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第7話:それぞれの夏を目指す理由
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職員室前の廊下は、外の陽射しとは裏腹に、ひんやりとした空気が漂っていた。
風祭球児は、壁にもたれて腕を組み、ぼんやりと窓の外を見ていた。グラウンドでは、他の部活の掛け声が賑やかに響いている。
「……俺が行って意味あるのか?」
ぽつりと呟いた声に、横に立つ千紗が振り返る。
「あるよ。風祭くんは、今や野球部の一員なんだから」
球児は少し視線を外しながらも、「……そうかね」とだけ返す。
隣で三島は、汗ばむ手のひらをズボンで拭いていた。
■
職員室のドアの前。
木の扉の向こうからは、校長の低くしわがれた声がかすかに漏れていた。
その前で、三島大地はまっすぐ立っていた。
とはいえ、その内心は、嵐のように揺れていた。
左手は、制服のポケットの中でぎゅっと拳を握っている。
手のひらにはうっすら汗がにじみ、心臓はさっきからずっと落ち着いてくれなかった。
(言えよ……言うって決めただろ。何のためにここまで来たんだ)
何度も頭の中で繰り返す。だが、声にならない。
ただ、“情けない自分”の記憶が、次々と甦る。
──一年前。
3年の先輩たちが引退し、自分が主将に任命された日。
監督は「お前しかいない」と笑ったけど、内心では“なり手が他にいなかっただけ”とわかっていた。
実力も、統率力も、技術も中の下。
声だけは大きいから目立つけど、正直、キャプテンに向いていると思ったことなんて、一度もない。
(風祭が来たときも、内心ホッとしてた。やっと、本物の“野球選手”が来てくれたって)
でも、球児は距離を取っていて、コーチみたいに冷静で。
自分が三振して泣いたときも、何も言わず、黙っていた。
あの沈黙が、何より堪えた。
(でも……逃げたくなかった)
たとえ誰かに頼られているだけでも、期待されてなくても、
自分は「桜が丘の主将」でいるって、あの日決めた。
練習終わりにこっそり素振りを続けてきたのも、
みんなの背中に、自分が立ってるって思いたかったからだ。
「よし……言うぞ」
深く、深く息を吸い込んだ。
(チームのためにやります、って……それだけ伝えればいい)
言葉が上手くなくてもいい。誰かみたいに理路整然と話せなくても。
“伝えること”が、今の自分にできるすべてなんだ。
コン、コン。
ノックの音が、静かな廊下に響いた。
三島は、震えそうになる膝に力を入れて、一歩、扉の向こうへ足を踏み出した。
たとえ拙くてもいい──この夏を、みんなで“前に進む夏”にするために。
■
「じゃあ、行くぞ」
こくりと千紗がうなずき、三島が扉をノックする。
「失礼します!」
重たいドアがゆっくりと開き、職員室の中の冷気が一気に流れ出てきた。
校長席の奥、書類の山の向こうに、長谷川校長は座っていた。
年季の入った眼鏡を押し上げると、無表情で三人を見渡す。
「……なんだね?」
三島が一歩前に出て、深く頭を下げた。
「僕たち、今年の夏の大会にエントリーさせてください。正式な許可と、部費の追加もお願いに来ました!」
校長は静かにペンを置き、書類を数枚めくってから口を開いた。
「桜が丘野球部……ここ十年、初戦敗退ばかりの記録しかないが?」
「……それは、はい、事実です」
三島の声が少し震える。
「でも、それでも僕たちは、今、必死に変わろうとしてます! 逃げずに、本気で野球に向き合いたいんです!」
校長は机に肘をついたまま、興味なさげにため息をつく。
「本気、ねえ。じゃあ聞くが──何のために“夏”を目指すのかね? 結果が見えてる勝負に、意味があると?」
静まりかえった室内で、千紗が小さく吸い込み、震える声で言葉を繋いだ。
「……意味、あると思います」
校長の視線が千紗に向く。
「意味は……結果じゃないんです。私たちは、きっと……“野球を好きでい続けたい”だけなんです。勝ち負けじゃなくて、ちゃんと、向き合いたいんです」
彼女の目には、うっすらと涙が浮かんでいた。
「この夏を逃したら……きっと、誰かが諦めてしまう。その姿を、私はもう見たくないんです……」
風祭は横で、何も言わずに聞いていた。心の奥に、何かが少しだけ熱くなるのを感じた。
しばらくの沈黙ののち、校長は椅子を少し軋ませて背もたれに体を預けた。
「……分かった。今年の夏だけ、特別に許可しよう。ただし──“本気”を証明できるなら、だ」
三島と千紗は、同時に頭を深く下げる。
「ありがとうございますっ!」
■
夕暮れの職員室に、静寂が戻っていた。
壁の時計が午後五時を回り、窓の外では部活動の声が遠くに聞こえる。
長谷川校長は眼鏡を外し、そっと机の上に置いた。
「まったく……今どきの生徒は、熱すぎるのも困りものだな」
苦笑いしながら、先ほど受け取った書類の束を見つめる。
桜が丘高校野球部──夏の大会エントリー申請書。その紙の端には、震えた文字で記された三島主将の署名があった。
「本気でやりたい」
「負けてもいいから挑みたい」
「今しかできないことだから」
あの子たちが並んで訴えた言葉が、耳に残っていた。
ふと、目線が棚の奥にある古びたボールに向いた。色褪せた縫い目。皮が少し剥げた硬式球。
あれは、まだ彼が“先生”でも“校長”でもなく、ただの野球少年だった頃、最後の夏に握ったボールだった。
──県大会三回戦。0対1で敗退。最後の打席は空振り三振。
あの悔しさを、ずっと「時間が解決する」と言い聞かせてきた。
でも、本当は忘れてなどいなかった。
「……あのとき、誰かが“行け”って背中を押してくれたら、もう一球、バットを振れてたかもしれんな」
誰に聞かせるわけでもなく、呟いた声が静かに職員室に響いた。
長谷川は静かに椅子から立ち上がり、申請書の最終ページに目を通す。
そこには、空欄のままの「エースナンバー」の欄。
「ふむ。まだ“背番号1”が決まっていないか……まあ、それも悪くない」
ペンを取り出すと、赤いインクで書類の承認欄に印を押した。
「たまには……負けると分かっていても挑むのも、いいもんだな」
小さく笑い、机に再び眼鏡を戻す。
遠くで聞こえるキャッチボールの音に、昔の夏が少しだけ重なった。
あのボールの音は、いつの時代も、誰かの“はじまり”の音なのかもしれない。
古びた硬式ボールを手に取ると、ひんやりとした感触が掌に残った。
長谷川校長は、ふっと息をつきながら椅子に腰を下ろし、遠い記憶を探るように窓の外を見つめた。
──昭和五十年、夏。
彼は、桜南高校の三番打者だった。
守備はサード。打率は並だったが、選球眼と粘りでチームに貢献するタイプの選手だった。
あの年、初めて三回戦まで進んだ。
相手は、強豪・青葉学園。エースは甲子園常連の速球派で、プロからも注目されていた。
「お前たちは雑草だ。だが、雑草には雑草の強さがある」
そう口癖のように言っていたのは、当時の監督、志村先生だった。
背中を丸めた小柄な男で、無駄話もせず、いつも黙ってグラウンドを歩いていた。
ただ、その目だけは、いつも“本気”を探していた。
その試合。
長谷川は、九回裏ツーアウト、ランナー二塁という場面で打席に立った。
点差は1点。
ベンチに戻る前、志村先生は一言だけこう言った。
「楽しめ」
それだけだった。
──結果は、三球三振。
バットは振った。だが、心が追いつかなかった。
あのとき、もう少し誰かに“背中を押してもらえたら”と思った。
振り遅れた最後のストレートが、今でも夢に出ることがある。
「志村先生……あんたなら、今のこの子たちに、なんて言うだろうな」
硬球を手のひらで転がしながら、長谷川は独り言のように呟いた。
「“楽しめ”か……。だとしたら、俺はまだその答えに届いてないかもしれん」
外では夕焼けがグラウンドを染め、部活動の掛け声が風に乗って聞こえてくる。
窓の向こう、野球部のバックネットには、ボロボロの横断幕がまだ残っていた。
“挑戦は、終わらせなければ終わらない”
あれは志村先生が去った翌年、教え子たちが勝手に作ったものだ。
「……結局、まだ俺も、挑戦の途中なのかもな」
長谷川はボールを棚に戻すと、ペンを取り、次の書類に目を落とした。
そこには、「桜が丘高校野球部、夏季大会エントリー届」と書かれていた。
今度こそ、“挑む”背中に印をつける番だ。
■
職員室を出ると、午後の光が目に眩しかった。
三島は息を吐き、くしゃくしゃになった書類を胸元でぎゅっと抱えた。
職員室の空気は重く、張りつめていた。
夏の大会エントリーを直談判する場面で、千紗は思わず声を震わせ、涙ぐんでしまった。
必死に言葉を紡ぎながらも、こみあげてくる感情は止められなかった。
「……私たちは、ちゃんと向き合いたいんです」
そう言った瞬間、机の下で両手に握りしめていたハンカチが、きゅっと湿った。
校長の許可が下りたあと、三人は無言で職員室を出た。
廊下を曲がったところで、千紗はそっと一人、立ち止まる。
グッと目を閉じ、ポケットからそのハンカチを取り出す。
淡い水色の、少しほつれた縁取り。古びた刺繍で「S.N.」と書かれていた。
それは兄・修司が中学三年の夏、最後の大会で使っていたものだった。
──「これ、貸してやるよ。試合の時、手ぇ汗かくだろ?」
そう言って渡されたその日、兄はユニフォームの背中が泥だらけになるまでグラウンドを走り、
最後の打席で三振し、ベンチで人目を忍んで泣いていた。
夜、部屋でこっそり千紗に言ったのだ。
「悔しくて泣くのも、嬉しくて泣くのも、野球の中にあるんだよ。たぶん、野球って、そういうもんなんだ」
だから千紗は、その言葉をずっと胸にしまっていた。
そしてハンカチを、今でもカバンの中に入れていた。
職員室では情けないほどに涙が出てしまったけれど──
「……泣いて、よかったかも」
千紗はふと、笑ってそう呟いた。
ポケットにハンカチを戻し、もう一度背筋を伸ばす。
先を歩く球児の背中を見つめる。どこか影を抱えながらも、真っ直ぐな背中。
「風祭くんも……悔しくて泣いたこと、あるのかな」
彼のことを少しずつ知っていくうちに、千紗の中で、ただの転校生ではなくなっていた。
重い荷物を背負って、それでも“何か”に向かおうとしている、その姿が。
ハンカチの中に詰まっていた想いが、今、少しだけ形を変えて、千紗の胸の奥に届いた気がした。
「はあ……言えた。マジで、緊張した……」
「よく頑張ったよ、三島くん。私、泣いちゃってごめん……」
「いや、あの涙のおかげで校長ちょっと引いてた」
三人で笑いあいながら歩き出す。その背中には、ほんの少しだけ自信が宿っていた。
ただ──
球児はふと、ポケットの中から一枚の控え書類を取り出す。
部員名、学年、背番号、ポジション欄。
「ピッチャー」の枠だけが、空白のままだ。
「……俺が投げる理由、まだ見つかってない」
ぽつりと漏らした言葉に、千紗は何も言わなかった。ただ、彼の隣を、同じ歩幅で静かに歩いていた。
真夏の予感を孕んだ風が、ほんの少しだけ優しかった。
■
職員室での校長との直談判が終わった後。
午後の校舎から、夕焼け色がじんわりと滲んでいく。
風祭球児は一人、昇降口の階段に腰を下ろしていた。
手にしていたのは、校長の許可を得て返された「夏季大会エントリー名簿」の控え用紙。
そこには、部員の名前と学年、そしてポジション欄が並んでいた。
──「1 投手」──その枠だけが、ぽっかりと空白だった。
球児はじっと、その欄を見つめる。
ペンを持つ右手が、用紙の上をゆっくり滑る。けれど、文字は書かれない。
「……まだ、投げていいのか、俺には分かんねぇよ」
呟いた声は、誰にも届かない。
まるで自分に言い聞かせるように、球児は目を伏せた。
その夜、自室の机。
風呂上がりの濡れた髪を無造作にタオルで拭きながら、球児はふと机の引き出しを開ける。
中から取り出したのは、くたびれた黒表紙のノート。
中学時代からずっと使っている、いわば“野球記録帳”だった。
「フォーム、スイング軌道、リリース位置、投球間隔、バント処理……」
びっしりと書かれた手書きの分析メモ。その隙間を縫うように、今のチームメンバーの特徴も追加されていた。
三島のグリップの高さ。
捕手の配球意図のクセ。
部員ひとりひとりの投球対応や守備範囲。
読み返すうちに、自分がいつの間にか“他人のためにノートを使い始めていた”ことに気づく。
それは、少しだけ──怖いことでもあった。
ペンを取る。
ノートの新しいページを開いて、球児は静かに一行を書き足す。
「まだ、迷ってる。でも、誰かのために投げるって感覚は──ちょっと悪くない」
書き終えたその言葉を、何度か読み返し、ふっと笑った。
「……やっぱ、俺は“投げる”のが好きなんだな」
遠くから、夜風がカーテンを揺らす。
その音が、どこかグラウンドの風の音に似ていた。
風祭球児は、壁にもたれて腕を組み、ぼんやりと窓の外を見ていた。グラウンドでは、他の部活の掛け声が賑やかに響いている。
「……俺が行って意味あるのか?」
ぽつりと呟いた声に、横に立つ千紗が振り返る。
「あるよ。風祭くんは、今や野球部の一員なんだから」
球児は少し視線を外しながらも、「……そうかね」とだけ返す。
隣で三島は、汗ばむ手のひらをズボンで拭いていた。
■
職員室のドアの前。
木の扉の向こうからは、校長の低くしわがれた声がかすかに漏れていた。
その前で、三島大地はまっすぐ立っていた。
とはいえ、その内心は、嵐のように揺れていた。
左手は、制服のポケットの中でぎゅっと拳を握っている。
手のひらにはうっすら汗がにじみ、心臓はさっきからずっと落ち着いてくれなかった。
(言えよ……言うって決めただろ。何のためにここまで来たんだ)
何度も頭の中で繰り返す。だが、声にならない。
ただ、“情けない自分”の記憶が、次々と甦る。
──一年前。
3年の先輩たちが引退し、自分が主将に任命された日。
監督は「お前しかいない」と笑ったけど、内心では“なり手が他にいなかっただけ”とわかっていた。
実力も、統率力も、技術も中の下。
声だけは大きいから目立つけど、正直、キャプテンに向いていると思ったことなんて、一度もない。
(風祭が来たときも、内心ホッとしてた。やっと、本物の“野球選手”が来てくれたって)
でも、球児は距離を取っていて、コーチみたいに冷静で。
自分が三振して泣いたときも、何も言わず、黙っていた。
あの沈黙が、何より堪えた。
(でも……逃げたくなかった)
たとえ誰かに頼られているだけでも、期待されてなくても、
自分は「桜が丘の主将」でいるって、あの日決めた。
練習終わりにこっそり素振りを続けてきたのも、
みんなの背中に、自分が立ってるって思いたかったからだ。
「よし……言うぞ」
深く、深く息を吸い込んだ。
(チームのためにやります、って……それだけ伝えればいい)
言葉が上手くなくてもいい。誰かみたいに理路整然と話せなくても。
“伝えること”が、今の自分にできるすべてなんだ。
コン、コン。
ノックの音が、静かな廊下に響いた。
三島は、震えそうになる膝に力を入れて、一歩、扉の向こうへ足を踏み出した。
たとえ拙くてもいい──この夏を、みんなで“前に進む夏”にするために。
■
「じゃあ、行くぞ」
こくりと千紗がうなずき、三島が扉をノックする。
「失礼します!」
重たいドアがゆっくりと開き、職員室の中の冷気が一気に流れ出てきた。
校長席の奥、書類の山の向こうに、長谷川校長は座っていた。
年季の入った眼鏡を押し上げると、無表情で三人を見渡す。
「……なんだね?」
三島が一歩前に出て、深く頭を下げた。
「僕たち、今年の夏の大会にエントリーさせてください。正式な許可と、部費の追加もお願いに来ました!」
校長は静かにペンを置き、書類を数枚めくってから口を開いた。
「桜が丘野球部……ここ十年、初戦敗退ばかりの記録しかないが?」
「……それは、はい、事実です」
三島の声が少し震える。
「でも、それでも僕たちは、今、必死に変わろうとしてます! 逃げずに、本気で野球に向き合いたいんです!」
校長は机に肘をついたまま、興味なさげにため息をつく。
「本気、ねえ。じゃあ聞くが──何のために“夏”を目指すのかね? 結果が見えてる勝負に、意味があると?」
静まりかえった室内で、千紗が小さく吸い込み、震える声で言葉を繋いだ。
「……意味、あると思います」
校長の視線が千紗に向く。
「意味は……結果じゃないんです。私たちは、きっと……“野球を好きでい続けたい”だけなんです。勝ち負けじゃなくて、ちゃんと、向き合いたいんです」
彼女の目には、うっすらと涙が浮かんでいた。
「この夏を逃したら……きっと、誰かが諦めてしまう。その姿を、私はもう見たくないんです……」
風祭は横で、何も言わずに聞いていた。心の奥に、何かが少しだけ熱くなるのを感じた。
しばらくの沈黙ののち、校長は椅子を少し軋ませて背もたれに体を預けた。
「……分かった。今年の夏だけ、特別に許可しよう。ただし──“本気”を証明できるなら、だ」
三島と千紗は、同時に頭を深く下げる。
「ありがとうございますっ!」
■
夕暮れの職員室に、静寂が戻っていた。
壁の時計が午後五時を回り、窓の外では部活動の声が遠くに聞こえる。
長谷川校長は眼鏡を外し、そっと机の上に置いた。
「まったく……今どきの生徒は、熱すぎるのも困りものだな」
苦笑いしながら、先ほど受け取った書類の束を見つめる。
桜が丘高校野球部──夏の大会エントリー申請書。その紙の端には、震えた文字で記された三島主将の署名があった。
「本気でやりたい」
「負けてもいいから挑みたい」
「今しかできないことだから」
あの子たちが並んで訴えた言葉が、耳に残っていた。
ふと、目線が棚の奥にある古びたボールに向いた。色褪せた縫い目。皮が少し剥げた硬式球。
あれは、まだ彼が“先生”でも“校長”でもなく、ただの野球少年だった頃、最後の夏に握ったボールだった。
──県大会三回戦。0対1で敗退。最後の打席は空振り三振。
あの悔しさを、ずっと「時間が解決する」と言い聞かせてきた。
でも、本当は忘れてなどいなかった。
「……あのとき、誰かが“行け”って背中を押してくれたら、もう一球、バットを振れてたかもしれんな」
誰に聞かせるわけでもなく、呟いた声が静かに職員室に響いた。
長谷川は静かに椅子から立ち上がり、申請書の最終ページに目を通す。
そこには、空欄のままの「エースナンバー」の欄。
「ふむ。まだ“背番号1”が決まっていないか……まあ、それも悪くない」
ペンを取り出すと、赤いインクで書類の承認欄に印を押した。
「たまには……負けると分かっていても挑むのも、いいもんだな」
小さく笑い、机に再び眼鏡を戻す。
遠くで聞こえるキャッチボールの音に、昔の夏が少しだけ重なった。
あのボールの音は、いつの時代も、誰かの“はじまり”の音なのかもしれない。
古びた硬式ボールを手に取ると、ひんやりとした感触が掌に残った。
長谷川校長は、ふっと息をつきながら椅子に腰を下ろし、遠い記憶を探るように窓の外を見つめた。
──昭和五十年、夏。
彼は、桜南高校の三番打者だった。
守備はサード。打率は並だったが、選球眼と粘りでチームに貢献するタイプの選手だった。
あの年、初めて三回戦まで進んだ。
相手は、強豪・青葉学園。エースは甲子園常連の速球派で、プロからも注目されていた。
「お前たちは雑草だ。だが、雑草には雑草の強さがある」
そう口癖のように言っていたのは、当時の監督、志村先生だった。
背中を丸めた小柄な男で、無駄話もせず、いつも黙ってグラウンドを歩いていた。
ただ、その目だけは、いつも“本気”を探していた。
その試合。
長谷川は、九回裏ツーアウト、ランナー二塁という場面で打席に立った。
点差は1点。
ベンチに戻る前、志村先生は一言だけこう言った。
「楽しめ」
それだけだった。
──結果は、三球三振。
バットは振った。だが、心が追いつかなかった。
あのとき、もう少し誰かに“背中を押してもらえたら”と思った。
振り遅れた最後のストレートが、今でも夢に出ることがある。
「志村先生……あんたなら、今のこの子たちに、なんて言うだろうな」
硬球を手のひらで転がしながら、長谷川は独り言のように呟いた。
「“楽しめ”か……。だとしたら、俺はまだその答えに届いてないかもしれん」
外では夕焼けがグラウンドを染め、部活動の掛け声が風に乗って聞こえてくる。
窓の向こう、野球部のバックネットには、ボロボロの横断幕がまだ残っていた。
“挑戦は、終わらせなければ終わらない”
あれは志村先生が去った翌年、教え子たちが勝手に作ったものだ。
「……結局、まだ俺も、挑戦の途中なのかもな」
長谷川はボールを棚に戻すと、ペンを取り、次の書類に目を落とした。
そこには、「桜が丘高校野球部、夏季大会エントリー届」と書かれていた。
今度こそ、“挑む”背中に印をつける番だ。
■
職員室を出ると、午後の光が目に眩しかった。
三島は息を吐き、くしゃくしゃになった書類を胸元でぎゅっと抱えた。
職員室の空気は重く、張りつめていた。
夏の大会エントリーを直談判する場面で、千紗は思わず声を震わせ、涙ぐんでしまった。
必死に言葉を紡ぎながらも、こみあげてくる感情は止められなかった。
「……私たちは、ちゃんと向き合いたいんです」
そう言った瞬間、机の下で両手に握りしめていたハンカチが、きゅっと湿った。
校長の許可が下りたあと、三人は無言で職員室を出た。
廊下を曲がったところで、千紗はそっと一人、立ち止まる。
グッと目を閉じ、ポケットからそのハンカチを取り出す。
淡い水色の、少しほつれた縁取り。古びた刺繍で「S.N.」と書かれていた。
それは兄・修司が中学三年の夏、最後の大会で使っていたものだった。
──「これ、貸してやるよ。試合の時、手ぇ汗かくだろ?」
そう言って渡されたその日、兄はユニフォームの背中が泥だらけになるまでグラウンドを走り、
最後の打席で三振し、ベンチで人目を忍んで泣いていた。
夜、部屋でこっそり千紗に言ったのだ。
「悔しくて泣くのも、嬉しくて泣くのも、野球の中にあるんだよ。たぶん、野球って、そういうもんなんだ」
だから千紗は、その言葉をずっと胸にしまっていた。
そしてハンカチを、今でもカバンの中に入れていた。
職員室では情けないほどに涙が出てしまったけれど──
「……泣いて、よかったかも」
千紗はふと、笑ってそう呟いた。
ポケットにハンカチを戻し、もう一度背筋を伸ばす。
先を歩く球児の背中を見つめる。どこか影を抱えながらも、真っ直ぐな背中。
「風祭くんも……悔しくて泣いたこと、あるのかな」
彼のことを少しずつ知っていくうちに、千紗の中で、ただの転校生ではなくなっていた。
重い荷物を背負って、それでも“何か”に向かおうとしている、その姿が。
ハンカチの中に詰まっていた想いが、今、少しだけ形を変えて、千紗の胸の奥に届いた気がした。
「はあ……言えた。マジで、緊張した……」
「よく頑張ったよ、三島くん。私、泣いちゃってごめん……」
「いや、あの涙のおかげで校長ちょっと引いてた」
三人で笑いあいながら歩き出す。その背中には、ほんの少しだけ自信が宿っていた。
ただ──
球児はふと、ポケットの中から一枚の控え書類を取り出す。
部員名、学年、背番号、ポジション欄。
「ピッチャー」の枠だけが、空白のままだ。
「……俺が投げる理由、まだ見つかってない」
ぽつりと漏らした言葉に、千紗は何も言わなかった。ただ、彼の隣を、同じ歩幅で静かに歩いていた。
真夏の予感を孕んだ風が、ほんの少しだけ優しかった。
■
職員室での校長との直談判が終わった後。
午後の校舎から、夕焼け色がじんわりと滲んでいく。
風祭球児は一人、昇降口の階段に腰を下ろしていた。
手にしていたのは、校長の許可を得て返された「夏季大会エントリー名簿」の控え用紙。
そこには、部員の名前と学年、そしてポジション欄が並んでいた。
──「1 投手」──その枠だけが、ぽっかりと空白だった。
球児はじっと、その欄を見つめる。
ペンを持つ右手が、用紙の上をゆっくり滑る。けれど、文字は書かれない。
「……まだ、投げていいのか、俺には分かんねぇよ」
呟いた声は、誰にも届かない。
まるで自分に言い聞かせるように、球児は目を伏せた。
その夜、自室の机。
風呂上がりの濡れた髪を無造作にタオルで拭きながら、球児はふと机の引き出しを開ける。
中から取り出したのは、くたびれた黒表紙のノート。
中学時代からずっと使っている、いわば“野球記録帳”だった。
「フォーム、スイング軌道、リリース位置、投球間隔、バント処理……」
びっしりと書かれた手書きの分析メモ。その隙間を縫うように、今のチームメンバーの特徴も追加されていた。
三島のグリップの高さ。
捕手の配球意図のクセ。
部員ひとりひとりの投球対応や守備範囲。
読み返すうちに、自分がいつの間にか“他人のためにノートを使い始めていた”ことに気づく。
それは、少しだけ──怖いことでもあった。
ペンを取る。
ノートの新しいページを開いて、球児は静かに一行を書き足す。
「まだ、迷ってる。でも、誰かのために投げるって感覚は──ちょっと悪くない」
書き終えたその言葉を、何度か読み返し、ふっと笑った。
「……やっぱ、俺は“投げる”のが好きなんだな」
遠くから、夜風がカーテンを揺らす。
その音が、どこかグラウンドの風の音に似ていた。
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※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
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