15 / 35
第15話:『背番号1の責任』
しおりを挟む
早朝の校舎に、まだ生徒の気配はなかった。
グラウンドに面した校舎の四階、古びた教員室の窓から、長谷川校長は湯気の立つマグカップを手にして、外をぼんやり眺めていた。
朝の静寂を破るように、カコン、と乾いた音が風に乗って届いてくる。
「……また来てるか」
視線の先、グラウンドには一人の影。
ピッチャーマウンドに立つ、背番号“1”のユニフォーム。
風祭球児だった。
キャップのつばを指でなぞりながら、一呼吸。
そして、静かにセットポジションに入り、一球を投じる。
そのフォームに、かつての自分を重ねたのは、校長にとって自然なことだった。
「……やっと、“1”の意味を考える奴が現れたか」
かつて、長谷川自身も「背番号1」を目指した選手だった。
だが、怪我と進路の現実に押され、夢を折り畳んで教員となった。
あれから何年も経つ。
グラウンドで汗を流す者たちを見守る立場になった今も、朝焼けのマウンドに立つ者を見ると、胸がざわつく。
球児がまた、投げた。
フォームに、迷いはあっても逃げはなかった。
むしろ、不器用なまでに真っすぐだった。
長谷川は机に戻り、革の手帳を開いた。
カリカリとペンを走らせる。
──風祭球児、ようやく野球と向き合い始める。
文字を見つめ、ふっと口角をゆるめる。
「さて……今年の夏は、もう少し見てみるか」
校長はマグカップの中のぬるくなったコーヒーを啜りながら、再びグラウンドへ視線を戻す。
そこには、朝の光を浴びながら、何度も何度も腕を振る風祭球児の姿があった。
校長室の書棚の最上段には、誰も手を触れない古い木箱がある。
中には、若き日の長谷川自身が着けていた「背番号10」のユニフォームが、今も静かに眠っていた。
その日も、朝の誰もいないグラウンドを見下ろしながら、長谷川は小さく独り言をつぶやいた。
「……俺も、あそこで何度も投げたもんだ」
高校二年の夏。
控えピッチャーとしてベンチを温めながら、夢ばかりを見ていた。
エースにはなれなかった。
けれど、あの日々は確かに、自分の中の「何か」を形づくっていた。
それは、三年の夏の地区予選、ベンチの隅で見上げた夕空の色とともに、今も忘れていない。
「もういいだろ、夢なんて」
そう言ってユニフォームを箱に仕舞ったのは、教師になって間もない頃だった。
以来、彼は一歩もマウンドに立つことはなかった。
選手としても、指導者としても。
──それでも。
人の夢を、誰よりも信じていた。
その背中が、ようやく「野球の朝」に追いついてきたのだ。
ある日。
部活終わりのグラウンド。
長谷川は一人、校舎裏の旧器具倉庫の影からそっと様子を見ていた。
修司が黙ってノックを打ち、球児がただ無言でその球を追いかける。
口を開かず、目も合わさず。
だが──なぜだろう。あの親子には、確かに「会話」があった。
たった一球の送球。
たった一歩のベースカバー。
「血だな……似るもんだよな、背中ってのは」
そう呟いたとき、倉庫の壁に寄りかかっていた手が、思わず小さく震えた。
もう一度、自分にも野球ができたら。
そんな想いを、今さら抱いてしまうことが悔しかった。
でも──だからこそ、彼は願っていた。
風祭親子が、
三島たちが、
桜が丘が。
「俺の代じゃできなかったことを……やってくれ」
長谷川は、再び空を見上げた。
昔と変わらぬ校舎の上に、少しだけ高く昇った夕陽が、頬を照らしていた。
■
朝の陽が昇りきる前、桜が丘高校のグラウンドにはすでに部員たちの姿があった。
乾いた砂の上に立ち尽くす球児の背中には、真新しい背番号――“1”のゼッケンが縫い付けられていた。
「……ついに着たな、あの背番号」
誰かがぽつりとつぶやく。その声に、他の部員たちも思わず手を止めた。
ブルペンの奥から、キャッチャーミットを持った石原がのっそりと現れた。マスク越しに、じっと球児を見据える。
「いくぞ、風祭」
「……ああ」
球児の足元には整えられた土。自分が整備したマウンド。立つのは、あの夜と同じ場所だったはずなのに、空気が違う。背中の“1”が、微かに重く感じる。
第一球。
構えた石原のミットへ、鋭いストレートが突き刺さる。
パンッ!
乾いた音が、グラウンドに響いた。
「ナイスボール!」
三島が声を上げる。続く部員たちの拍手。みな、球児を見つめていた。
が、球児の表情は晴れない。眉間に皺を寄せ、どこか焦っているような投球が続いた。
フォーク、スライダー、ツーシーム。
どれも鋭く落ち、球速も文句なしだったが、石原が一度、マスクを外して言った。
「お前、力入りすぎ。抜くとこ抜けって。俺のミット、壊れるわ」
「……わかってる」
返事をしながらも、球児の目は鋭いままだった。石原はぼそりとつぶやいた。
「……わかってねぇ顔だな」
グラウンドの隅では、修司が腕組みしながら立っていた。何も言わない。ただ、じっと見つめるその姿は、かつてプロ球団のスカウトとして知られた男のまなざしだった。
「……悪くないな」
ぽつりと漏れたその声に、近くで聞いていた三島がちらりと目をやる。
「褒めてるんですか、それ?」
「いや。言葉通りだ」
それだけ言って、修司はくるりと背を向けた。
その頃、千紗はスコアを取りながら、黙って球児の様子を見ていた。
いつかのように、笑って投げる風祭くんではなかった。どこか、押しつぶされそうな目をしている。
練習が一段落した頃、千紗はそっと球児に麦茶のボトルを差し出した。
「はい、麦茶。……ちょっと、顔が怖かったよ、今日の風祭くん」
「……そっか」
受け取った球児は、口をつけながらも目を逸らしていた。
「なんかさ、“結果出さなきゃ”って、そう思ってない?」
球児の手が止まった。
「……背番号1、背負ったんだ。投げるだけじゃダメだって思ってる。……期待されてるなら、ちゃんと勝たなきゃ」
「うん。でも、風祭くんって、もっとこう……野球を“好き”でやってたじゃない?」
千紗は少し照れながら、それでもまっすぐに言った。
「今の風祭くんの顔、ちょっとだけ、好きじゃない」
それは叱責でもなく、励ましでもなく、ただ素直な感想だった。
球児はふっと息を吐き、麦茶を飲み干す。
「……ありがとな。千紗」
「ん? 今、呼び捨てだった?」
「気のせいだ」
そんな会話のあと、球児はまたブルペンへ向かっていった。今度は、少しだけ力の抜けたフォームで。
風が、背番号を揺らしていた。
■
その日、千紗はいつもより早めに練習場に顔を出した。
朝の光に照らされたグラウンドでは、誰より先にユニフォーム姿の風祭球児が立っていた。
彼は黙ってマウンドに上がると、何度かゆっくりと深呼吸をした。
大きく吸い込んで、小さく吐く。
その姿はまるで、見えない重さを一つずつほどいていくようだった。
千紗は少し離れたベンチに座りながら、手帳をそっと開いた。
《風祭くん観察日記 7月×日》
・ピッチャーマウンドに立ったとき、最初だけ少し深呼吸してた。
・そのときの横顔、目つきがいつもより少し鋭くて、でもどこか心細そうだった。
・アップの後、麦茶を渡したら「サンキュ」って言って受け取ってくれた。
・手がほんのり熱かった。きっと、緊張してたんだと思う。
・ブルペンでの投球は、いつもよりテンポが早くて、でもフォームは崩れてなかった。
・石原くんとキャッチボールしたとき、最後の一球のミットの音に、ちょっとだけ顔が緩んでた。
千紗は、そこまで書いたところで、少し迷ってペンを止めた。
球児の背中には「1」のゼッケンがしっかりと縫い付けられていた。
それはまるで、彼がようやく“チーム”に背中を見せた証のようで、
その代わりに、誰かの視線を受け止める覚悟でもあるように思えた。
ページの最後に、千紗はそっと書き添えた。
「今日の風祭くん:強がってたけど、やっぱり、誰かに見ててほしかったのかも」
風が少し吹いた。
手帳のページがふわりと揺れたあと、千紗は目を細めてグラウンドを見つめた。
そこには、背番号“1”の背中を背負ったひとりの投手と、
その背中を静かに見守る仲間たちの姿があった。
■
夕暮れのグラウンド。
練習が終わった後、誰もいないはずの土の上に、一人だけ残っている影があった。
三島大地だ。
キャプテンとして、ノック後のグラウンド整備はもう癖になっていた。
誰にも言われていないし、言うつもりもない。
ただ、静かにトンボをかける時間が、妙に心を落ち着かせた。
スパイクの跡、転んだ跡、踏みしめた跡。
どれも、今日一日を懸命に生きた痕だ。
トンボを止め、ふと視線をベンチの方に向けた。
──風祭球児の背中が、まだそこにあるような気がした。
今日、彼は“背番号1”を着て投げた。
誰にも何も言わず、ただマウンドに立ち、ボールを放っていた。
それは「勝たせてやる」なんて大げさな宣言じゃない。
でも、あの背中にはたしかに、“何かを守ろう”とする意志があった。
三島は帽子を脱ぎ、汗で湿った髪を指でかき上げる。
そしてポケットから自分のユニフォームを引っ張り出すと、背番号“6”の部分をぎゅっと握った。
「……エースってのは、勝つための存在だけじゃねぇんだよな」
そう、ぽつりとつぶやいた。
試合で点を取られても、崩れても、
あの背中が前を向いていたら、チームは立て直せる。
そしてその背中を、前に押し出すのが主将の役目だ。
三島は再びトンボを持ち直し、整地を再開した。
小さな石を避けながら、土の流れをならしながら、
その心はひとつの決意を固めていた。
──この夏、“風祭”と一緒に、負けたくない。
夕陽がグラウンドの端に長く影を伸ばしていく。
その中で、キャプテンの背中もまた、少しだけ強くなっていた。
■
夜。
部活が終わり、シャワーを浴び、夕飯もそこそこに済ませたあと、石原翔太は自室の机に向かっていた。
ベッドの下から引っ張り出したのは、表紙が少し擦れた黒いノート。
誰にも見せたことのない、自分だけの“キャッチングノート”だ。
パラパラとページをめくり、今日の練習の記憶を手繰るようにペンを走らせる。
《7月×日 ピッチングデータ:風祭》
・ストレート:キレ○/球速は安定
・フォーク:握りが少し浅くなってる? 落ちが甘い場面あり
・カーブ:コントロール良/左打者に有効
・ランナーあり:セットに入るとフォームが若干早くなる。球質も軽くなる
石原は顎に手を当て、少し考え込んだ。
今日の風祭は、いつも通り無口だったが、何かが違っていた。
いや、いつも通りじゃないからこそ──違いがはっきり見えたのかもしれない。
“背番号1”を着けて、あいつはマウンドに立った。
言葉にこそしなかったが、その一歩にどれだけの想いがあったか──
キャッチャーとして、石原は受け手として、少しだけわかった気がした。
分析欄の下、空白の余白にペンを走らせる。
「風祭、今日ちょっと重そうだった。
でも、それでも投げるって決めた顔だった。
あの背中、支えてやるのがキャッチャーだよな」
石原はノートを閉じ、キャッチャーミットを棚の上にそっと置いた。
明日もまた、風祭の球を受ける。
それがどんな球であっても、自分はミットを構えて、全力で受け止める。
それが“バッテリー”ってもんだろ、と心の中でつぶやきながら。
■
夜の台所は静かだった。
窓の外で虫の声が遠く聞こえる。蛍光灯の白い光が、ステンレスのポットをかすかに照らしている。
風祭修司は、小さく舌打ちをしてからインスタントコーヒーの瓶を手に取った。
カップに粉を入れ、沸騰した湯を静かに注ぐ。湯気がゆっくりと立ちのぼる。少しだけ、まるで息を吐くように。
「……力んでたな、あいつ」
口に出した瞬間、自分でも気恥ずかしくなって目を伏せる。
あのとき、何も言わなかったのは、言えなかったのではない。
言葉なんかで伝わらないと、わかっていたからだ。
『背番号1』の重み。
修司がかつて背負いきれなかったもの。
だからこそ、息子には、自分の足でそれを越えていってほしかった。
「……結果じゃねぇんだよ」
その声は、コーヒーの香りにまぎれて、夜の静けさに吸い込まれていく。
思えば自分は、いつもそうだった。背中で語ろうとして、距離ばかりつくってきた。
湯気越しに、ぼんやりと浮かぶキャッチボールの記憶。
少年だった球児の手から、ボールが真っ直ぐに届いた日のこと。
それはもう、遠い昔のように思えた。
──もう一度、あいつと向き合えるのなら。
一球ずつ、全部を伝えるしかない。
「わかってくれるまで……投げさせるさ」
コーヒーを一口。苦くて熱い、それはまるで、不器用な自分の愛情のようだった。
ため息まじりにカップを置くと、修司はそっと、古びた練習ノートを開いた。
明日もまた、誰かの背中を押すために──。
グラウンドに面した校舎の四階、古びた教員室の窓から、長谷川校長は湯気の立つマグカップを手にして、外をぼんやり眺めていた。
朝の静寂を破るように、カコン、と乾いた音が風に乗って届いてくる。
「……また来てるか」
視線の先、グラウンドには一人の影。
ピッチャーマウンドに立つ、背番号“1”のユニフォーム。
風祭球児だった。
キャップのつばを指でなぞりながら、一呼吸。
そして、静かにセットポジションに入り、一球を投じる。
そのフォームに、かつての自分を重ねたのは、校長にとって自然なことだった。
「……やっと、“1”の意味を考える奴が現れたか」
かつて、長谷川自身も「背番号1」を目指した選手だった。
だが、怪我と進路の現実に押され、夢を折り畳んで教員となった。
あれから何年も経つ。
グラウンドで汗を流す者たちを見守る立場になった今も、朝焼けのマウンドに立つ者を見ると、胸がざわつく。
球児がまた、投げた。
フォームに、迷いはあっても逃げはなかった。
むしろ、不器用なまでに真っすぐだった。
長谷川は机に戻り、革の手帳を開いた。
カリカリとペンを走らせる。
──風祭球児、ようやく野球と向き合い始める。
文字を見つめ、ふっと口角をゆるめる。
「さて……今年の夏は、もう少し見てみるか」
校長はマグカップの中のぬるくなったコーヒーを啜りながら、再びグラウンドへ視線を戻す。
そこには、朝の光を浴びながら、何度も何度も腕を振る風祭球児の姿があった。
校長室の書棚の最上段には、誰も手を触れない古い木箱がある。
中には、若き日の長谷川自身が着けていた「背番号10」のユニフォームが、今も静かに眠っていた。
その日も、朝の誰もいないグラウンドを見下ろしながら、長谷川は小さく独り言をつぶやいた。
「……俺も、あそこで何度も投げたもんだ」
高校二年の夏。
控えピッチャーとしてベンチを温めながら、夢ばかりを見ていた。
エースにはなれなかった。
けれど、あの日々は確かに、自分の中の「何か」を形づくっていた。
それは、三年の夏の地区予選、ベンチの隅で見上げた夕空の色とともに、今も忘れていない。
「もういいだろ、夢なんて」
そう言ってユニフォームを箱に仕舞ったのは、教師になって間もない頃だった。
以来、彼は一歩もマウンドに立つことはなかった。
選手としても、指導者としても。
──それでも。
人の夢を、誰よりも信じていた。
その背中が、ようやく「野球の朝」に追いついてきたのだ。
ある日。
部活終わりのグラウンド。
長谷川は一人、校舎裏の旧器具倉庫の影からそっと様子を見ていた。
修司が黙ってノックを打ち、球児がただ無言でその球を追いかける。
口を開かず、目も合わさず。
だが──なぜだろう。あの親子には、確かに「会話」があった。
たった一球の送球。
たった一歩のベースカバー。
「血だな……似るもんだよな、背中ってのは」
そう呟いたとき、倉庫の壁に寄りかかっていた手が、思わず小さく震えた。
もう一度、自分にも野球ができたら。
そんな想いを、今さら抱いてしまうことが悔しかった。
でも──だからこそ、彼は願っていた。
風祭親子が、
三島たちが、
桜が丘が。
「俺の代じゃできなかったことを……やってくれ」
長谷川は、再び空を見上げた。
昔と変わらぬ校舎の上に、少しだけ高く昇った夕陽が、頬を照らしていた。
■
朝の陽が昇りきる前、桜が丘高校のグラウンドにはすでに部員たちの姿があった。
乾いた砂の上に立ち尽くす球児の背中には、真新しい背番号――“1”のゼッケンが縫い付けられていた。
「……ついに着たな、あの背番号」
誰かがぽつりとつぶやく。その声に、他の部員たちも思わず手を止めた。
ブルペンの奥から、キャッチャーミットを持った石原がのっそりと現れた。マスク越しに、じっと球児を見据える。
「いくぞ、風祭」
「……ああ」
球児の足元には整えられた土。自分が整備したマウンド。立つのは、あの夜と同じ場所だったはずなのに、空気が違う。背中の“1”が、微かに重く感じる。
第一球。
構えた石原のミットへ、鋭いストレートが突き刺さる。
パンッ!
乾いた音が、グラウンドに響いた。
「ナイスボール!」
三島が声を上げる。続く部員たちの拍手。みな、球児を見つめていた。
が、球児の表情は晴れない。眉間に皺を寄せ、どこか焦っているような投球が続いた。
フォーク、スライダー、ツーシーム。
どれも鋭く落ち、球速も文句なしだったが、石原が一度、マスクを外して言った。
「お前、力入りすぎ。抜くとこ抜けって。俺のミット、壊れるわ」
「……わかってる」
返事をしながらも、球児の目は鋭いままだった。石原はぼそりとつぶやいた。
「……わかってねぇ顔だな」
グラウンドの隅では、修司が腕組みしながら立っていた。何も言わない。ただ、じっと見つめるその姿は、かつてプロ球団のスカウトとして知られた男のまなざしだった。
「……悪くないな」
ぽつりと漏れたその声に、近くで聞いていた三島がちらりと目をやる。
「褒めてるんですか、それ?」
「いや。言葉通りだ」
それだけ言って、修司はくるりと背を向けた。
その頃、千紗はスコアを取りながら、黙って球児の様子を見ていた。
いつかのように、笑って投げる風祭くんではなかった。どこか、押しつぶされそうな目をしている。
練習が一段落した頃、千紗はそっと球児に麦茶のボトルを差し出した。
「はい、麦茶。……ちょっと、顔が怖かったよ、今日の風祭くん」
「……そっか」
受け取った球児は、口をつけながらも目を逸らしていた。
「なんかさ、“結果出さなきゃ”って、そう思ってない?」
球児の手が止まった。
「……背番号1、背負ったんだ。投げるだけじゃダメだって思ってる。……期待されてるなら、ちゃんと勝たなきゃ」
「うん。でも、風祭くんって、もっとこう……野球を“好き”でやってたじゃない?」
千紗は少し照れながら、それでもまっすぐに言った。
「今の風祭くんの顔、ちょっとだけ、好きじゃない」
それは叱責でもなく、励ましでもなく、ただ素直な感想だった。
球児はふっと息を吐き、麦茶を飲み干す。
「……ありがとな。千紗」
「ん? 今、呼び捨てだった?」
「気のせいだ」
そんな会話のあと、球児はまたブルペンへ向かっていった。今度は、少しだけ力の抜けたフォームで。
風が、背番号を揺らしていた。
■
その日、千紗はいつもより早めに練習場に顔を出した。
朝の光に照らされたグラウンドでは、誰より先にユニフォーム姿の風祭球児が立っていた。
彼は黙ってマウンドに上がると、何度かゆっくりと深呼吸をした。
大きく吸い込んで、小さく吐く。
その姿はまるで、見えない重さを一つずつほどいていくようだった。
千紗は少し離れたベンチに座りながら、手帳をそっと開いた。
《風祭くん観察日記 7月×日》
・ピッチャーマウンドに立ったとき、最初だけ少し深呼吸してた。
・そのときの横顔、目つきがいつもより少し鋭くて、でもどこか心細そうだった。
・アップの後、麦茶を渡したら「サンキュ」って言って受け取ってくれた。
・手がほんのり熱かった。きっと、緊張してたんだと思う。
・ブルペンでの投球は、いつもよりテンポが早くて、でもフォームは崩れてなかった。
・石原くんとキャッチボールしたとき、最後の一球のミットの音に、ちょっとだけ顔が緩んでた。
千紗は、そこまで書いたところで、少し迷ってペンを止めた。
球児の背中には「1」のゼッケンがしっかりと縫い付けられていた。
それはまるで、彼がようやく“チーム”に背中を見せた証のようで、
その代わりに、誰かの視線を受け止める覚悟でもあるように思えた。
ページの最後に、千紗はそっと書き添えた。
「今日の風祭くん:強がってたけど、やっぱり、誰かに見ててほしかったのかも」
風が少し吹いた。
手帳のページがふわりと揺れたあと、千紗は目を細めてグラウンドを見つめた。
そこには、背番号“1”の背中を背負ったひとりの投手と、
その背中を静かに見守る仲間たちの姿があった。
■
夕暮れのグラウンド。
練習が終わった後、誰もいないはずの土の上に、一人だけ残っている影があった。
三島大地だ。
キャプテンとして、ノック後のグラウンド整備はもう癖になっていた。
誰にも言われていないし、言うつもりもない。
ただ、静かにトンボをかける時間が、妙に心を落ち着かせた。
スパイクの跡、転んだ跡、踏みしめた跡。
どれも、今日一日を懸命に生きた痕だ。
トンボを止め、ふと視線をベンチの方に向けた。
──風祭球児の背中が、まだそこにあるような気がした。
今日、彼は“背番号1”を着て投げた。
誰にも何も言わず、ただマウンドに立ち、ボールを放っていた。
それは「勝たせてやる」なんて大げさな宣言じゃない。
でも、あの背中にはたしかに、“何かを守ろう”とする意志があった。
三島は帽子を脱ぎ、汗で湿った髪を指でかき上げる。
そしてポケットから自分のユニフォームを引っ張り出すと、背番号“6”の部分をぎゅっと握った。
「……エースってのは、勝つための存在だけじゃねぇんだよな」
そう、ぽつりとつぶやいた。
試合で点を取られても、崩れても、
あの背中が前を向いていたら、チームは立て直せる。
そしてその背中を、前に押し出すのが主将の役目だ。
三島は再びトンボを持ち直し、整地を再開した。
小さな石を避けながら、土の流れをならしながら、
その心はひとつの決意を固めていた。
──この夏、“風祭”と一緒に、負けたくない。
夕陽がグラウンドの端に長く影を伸ばしていく。
その中で、キャプテンの背中もまた、少しだけ強くなっていた。
■
夜。
部活が終わり、シャワーを浴び、夕飯もそこそこに済ませたあと、石原翔太は自室の机に向かっていた。
ベッドの下から引っ張り出したのは、表紙が少し擦れた黒いノート。
誰にも見せたことのない、自分だけの“キャッチングノート”だ。
パラパラとページをめくり、今日の練習の記憶を手繰るようにペンを走らせる。
《7月×日 ピッチングデータ:風祭》
・ストレート:キレ○/球速は安定
・フォーク:握りが少し浅くなってる? 落ちが甘い場面あり
・カーブ:コントロール良/左打者に有効
・ランナーあり:セットに入るとフォームが若干早くなる。球質も軽くなる
石原は顎に手を当て、少し考え込んだ。
今日の風祭は、いつも通り無口だったが、何かが違っていた。
いや、いつも通りじゃないからこそ──違いがはっきり見えたのかもしれない。
“背番号1”を着けて、あいつはマウンドに立った。
言葉にこそしなかったが、その一歩にどれだけの想いがあったか──
キャッチャーとして、石原は受け手として、少しだけわかった気がした。
分析欄の下、空白の余白にペンを走らせる。
「風祭、今日ちょっと重そうだった。
でも、それでも投げるって決めた顔だった。
あの背中、支えてやるのがキャッチャーだよな」
石原はノートを閉じ、キャッチャーミットを棚の上にそっと置いた。
明日もまた、風祭の球を受ける。
それがどんな球であっても、自分はミットを構えて、全力で受け止める。
それが“バッテリー”ってもんだろ、と心の中でつぶやきながら。
■
夜の台所は静かだった。
窓の外で虫の声が遠く聞こえる。蛍光灯の白い光が、ステンレスのポットをかすかに照らしている。
風祭修司は、小さく舌打ちをしてからインスタントコーヒーの瓶を手に取った。
カップに粉を入れ、沸騰した湯を静かに注ぐ。湯気がゆっくりと立ちのぼる。少しだけ、まるで息を吐くように。
「……力んでたな、あいつ」
口に出した瞬間、自分でも気恥ずかしくなって目を伏せる。
あのとき、何も言わなかったのは、言えなかったのではない。
言葉なんかで伝わらないと、わかっていたからだ。
『背番号1』の重み。
修司がかつて背負いきれなかったもの。
だからこそ、息子には、自分の足でそれを越えていってほしかった。
「……結果じゃねぇんだよ」
その声は、コーヒーの香りにまぎれて、夜の静けさに吸い込まれていく。
思えば自分は、いつもそうだった。背中で語ろうとして、距離ばかりつくってきた。
湯気越しに、ぼんやりと浮かぶキャッチボールの記憶。
少年だった球児の手から、ボールが真っ直ぐに届いた日のこと。
それはもう、遠い昔のように思えた。
──もう一度、あいつと向き合えるのなら。
一球ずつ、全部を伝えるしかない。
「わかってくれるまで……投げさせるさ」
コーヒーを一口。苦くて熱い、それはまるで、不器用な自分の愛情のようだった。
ため息まじりにカップを置くと、修司はそっと、古びた練習ノートを開いた。
明日もまた、誰かの背中を押すために──。
1
あなたにおすすめの小説
【完結】イケメンが邪魔して本命に告白できません
竹柏凪紗
青春
高校の入学式、芸能コースに通うアイドルでイケメンの如月風磨が普通科で目立たない最上碧衣の教室にやってきた。女子たちがキャーキャー騒ぐなか、風磨は碧衣の肩を抱き寄せ「お前、今日から俺の女な」と宣言する。その真意とウソつきたちによって複雑になっていく2人の結末とは──
初恋の先生と結婚する為に幼稚園児からやり直すことになった俺
NOV
恋愛
俺の名前は『五十鈴 隆』 四十九歳の独身だ。
俺は最近、リストラにあい、それが理由で新たな職も探すことなく引きこもり生活が続いていた。
そんなある日、家に客が来る。
その客は喪服を着ている女性で俺の小・中学校時代の大先輩の鎌田志保さんだった。
志保さんは若い頃、幼稚園の先生をしていたんだが……
その志保さんは今から『幼稚園の先生時代』の先輩だった人の『告別式』に行くということだった。
しかし告別式に行く前にその亡くなった先輩がもしかすると俺の知っている先生かもしれないと思い俺に確認しに来たそうだ。
でも亡くなった先生の名前は『山本香織』……俺は名前を聞いても覚えていなかった。
しかし志保さんが帰り際に先輩の旧姓を言った途端、俺の身体に衝撃が走る。
旧姓「常谷香織」……
常谷……つ、つ、つねちゃん!! あの『つねちゃん』が……
亡くなった先輩、その人こそ俺が大好きだった人、一番お世話になった人、『常谷香織』先生だったのだ。
その時から俺の頭のでは『つねちゃん』との思い出が次から次へと甦ってくる。
そして俺は気付いたんだ。『つねちゃん』は俺の初恋の人なんだと……
それに気付くと同時に俺は卒園してから一度も『つねちゃん』に会っていなかったことを後悔する。
何で俺はあれだけ好きだった『つねちゃん』に会わなかったんだ!?
もし会っていたら……ずっと付き合いが続いていたら……俺がもっと大事にしていれば……俺が『つねちゃん』と結婚していたら……俺が『つねちゃん』を幸せにしてあげたかった……
あくる日、最近、頻繁に起こる頭痛に悩まされていた俺に今までで一番の激痛が起こった!!
あまりの激痛に布団に潜り込み目を閉じていたが少しずつ痛みが和らいできたので俺はゆっくり目を開けたのだが……
目を開けた瞬間、どこか懐かしい光景が目の前に現れる。
何で部屋にいるはずの俺が駅のプラットホームにいるんだ!?
母さんが俺よりも身長が高いうえに若く見えるぞ。
俺の手ってこんなにも小さかったか?
そ、それに……な、なぜ俺の目の前に……あ、あの、つねちゃんがいるんだ!?
これは夢なのか? それとも……
【完結済】25億で極道に売られた女。姐になります!
satomi
恋愛
昼夜問わずに働く18才の主人公南ユキ。
働けども働けどもその収入は両親に搾取されるだけ…。睡眠時間だって2時間程度しかないのに、それでもまだ働き口を増やせと言う両親。
早朝のバイトで頭は朦朧としていたけれど、そんな時にうちにやってきたのは白虎商事CEOの白川大雄さん。ポーンっと25億で私を買っていった。
そんな大雄さん、白虎商事のCEOとは別に白虎組組長の顔を持っていて、私に『姐』になれとのこと。
大丈夫なのかなぁ?
春の雨はあたたかいー家出JKがオッサンの嫁になって女子大生になるまでのお話
登夢
恋愛
春の雨の夜に出会った訳あり家出JKと真面目な独身サラリーマンの1年間の同居生活を綴ったラブストーリーです。私は家出JKで春の雨の日の夜に駅前にいたところオッサンに拾われて家に連れ帰ってもらった。家出の訳を聞いたオッサンは、自分と同じに境遇に同情して私を同居させてくれた。同居の代わりに私は家事を引き受けることにしたが、真面目なオッサンは私を抱こうとしなかった。18歳になったときオッサンにプロポーズされる。
【完結】年収三百万円台のアラサー社畜と総資産三億円以上の仮想通貨「億り人」JKが湾岸タワーマンションで同棲したら
瀬々良木 清
ライト文芸
主人公・宮本剛は、都内で働くごく普通の営業系サラリーマン。いわゆる社畜。
タワーマンションの聖地・豊洲にあるオフィスへ通勤しながらも、自分の給料では絶対に買えない高級マンションたちを見上げながら、夢のない毎日を送っていた。
しかしある日、会社の近所で苦しそうにうずくまる女子高生・常磐理瀬と出会う。理瀬は女子高生ながら仮想通貨への投資で『億り人』となった天才少女だった。
剛の何百倍もの資産を持ち、しかし心はまだ未完成な女子高生である理瀬と、日に日に心が枯れてゆくと感じるアラサー社畜剛が織りなす、ちぐはぐなラブコメディ。
17歳男子高生と32歳主婦の境界線
MisakiNonagase
恋愛
32歳主婦のカレンはインスタグラムで20歳大学生の晴人と知り合う。親密な関係となった3度目のデートのときに、晴人が実は17歳の高校2年生だと知る。
カレンと晴人はその後、どうなる?
一億円の花嫁
藤谷 郁
恋愛
奈々子は家族の中の落ちこぼれ。
父親がすすめる縁談を断り切れず、望まぬ結婚をすることになった。
もうすぐ自由が無くなる。せめて最後に、思いきり贅沢な時間を過ごそう。
「きっと、素晴らしい旅になる」
ずっと憧れていた高級ホテルに到着し、わくわくする奈々子だが……
幸か不幸か!?
思いもよらぬ、運命の出会いが待っていた。
※エブリスタさまにも掲載
美味しいコーヒーの愉しみ方 Acidity and Bitterness
碧井夢夏
ライト文芸
<第五回ライト文芸大賞 最終選考・奨励賞>
住宅街とオフィスビルが共存するとある下町にある定食屋「まなべ」。
看板娘の利津(りつ)は毎日忙しくお店を手伝っている。
最近隣にできたコーヒーショップ「The Coffee Stand Natsu」。
どうやら、店長は有名なクリエイティブ・ディレクターで、脱サラして始めたお店らしく……?
神の舌を持つ定食屋の娘×クリエイティブ界の神と呼ばれた男 2人の出会いはやがて下町を変えていく――?
定食屋とコーヒーショップ、時々美容室、を中心に繰り広げられる出会いと挫折の物語。
過激表現はありませんが、重めの過去が出ることがあります。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる