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食糧難

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 吾輩がご主人に言われて晋州城の状況確認へ行ったりしていると、釜山から戦況が届いてきた。
 六月中旬から、毛利輝元が慶尚道の開寧に本陣を置くと、この頃から各地で義兵の蜂起が起き抵抗が激しくなる。
 全羅道・忠清道一帯の海岸線は高麗軍が制海権を掌握したため、日本軍は漢城や平壌に海上から兵糧を送ることができなくなる。
 以降日本水軍は沿岸迎撃作戦に変更、海上戦は守備固めに入る。秀吉が明への侵攻命令を改め、半島の支配を優先するよう指示を出す。海上を支配されたことで秀吉の渡航が難しくなり、翌年春の渡航へ延期する。
 七月に全羅道へ侵攻した小早川隆景は全州へ侵攻するが、背後の錦山で高麗軍や義兵の攻撃に合い錦山近郊に撤退を余儀なくされる。
 七月十六日に、明軍が参戦。明・高麗軍が平壌を攻撃するが小西隊が防ぐ、石田三成、長谷川秀一ら奉行衆が漢城に到着。その後、細川忠興、長谷川秀一、木村重茲は晋州城攻撃のため南下する。
 三成は秀吉の明領内への侵攻命令を実行することになっていたが、進軍できない状況を長束正家らに伝える。
一、小西行長が一旦漢城へ戻り、前線は兵糧不足であると報告しています。
一、軍勢不足なので明へ侵攻すると繋ぎの城に配置できなくなります。
一、高麗の各道で年貢を徴収して支配すべきです。
一、明が高麗軍と合流し三万余の兵による攻撃がありました。

■■■■…………
 七月十六日に、明軍五千の軍勢が平壌に到着し高麗軍と共に参戦した。小西隊は一旦、平壌で進軍を止め迎撃した。しかし、太閤殿下の命令通り明に攻め込むにしても、まずは王を捕らえ、高麗を平定しなければ、明侵攻の足場を築くこともできない為、小西隊の兵たちの苛立ちと焦りは相当なものだった。
 一方、二番隊を率いていた加藤清正は義州にいる王の背後に回り込み、王の退路を断とうとした。そのため、東北方面の咸鏡道へと進軍します。しかし加藤隊は咸鏡道から西に進むことができませんでした。
 当時、ヌルハチ率いる満州人(女真人)が満州や遼東で台頭し、強大な勢力圏を形成していたため、清正は満州人に行く手を阻まれ、彼らの勢力圏を迂回するためのルートを探し、現在のロシア領のウラジォストクの付近までたどり着きます。しかし、義州や遼東へ至るルートから大きく外れてしまい、軍を引き返す以外にありませんでした。
 日本軍が平壌を制圧した頃、明の援軍がようやく到着した。焦土作戦を遂行し、日本軍への食料を断ち王を守りぬいたおかげで、高麗は明の援軍を得るまでの時間稼ぎに成功しました。
 しかし明軍はもともと高麗のために命を賭けて戦う気などなく、平壌郊外で日本軍と戦う度に敗退した。日本軍によって易々と撃退されますが、それが単なる「先遣隊」であった事は明らかで、日本軍は「補給不足だし、明軍も来るし、将兵もみんな疲れてるし、戦線広げすぎたし、年内は止まって体制を固めよう」ということを考えだします。
 一方、先遣隊の報告を聞いた明も、あまりに一方的にやられたことに作戦の再構築を迫られた。
 まず日本軍の火縄銃の性能が良く、兵の技術も高いために、中原で有用な騎兵隊の機動戦術が山がちな高麗半島では使い辛く、日本兵の長槍がやたら長くて突き合いでも不利な展開になり。
 また、日本軍の刀の使い方を賞賛(恐怖)した「槍を構える前に斬り伏せられる。接近戦では勝ち目がない。火器や弓を用いて戦うべし」などと司令部に報告がされていた。
 ただ、弓矢も日本の方が射程や威力で勝っていたため思うような戦いが出来ない声も上がった。
 文禄の役が始まり瞬く間に漢城を占領した日本軍は八道国割で咸鏡道の平定を加藤清正、鍋島直茂、相良頼房の二番隊の担当とした。二番隊は漢城を発して北進し、臨津江の戦いの後、六月初旬に金郊で右折し安城の民を捕えて先に立って案内することを命じ、谷山を経て老里峴を越える。咸鏡南道兵使李渾は兵を率いてこれを迎撃しようとしたが、日本軍の先頭の兵を望見すると戦わずに潰走する。
 加藤清正は安辺に出て、ここに十余日留まった後、進んで永興に到る。ここで高麗人が立てた榜文には「二王子はこの道より北行した。」と書かれていた。鍋島直茂は留まって永興及び咸興付近を守備する。加藤清正は進んで北青に至り相良頼房をここに置き、七月十五日頃端川に入り家臣の九鬼広隆をここの守備とし付近の銀鉱を試掘させ、北進を継続する。
 この頃、高麗の臨海君、順和君の二王子は兵を募るため咸鏡道に赴いていたが、日本軍が迫ると摩天嶺を越え会寧に入った。
 咸鏡北道兵使韓克諴は日本軍の前進を聞き、これを迎撃するため北境六鎮(慶興、慶源、会寧、鍾城、鏡城、富寧)の兵を結集し、鏡城を発して南下する。もとより勇敢なことで知られた咸鏡北道の兵は、前進して摩天嶺の天険に拠ろうとしたが、加藤清正軍が先に摩天嶺を越えて進撃しており、両者は七月十七日未明、海汀倉(当時日本軍はこれを蔵所又は蔵床と称していた。蓋し今の城津)において遭遇する。
 高麗軍が騎兵を以て日本軍に迫ると、日本軍は銃撃で応じ富寧府使元喜以下三百人程を戦死させた。韓克諴は敗れて山上に退き、翌日を待って再び攻撃しようとしていた。日本軍は夜半より密かに高麗軍に近づき暁霧に乗じ喊声を発して攻撃する。韓克諴は大いに敗れ死傷者を残して北に逃れ鏡城に帰った。
 この戦いの後、当地の高麗人は雪崩を打って王朝に反旗を翻し、続々と日本軍に帰順する。加藤清正が、吉州、明川を経て鏡城に至ると韓克諴は既に逃走しており、敢て抵抗するものは無く、富寧を過ぎ、七月二十二日古豊山に着き、二十三日まさに諸隊を部署して会寧を攻撃しようとすると、府使鞠景仁は臨海君、順和君の二王子以下を縛り降伏を乞うた。
 加藤清正はこれを許し、即日左右十余騎のみを率いて城に入り、二王子及びその従臣、金貴栄、黄廷彧、黄赫(黄廷彧の子)、会寧府使李瑛、穏城府使李銖、鏡城判官李弘業等二十余人を捕虜とし、その縄を解いて彼らを厚く遇する。
 すると所在の高麗人はこれを聞いて争ってその上官を捕縛して送ってきた。咸鏡道前監司柳永立は白雲山に隠れていたが、現地の高麗人が日本軍を導いて生け捕りにする。
 咸鏡南道兵使李渾は甲山に逃れていたが現地の高麗人がこれを殺し首級を送ってきた。
 韓克諴もまた捕縛され、ここに咸鏡道はことごとく平定される。咸鏡道は高麗と女真の境界の地であり、両者の間には古くから紛争が絶えなかった。高麗人は女真を野人あるいは北胡と呼んではなはだ恐れていた。
 そこで加藤清正は、女真を討伐して威を示そうとした。すると従軍を願う高麗人が極めて多かった。そして八月、服属した会寧の高麗人三千人を先鋒とし、日本人八千人の陣容を整え、ついに豆満江を渡り満州兀良哈(兀良哈:オランカイ 高麗では北方に居住する異民族の一部を、明朝における「ウリャンカイ」の音写と同じ漢字で表記し、「兀良哈(オランカイ)」と称していた。しかし、これはモンゴルのウリャンカイ部とは無関係な女直の一派で、明朝からは野人女直、清朝からは東海三部と称された集団の一つ、ワルカ部に相当する集団である。居住地は主に豆満江流域で、明朝からは毛隣衛と呼ばれていた)の地へ攻め入った。
 
 開戦以来、快進撃を続けた日本軍は有効な高麗軍の抵抗をほとんど受けないまま約二ヶ月で平壌・咸興などまで急進撃をした。漢城を起点に高麗半島各地へ展開していた日本軍であったが、慶尚道の釜山から漢城を結ぶ三路の後方基幹ルートの確保や全羅道方面に至る西進作戦には積極的でなかった。
 高麗軍の主力を粉砕し、北方への進撃も予想外に進んだため、晋州城を攻略する若干の余裕が生じた。それまで晋州城は、釜山から漢城への侵攻路から外れていたため攻撃を受けていなかった。また、高麗では晋州城と平壌城が堅城との評価を受けていた。
 日本軍は晋州城攻略のために細川忠興、長谷川秀一、木村重茲などの二万の軍勢を編成し、釜山を出発して昌原を攻めた。慶尚右兵使の柳崇仁は官軍および収容した敗兵を指揮して抵抗したが日本軍に大敗した。
 敗走した柳崇仁は後方の晋州城へ入ろうとするが、部下であり守将の晋州牧使・金時敏は日本軍の突入を怖れて城門を開く事を拒否した。やむなく柳崇仁は城外で敗兵を再編成して日本軍に野戦を挑むが敗死した。
 咸安を経由して到着した日本軍の晋州城包囲が始まり十月六日より攻撃が始まった。晋州城では金時敏を中心に昆陽県監・李光若らが指揮する約三千八百の兵士に加え、多くの避難民が城内で防戦に努めた。また城外では郭再祐の配下などの慶州道義兵約千二百が日本軍の背後を攻撃し、七日の夜からは崔慶会・任啓英など全羅道で敗兵を再編成した軍約二千五百が到着して城外で遊撃戦を行った。
 日本軍は一時攻城を中断して遊撃軍を牽制し、十日朝より攻撃を再開したが晋州城は容易に攻略できないと判断し、長期戦を厭って退却した。
 晋州城防衛の中心であった金時敏は日本軍の鉄砲によって重傷を負った。高麗軍にも撤退する日本軍を追撃する力はなかった。こうして第一次晋州城攻防戦は高麗軍の防衛成功で幕を閉じた。
なお、金時敏は攻防戦の後に傷の悪化によって死亡したが、日本側では城を守りきった金時敏を官職の牧使の発音から「もくそ」、晋州城を「もくそ城」と呼び高く評価した(「もくそ」の当て字は「木曽」)。のちに京都で「もくそ官」として晒されたのはこの金時敏ではなく、第二次攻防戦の際に死亡した後任牧使の徐礼元の首である。

日本軍:一万二千七百人
細川忠興(三千五百)、長谷川秀一(五千)、木村重茲(三千五百)、新庄直定(三百)、糟屋武則(二百)、
太田一吉(百六十)

高麗軍:七千五百人
晋州城守備金時敏(三千八百)、後詰の軍(三千七百)

□□□□…………小太郎
「晋州城の様子を掴んできたので、報告します」
 飛彩が掴んだ情報を報告してきたのは又兵衛だった。
 相変わらず覚えづらい地味な顔だが、流石に鑑定せずとも判別できるくらいにはなった。
「頼む」
「まず晋州城ですが、まだ落とすことは出来ていないようです。かなり苦戦を強いられているようです」
 苦戦しているのか。
 数の上では勝っているが、堅い城であるためそう簡単に落とせないかもとは思っていたが、予想は的中していたか。
「やはり晋州城は、かなり堅い城なのか」
「城が堅いというのもありますが、順天城からの援軍としてやってきた兵たちに、かなりやられてしまっているようです。兵站を貯めている施設を奇襲されて、その結果兵站を多く失ってしまったことが、苦戦の大きな一因になっているようです」
 それは厳しいな。
 兵站を多数失った状態で戦をするのは、非常に厳しい状態と言える。
 これは思ったより、まずい状態かもしれない。
「今はどうしてるんだ? 兵站を届けさせているのか?」
「ええ、ですが、届くころには本格的に冬になって、戦の続行が難しくなる可能性もありますが」
 現在十月に入っており、流石に肌寒い季節となってきた。
 確かに早々に戦を終わらせなければ、冬入りしてしまう。
 すでに晋州城の近くに陣は張っているだろうから、戦自体が出来なくなるというわけではないかもしれない。
 ただ雪が降り積もると、兵糧や資源などが運び辛くなるので、そう言う意味では戦えないだろう。
 十一月の下旬辺りから、三月の上旬までが一番寒い時期で、それを乗り越えれば雪も解け始めて戦えるようになるだろう。
 それほど長い期間ではないのだが、それでも一日でも早く戦を終わらせた方がいい現状だと、二十日くらい何も出来なくなる可能性があるのは、喜ばしい事態とは言えないだろう。
「情報ご苦労だった」
 私は又兵衛にお礼を言ったあと、貰った情報を立花宗茂に伝えた。
 立花宗茂は渋い表情をして、感想を漏らす。
「何と……そこまで状況が良くないとは……我らに出来ることは何かあるだろうか?」
「援軍に行くべきですね。この錦山城にも兵站の貯蓄がありますし。足りるかは分かりませんが」
「細川殿を援助すべきというのは間違いない。問題はその方法だが」
「方法ですか?」
 普通に駆けつける以外、ほかに方法があるのだろうか?
「普通に駆けつけるという方法以外に、別方向から敵を攻撃して虚を突くという作戦もある。防御にはどこか手薄な場所があって、奇襲気味にそこを攻められると弱いという特徴があるからな。錦山城から晋州城へ行くのは二つの道があり、一つは我々が行軍してきた道とは別に、小さめの道がある。ここを通って奇襲を仕掛ければ、上手くいくかもしれない」
 敵が錦山城陥落を知っていた場合は、守りを固められている可能性もあるが、それでも奇襲気味に行った方が効果的な攻撃が出来そうではあるな。
「奇襲した方がいいと思いますが……みんなで話し合って決めたほうがいいと思いますね」
「それは私も同意見だ。決めるのはなるべく早い方がいい。今すぐ小早川殿の所へ行く、一緒について来てくれ」
「かしこまりました」
 僕は宗茂様に付いて小早川殿の陣屋に急いだ。



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