた地図と血のように赤い印が刻まれていた。
「ヴァロワ王国……あそこはかつて、おまえの国と百日戦争を繰り広げた宿敵だ。今は交易の笑みを浮かべつつ、裏では互いの喉笛を狙っている」
彼女の白い指が地図上の王都をなぞる。
「首都ルヴェール。白い城壁と七つの尖塔を持つ王宮。その奥に王女エリシアの居室がある。豪奢な金糸の間の裏手、“祈りの小部屋”こそが彼女の心臓部だ」
セリーヌは静かに息を潜め、耳を澄ます。
「この前の赤子の奪取――あれは小さな予行演習だった。幻惑で目を誤魔化し、心を緩めさせる。王女を奪うのも同じ手口だ。ただし、彼女は民の憧れを集める存在。しかも噂では男嫌いのレズビアンだ。失敗すれば、その場で首を落とされるだろう」
ヴァルセリアは細い指でセリーヌの顎を持ち上げ、暗く微笑んだ。
「だが、その危うさこそ最高の香辛料。おまえが王女となった暁には、レオンハルトも三姉妹も、膝下で喉を裂かれる」
炎が揺れ、セリーヌの左眼ネクロサイトに深紅の光が宿る。それは、普通の人間には見えない幻覚を紡ぎ、人心を操る禁忌の力。胸奥に、冷たく甘美な未来の光景が広がっていった。
広間は静寂に包まれ、蝋燭の炎が壁に掛けられた古びたタペストリーを淡く照らしていた。外の森からは風が枝を揺らす音が聞こえ、夜気がかすかに冷たさを運んでくる。
ヴァルセリアは高い背もたれの椅子にもたれ、長いまつげの奥からニールを鋭く見据えた。
「ニール、セリーヌについて行っておやりなさい」
その声は低く、命令でありながらどこか甘やかす響きがあった。
「勿論ですよ、ご主人様」
即座に応じるニールの瞳は、忠誠心とわずかな高揚を宿していた。しかし、ヴァルセリアは彼の顔をじっと見つめ、小さく口角を上げた。
「けれど、流石に隣国に行くには……そのつぎはぎだらけの、美しいけれど異様な顔では、人間には通じないわね」
白く細い指先が招くように動く。
「さぁ、こっちにいらっしゃい」
ニールが静かに歩み寄ると、ヴァルセリアは低く古代語を紡ぎ始めた。声に合わせて紫がかった光が彼を包み込み、縫い目は一つずつ溶けるように消えていく。皮膚は滑らかに整い、かつての異様さは跡形もなく、美青年の姿が形作られていった。
「……ご主人様、前の方が良かったのに」
その声には、子どもが大切な玩具を失ったような拗ねた響きが混じっていた。
「なーに、主人公に同行しているだけだよ。目立たない方が都合がいい」
ヴァルセリアは軽く笑みを浮かべると、棚の奥から赤黒く粘る液体の入った小瓶を取り出した。中身が揺れるたび、どろりとした光沢が不気味にきらめく。
「お前の復讐劇は、私の糧。せいぜい楽しませておくれよ。……これは餞別だ。毎日食べるんだよ」
ニールは眉をひそめ、小瓶を覗き込む。
「中身は……なんです?」
「聞かない方がいいよ」
その一言に、部屋の空気が一段と冷たく沈んだ。ヴァルセリアは意味深な笑みを浮かべたまま、二人を夜の森へと送り出した。こうして、闇と復讐の香りを纏った旅路が静かに始まった。
ヴァルデンシュタインに足を踏み入れたとき、空は茜色から群青へと変わりつつあった。瓦屋根が西日を受けて朱く染まり、通りを行き交う人々の影は長く伸びている。旅塵をまとったセリーヌは、遠くに見える城の尖塔を一瞥し、唇の端をわずかに上げた。
「今日はもう日が暮れそうね。まずは宿を探しましょう」
ニールが短く頷く。いきなり城へ向かうのは無謀だ。たとえ《ネクロサイト》で人心を操れる力を持っていても、それは永遠に持続するわけではない。まずは地に足をつけ、情報と立場を整える必要があった。
二人は石畳の大通りを進み、軒先から暖かな灯りと人いきれが漂う宿屋を見つけた。木の看板には簡素な杯の絵が彫られている。扉を開けた瞬間、濃厚な肉と酒の香りが鼻をくすぐった。
「ここにしましょう。情報を得るなら酒場が一番よ」
宿屋の奥にある酒場は、すでに夕食を楽しむ客で賑わっていた。長卓の上には肉汁の染みた皿と泡立つ麦酒のジョッキが並び、酔客たちは陽気に肩を組み歌い、杯を打ち鳴らしている。
セリーヌが一歩足を踏み入れた瞬間、その喧騒がわずかに沈んだ。異国の香りを纏った絶世の美女の姿に、視線が一斉に吸い寄せられる。
「お嬢さん、こっちで一杯どうだ!」
「いや、俺の席で飲もうじゃないか!」
口々に誘う男たち。セリーヌは柔らかな笑みを浮かべ、すすめられる杯を自然に受け取った。壁際に立つニールは、その光景を面白がるように片眉を上げて見ている。
「まるで蜂蜜に群がる蜂だな」
低く呟く声には皮肉と愉悦が混じっていた。
セリーヌは男たちと軽く言葉を交わしながら、さりげなく城の話を切り出す。酒の勢いもあってか、彼らはすぐに口を開いた。
「王女様はな、町の連中からは好かれてるが、男はまるで寄せつけねぇ」
「それに、いつも傍にはゴリアテって近衛兵隊長がいる。変な虫が王女に近づこうもんなら、裏でこっそり消すって話だ」
「ゴリアテはとにかく凶暴だ。地位に就く前は闘技場の猛者で、何度も相手を粉砕してきたらしい。元は奴隷だったって話だぜ」
ジョッキを打ち鳴らす音や笑い声の中、噂話は熱を帯びていく。その一つ一つが、セリーヌの脳裏に冷たい計算となって刻まれた。王女に近づくためには、この“壁”を突破しなければならない。その現実に、彼女の瞳は夜の刃のように鋭さを増していった。
「ところでお姉さんは、なんでこの国のことをそんなに詳しく聞くんだい?」
唐突な問いに、私は手をぴたりと止めた。木の杯を握る指先に、わずかに力がこもる。酔いで赤らんだ顔の男の問いかけだが、確かに少し聞きすぎたかもしれない――そう思った瞬間、返答の言葉が喉の奥で絡まった。
「おっさんも察しろよ」
間髪入れず、隣にいたニールが割って入った。にやりと口角を上げ、わざとらしく肩をすくめる。その声は、場の空気をほどよく揺らす軽さを帯びていた。
「若い男女が隣国からわざわざ来てるってことは、のっぴきならない男女のあやってもんだよ」
男たちの間に笑いが走る。ひとりが身を乗り出し、声を潜めて尋ねた。
「まさか駆け落ちかい?」
「まあ、少なくとも隣国のスパイじゃないことだけは確かだよ」
ニールはそう言ってジョッキを軽く掲げ、喉を鳴らして酒をあおった。その仕草は妙に自然で、酔客たちの警戒心をあっさりと解いてしまう。
「それでな、なんかお城で二人とも働けるいい仕事がないかなと思って、さっき女房に聞いてもらってたんだ」
そう言いながら、ニールは顎で私を示す。わざと得意げな顔を作るその様子に、周囲の視線が再び集まった。
「だっておっさんたち、俺の女房見て鼻の下伸ばして、さっきまで口が軽かっただろ?」
図星を突かれ、数人がばつの悪そうに笑った。そのうちのひとりが「ああ」と声を上げ、思い出したように指を鳴らす。
「そういえば、お城で家事や洗濯をする女中と、馬の世話をする奴を募集してたよ」
「ほら、そこにも貼ってあるだろう」
指差した先、酒場の壁に貼られた紙切れが暖色の灯りに揺れていた。粗末な紙に大きく『急募 住み込み可』と書かれた文字が、私の目にくっきりと映る。それは、思いがけず掴んだ今夜の収穫だった。
====================================================
登場人物紹介
■ セリーヌ=クロフォード
本作の主人公。没落農家の娘として生まれるが、侯爵家に買われ下働きとなる。 第三王子レオンハルトや侯爵家三姉妹に水牢や拷問で辱められ、追放される。 ノクトホロウの森で魔女ヴァルセリアに拾われ、過酷な儀式によって左眼に《ネクロサイト》──“幻覚を見せ、人心を操る”能力を宿す。 現在は復讐のため隣国ヴァロワ王国へ潜入し、王女エミリアに取り入り現王国を滅ぼそうとしている。
■ ヴァルセリア=グレイム
数百年を生きる魔女。赤子の血や絶望を糧とし、復讐心に満ちた者を好んで育てる。 セリーヌに《屍語の儀式》《血溜めの沐浴》《使い魔との共喰い》《絶叫の反響壺》《カルマの魔紋刻印》の五つの儀式を課し、闇のしもべとして鍛え上げた。 気まぐれな口調の裏に、冷酷な観察者としての本質を隠している。
■ ニール=スティッチ
ヴァルセリアの使い魔。もとは全身が継ぎ接ぎされた少年だったが、ヴァロワ潜入のため魔女の魔法で美青年の姿へと変えられた。 軽口と皮肉を好み、戦闘・諜報・調達に優れた有能な相棒。 酒場での会話術も巧みで、セリーヌの危うい質問をさりげなくカバーするなど、現地での橋渡し役を担う。
■ レオンハルト=リヴィエラ
現王国の第三王子。王位継承権はないが、容姿と弁舌で女性人気が高い。 セリーヌの初恋を踏みにじり、侯爵家三姉妹と共に彼女を辱めた張本人。 表では気品ある王子を装い、裏では弱者を切り捨てる冷酷さを持つ。
■ イザベラ=ヴァン=グランディール
侯爵家長女。支配的で冷酷な性格。 セリーヌを水牢に投獄し、歯を抜く拷問を命じた。 まだ復讐は果たされていない。
■ マリーベル=ヴァン=グランディール
侯爵家次女。策略家で、人を辱める場面を好む嗜虐趣味の持ち主。 熱した金属や針を使ってセリーヌを痛めつけた。 まだ復讐は果たされていない。
■ シャルロッテ=ヴァン=グランディール
侯爵家三女。無邪気さを仮面にした純粋残酷。 水責めや鞭打ちに加担し、笑って見物していた。 まだ復讐は果たされていない。
■ ロガン(復讐済)
侯爵家の庭師。セリーヌを嘲笑し、ノクトホロウの森に誘い込む。 ヴァルセリアの術でオーク化され、ベルゼべブにより処分された。
■ 赤子を奪われた従者(復讐済)
侯爵家の従者で妻子持ち。かつてセリーヌを蔑ろにした。 幻惑によって妻を夫と誤認させられ、赤子を奪われる報復を受けた。
■ ロガンに食われた女中(復讐済)
侯爵家の女中。日常的にセリーヌを嘲弄し、私物を切るなどの嫌がらせを行った。 復讐として呪具化したロガンに捕らわれ、そのまま喰われた。
■ ゴリアテ
ヴァロワ王国の近衛兵隊長。王女エミリアの護衛として常に行動を共にする。 元奴隷で、闘技場で数々の対戦相手を粉砕してのし上がった経歴を持つ。 凶暴かつ忠誠心が高く、“王女に近づく虫”を秘密裏に処分してきたと噂される。
■ エミリア(ヴァロワ王女)
隣国ヴァロワ王国の王女。美貌と気品を備えるが、男を寄せ付けず、噂では女性にしか心を開かないという。 政略結婚を避け続けているが、真意は不明。セリーヌの潜入先かつ標的候補。
■ 酒場の酔客たち(モブ)
城下町の酒場で情報をくれた地元民。王女や城の噂話、城の求人情報を語る。 セリーヌの美貌に鼻の下を伸ばし、ニールにからかわれる。
長椅子に身を預けたヴァルセリアが、黒曜石のような瞳でじっとセリーヌを見据えた。
「さて、セリーヌ。次はどう動くつもりだ?」
胸の奥で渦巻いていた黒い熱が、言葉となって形を結ぶ。セリーヌは迷いなく答えた。
「隣国――ヴァロワに潜入します。王女を乗っ取り、いずれは今の王国の王妃として玉座に座る。そして第三王子レオンハルトや侯爵家を、一族ごと滅亡させます」
ぱち、と暖炉の炎が弾け、ヴァルセリアの唇に愉悦の笑みが浮かんだ。
「ふふ……冷たく鮮やかな計画だ。おまえの舌からそれが出るとはね」
立ち上がった彼女は、棚から黒革の古書を取り出し、卓上に広げる。羊皮紙には古びた地図と血のように赤い印が刻まれていた。
「ヴァロワ王国……あそこはかつて、おまえの国と百日戦争を繰り広げた宿敵だ。今は交易の笑みを浮かべつつ、裏では互いの喉笛を狙っている」
彼女の白い指が地図上の王都をなぞる。
「首都ルヴェール。白い城壁と七つの尖塔を持つ王宮。その奥に王女エリシアの居室がある。豪奢な金糸の間の裏手、“祈りの小部屋”こそが彼女の心臓部だ」
セリーヌは静かに息を潜め、耳を澄ます。
「この前の赤子の奪取――あれは小さな予行演習だった。幻惑で目を誤魔化し、心を緩めさせる。王女を奪うのも同じ手口だ。ただし、彼女は民の憧れを集める存在。しかも噂では男嫌いのレズビアンだ。失敗すれば、その場で首を落とされるだろう」
ヴァルセリアは細い指でセリーヌの顎を持ち上げ、暗く微笑んだ。
「だが、その危うさこそ最高の香辛料。おまえが王女となった暁には、レオンハルトも三姉妹も、膝下で喉を裂かれる」
炎が揺れ、セリーヌの左眼ネクロサイトに深紅の光が宿る。それは、普通の人間には見えない幻覚を紡ぎ、人心を操る禁忌の力。胸奥に、冷たく甘美な未来の光景が広がっていった。
広間は静寂に包まれ、蝋燭の炎が壁に掛けられた古びたタペストリーを淡く照らしていた。外の森からは風が枝を揺らす音が聞こえ、夜気がかすかに冷たさを運んでくる。
ヴァルセリアは高い背もたれの椅子にもたれ、長いまつげの奥からニールを鋭く見据えた。
「ニール、セリーヌについて行っておやりなさい」
その声は低く、命令でありながらどこか甘やかす響きがあった。
「勿論ですよ、ご主人様」
即座に応じるニールの瞳は、忠誠心とわずかな高揚を宿していた。しかし、ヴァルセリアは彼の顔をじっと見つめ、小さく口角を上げた。
「けれど、流石に隣国に行くには……そのつぎはぎだらけの、美しいけれど異様な顔では、人間には通じないわね」
白く細い指先が招くように動く。
「さぁ、こっちにいらっしゃい」
ニールが静かに歩み寄ると、ヴァルセリアは低く古代語を紡ぎ始めた。声に合わせて紫がかった光が彼を包み込み、縫い目は一つずつ溶けるように消えていく。皮膚は滑らかに整い、かつての異様さは跡形もなく、美青年の姿が形作られていった。
「……ご主人様、前の方が良かったのに」
その声には、子どもが大切な玩具を失ったような拗ねた響きが混じっていた。
「なーに、主人公に同行しているだけだよ。目立たない方が都合がいい」
ヴァルセリアは軽く笑みを浮かべると、棚の奥から赤黒く粘る液体の入った小瓶を取り出した。中身が揺れるたび、どろりとした光沢が不気味にきらめく。
「お前の復讐劇は、私の糧。せいぜい楽しませておくれよ。……これは餞別だ。毎日食べるんだよ」
ニールは眉をひそめ、小瓶を覗き込む。
「中身は……なんです?」
「聞かない方がいいよ」
その一言に、部屋の空気が一段と冷たく沈んだ。ヴァルセリアは意味深な笑みを浮かべたまま、二人を夜の森へと送り出した。こうして、闇と復讐の香りを纏った旅路が静かに始まった。
ヴァルデンシュタインに足を踏み入れたとき、空は茜色から群青へと変わりつつあった。瓦屋根が西日を受けて朱く染まり、通りを行き交う人々の影は長く伸びている。旅塵をまとったセリーヌは、遠くに見える城の尖塔を一瞥し、唇の端をわずかに上げた。
「今日はもう日が暮れそうね。まずは宿を探しましょう」
ニールが短く頷く。いきなり城へ向かうのは無謀だ。たとえ《ネクロサイト》で人心を操れる力を持っていても、それは永遠に持続するわけではない。まずは地に足をつけ、情報と立場を整える必要があった。
二人は石畳の大通りを進み、軒先から暖かな灯りと人いきれが漂う宿屋を見つけた。木の看板には簡素な杯の絵が彫られている。扉を開けた瞬間、濃厚な肉と酒の香りが鼻をくすぐった。
「ここにしましょう。情報を得るなら酒場が一番よ」
宿屋の奥にある酒場は、すでに夕食を楽しむ客で賑わっていた。長卓の上には肉汁の染みた皿と泡立つ麦酒のジョッキが並び、酔客たちは陽気に肩を組み歌い、杯を打ち鳴らしている。
セリーヌが一歩足を踏み入れた瞬間、その喧騒がわずかに沈んだ。異国の香りを纏った絶世の美女の姿に、視線が一斉に吸い寄せられる。
「お嬢さん、こっちで一杯どうだ!」
「いや、俺の席で飲もうじゃないか!」
口々に誘う男たち。セリーヌは柔らかな笑みを浮かべ、すすめられる杯を自然に受け取った。壁際に立つニールは、その光景を面白がるように片眉を上げて見ている。
「まるで蜂蜜に群がる蜂だな」
低く呟く声には皮肉と愉悦が混じっていた。
セリーヌは男たちと軽く言葉を交わしながら、さりげなく城の話を切り出す。酒の勢いもあってか、彼らはすぐに口を開いた。
「王女様はな、町の連中からは好かれてるが、男はまるで寄せつけねぇ」
「それに、いつも傍にはゴリアテって近衛兵隊長がいる。変な虫が王女に近づこうもんなら、裏でこっそり消すって話だ」
「ゴリアテはとにかく凶暴だ。地位に就く前は闘技場の猛者で、何度も相手を粉砕してきたらしい。元は奴隷だったって話だぜ」
ジョッキを打ち鳴らす音や笑い声の中、噂話は熱を帯びていく。その一つ一つが、セリーヌの脳裏に冷たい計算となって刻まれた。王女に近づくためには、この“壁”を突破しなければならない。その現実に、彼女の瞳は夜の刃のように鋭さを増していった。
「ところでお姉さんは、なんでこの国のことをそんなに詳しく聞くんだい?」
唐突な問いに、私は手をぴたりと止めた。木の杯を握る指先に、わずかに力がこもる。酔いで赤らんだ顔の男の問いかけだが、確かに少し聞きすぎたかもしれない――そう思った瞬間、返答の言葉が喉の奥で絡まった。
「おっさんも察しろよ」
間髪入れず、隣にいたニールが割って入った。にやりと口角を上げ、わざとらしく肩をすくめる。その声は、場の空気をほどよく揺らす軽さを帯びていた。
「若い男女が隣国からわざわざ来てるってことは、のっぴきならない男女のあやってもんだよ」
男たちの間に笑いが走る。ひとりが身を乗り出し、声を潜めて尋ねた。
「まさか駆け落ちかい?」
「まあ、少なくとも隣国のスパイじゃないことだけは確かだよ」
ニールはそう言ってジョッキを軽く掲げ、喉を鳴らして酒をあおった。その仕草は妙に自然で、酔客たちの警戒心をあっさりと解いてしまう。
「それでな、なんかお城で二人とも働けるいい仕事がないかなと思って、さっき女房に聞いてもらってたんだ」
そう言いながら、ニールは顎で私を示す。わざと得意げな顔を作るその様子に、周囲の視線が再び集まった。
「だっておっさんたち、俺の女房見て鼻の下伸ばして、さっきまで口が軽かっただろ?」
図星を突かれ、数人がばつの悪そうに笑った。そのうちのひとりが「ああ」と声を上げ、思い出したように指を鳴らす。
「そういえば、お城で家事や洗濯をする女中と、馬の世話をする奴を募集してたよ」
「ほら、そこにも貼ってあるだろう」
指差した先、酒場の壁に貼られた紙切れが暖色の灯りに揺れていた。粗末な紙に大きく『急募 住み込み可』と書かれた文字が、私の目にくっきりと映る。それは、思いがけず掴んだ今夜の収穫だった。
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登場人物紹介
■ セリーヌ=クロフォード
本作の主人公。没落農家の娘として生まれるが、侯爵家に買われ下働きとなる。 第三王子レオンハルトや侯爵家三姉妹に水牢や拷問で辱められ、追放される。 ノクトホロウの森で魔女ヴァルセリアに拾われ、過酷な儀式によって左眼に《ネクロサイト》──“幻覚を見せ、人心を操る”能力を宿す。 現在は復讐のため隣国ヴァロワ王国へ潜入し、王女エミリアに取り入り現王国を滅ぼそうとしている。
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