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最初の夜
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第3話
二人を乗せた馬車は、宮殿門通ると長く直進した、桑の木が並ぶ広大な庭園を従えた一角に、蒼龍の居館はあった。
宮殿全体が華やかな装飾を施された堂宇(どうう)や回廊によって結ばれているのに対し、この居館は剛健な造りをしている。中央に堂々と構える主殿は、壮麗ではあるが、重厚さと威厳を兼ね備えたものだった。
「さあ! 入ってくれ」
蒼龍はそう言って、扉を押し開けた。砡の目の前に広がったのは、これまで見たこともないほど豪奢な部屋だった。
絹の帳が垂れた寝台、細工の施された調度品。部屋の隅には燭台が並び、揺らめく灯りが金の装飾を淡く照らしている。
しかし、砡は戸惑いのまま足を踏み入れられずにいた。自分がここにいることが、まるで現実味を帯びてこない。
「……あの、私はどうしたら……?」
気後れしたように呟くと、蒼龍は一つ息をつき、ぶっきらぼうに言った。
「ここはお前の部屋だ。自由にしていい」
「え……?」
「宦官を一人つける。わからないことがあれば、その者に聞け」
「そ、その……ここは広すぎて落ち着きません」
砡がそう言うと、蒼龍は軽く鼻を鳴らし、「なら、お仕置き牢に戻るか?」と言いかけ……途中で言葉を切る。
砡がびくりと肩を震わせたのを見て、蒼龍は眉をひそめた。
「……冗談だ」
砡は、蒼龍が冗談を言うような性格に見えなかったので、ただ黙り込んでしまう。
「もうここはお前の部屋だ。気に入らなければ、宦官に言え」
蒼龍は言葉を投げるように言い、部屋を出ようとするが、一瞬だけ立ち止まり、低く付け加えた。
「――ただ、逃げるなよ」
砡が顔を上げたときには、蒼龍はそれ以上砡に構うことなく踵を返し、そのまま部屋を後にした。
取り残された砡は、ぽかんとしたまま立ち尽くした。
「……自由にしていい、って言われても……」
今さらこの状況をどう受け止めればいいのかわからない。
奴隷だった自分が、こんな立派な部屋にいていいはずがない。
途方に暮れていると、バタバタと小走りで近づいてくる足音が聞こえた。
現れたのは、やけに活気のある宦官だった。
「まあまあ! 蒼龍様が奥様を娶られ……え、あ、男、なるほどそういう……いえいえ、なるほど」
宦官は何かを察したように頷き、咳払いをした。
「兎にも角にも急ぎましょう!」
「えっ、何を?」
「夜伽でございますよ!」
砡はぎょっとして、反射的に宦官から一歩引いた。
「いや、ちょ、待っ……」
「急ぎましょう!」
有無を言わせぬ勢いで引っ張られ、砡は着替えをさせられそうになる。
(いやいや、待て待て……!)
「その……夜伽って、本当に必要なことなのか?」
砡が恐る恐る問いかけると、宦官はきょとんとした後、にっこりと笑った。
「そりゃあ、王座を巡る争いで有力候補である蒼龍様の正妻となるには、大事なことですよ?」
妙に楽しそうな宦官に、砡は何も言えなくなった。
とはいえ、蒼龍の態度を見る限り、自分を夜伽の相手として期待しているようには見えない。庇護として礼として受けている境遇だ。
(……まあ、そもそも蒼龍様は来る気すらないだろうし……)
砡はため息をつき、ややこしくなるので宦官に言われるがまま、着替えを済ませた。
慣れない衣の感触に落ち着かない気分のまま、寝台に横になる。
しばらくして、扉の外の足音に耳を澄ませたが――
その夜、蒼龍がこの部屋を訪れることは、なかった。
「申し訳ありません」
翌朝、宦官去坂は、砡の前で膝を折った。
「いえ、私もはっきりと言えばよかったのです。」
夜伽だ正妻だ、などと持ちかけたにも関わらず蒼龍が訪れなかったことに謝罪したのだ。
この宦官は、ここに来るまでの経緯や砡の立場も聞かされていなかったのだろうと、砡は、これまでの経緯を説明することにした。
宦官は、深く頷いて熟考する素振りだった。
「なるほど、蒼龍様がなるほど。」
「だから私はその、これからむしろどうするべきかお聞きしたくて」
砡は、膝の上で拳を握りしめる。
奴隷仕事なら染み付いているが、他の仕事などやってみたことがない。
宮中に、ましてや蒼龍の妻(これから数多作るだろう内の一人)として、突然砡は放り込まれた。きっと蒼龍のあの様子では、ここに入れたことで満足してほぼ顔を見ることもなくなるのではないだろうか。
砡がそんな憂いを宦官に伝える。
宦官は、苦笑して。
「そうでございますね。そこまで薄情な方ではないのですが、少々粗っぽい所がおありですから」
宦官は微笑みながら、どこか困ったように肩をすくめた。
「ですが、奥様――いえ、砡様はすでに蒼龍様の妻になられたのです。どのような形であれ、その立場に変わりはございません」
「……それは、つまり?」
「おそらく蒼龍様は、しばらく奥様を放っておかれるでしょう。しかし、それをただ待つのか、それとも自ら動くのかは、砡様次第です」
砡は少し考え込んだ。
「……私は、どうするべきでしょうか?」
「ふむ……」宦官は顎に手を当て、少しの間考えた後、にこりと笑った。
「では、まずは宮中での立ち振る舞いからお教えいたしましょう。奥様方がどのように暮らし、どのように動いているのか、それを知ることが大切です」
「そうですね……私も、何も知らないままではいられませんから」
砡は深く息をつき、気を引き締めた。
蒼龍が自分に関心を持っていないのは、すでにわかっている。しかし、だからといってこのまま流されていては、ただ“存在するだけ”になってしまう。
それだけは避けなければならない――。
(そんな人形のような人生、嫌だから)
「よろしくお願いします」
砡が頭を下げると、宦官は満足そうに頷いた。
「はい、奥様。ではまず、宮中の仕組みからお話しいたしましょう――」
こうして、砡の新たな日々が始まった。
二人を乗せた馬車は、宮殿門通ると長く直進した、桑の木が並ぶ広大な庭園を従えた一角に、蒼龍の居館はあった。
宮殿全体が華やかな装飾を施された堂宇(どうう)や回廊によって結ばれているのに対し、この居館は剛健な造りをしている。中央に堂々と構える主殿は、壮麗ではあるが、重厚さと威厳を兼ね備えたものだった。
「さあ! 入ってくれ」
蒼龍はそう言って、扉を押し開けた。砡の目の前に広がったのは、これまで見たこともないほど豪奢な部屋だった。
絹の帳が垂れた寝台、細工の施された調度品。部屋の隅には燭台が並び、揺らめく灯りが金の装飾を淡く照らしている。
しかし、砡は戸惑いのまま足を踏み入れられずにいた。自分がここにいることが、まるで現実味を帯びてこない。
「……あの、私はどうしたら……?」
気後れしたように呟くと、蒼龍は一つ息をつき、ぶっきらぼうに言った。
「ここはお前の部屋だ。自由にしていい」
「え……?」
「宦官を一人つける。わからないことがあれば、その者に聞け」
「そ、その……ここは広すぎて落ち着きません」
砡がそう言うと、蒼龍は軽く鼻を鳴らし、「なら、お仕置き牢に戻るか?」と言いかけ……途中で言葉を切る。
砡がびくりと肩を震わせたのを見て、蒼龍は眉をひそめた。
「……冗談だ」
砡は、蒼龍が冗談を言うような性格に見えなかったので、ただ黙り込んでしまう。
「もうここはお前の部屋だ。気に入らなければ、宦官に言え」
蒼龍は言葉を投げるように言い、部屋を出ようとするが、一瞬だけ立ち止まり、低く付け加えた。
「――ただ、逃げるなよ」
砡が顔を上げたときには、蒼龍はそれ以上砡に構うことなく踵を返し、そのまま部屋を後にした。
取り残された砡は、ぽかんとしたまま立ち尽くした。
「……自由にしていい、って言われても……」
今さらこの状況をどう受け止めればいいのかわからない。
奴隷だった自分が、こんな立派な部屋にいていいはずがない。
途方に暮れていると、バタバタと小走りで近づいてくる足音が聞こえた。
現れたのは、やけに活気のある宦官だった。
「まあまあ! 蒼龍様が奥様を娶られ……え、あ、男、なるほどそういう……いえいえ、なるほど」
宦官は何かを察したように頷き、咳払いをした。
「兎にも角にも急ぎましょう!」
「えっ、何を?」
「夜伽でございますよ!」
砡はぎょっとして、反射的に宦官から一歩引いた。
「いや、ちょ、待っ……」
「急ぎましょう!」
有無を言わせぬ勢いで引っ張られ、砡は着替えをさせられそうになる。
(いやいや、待て待て……!)
「その……夜伽って、本当に必要なことなのか?」
砡が恐る恐る問いかけると、宦官はきょとんとした後、にっこりと笑った。
「そりゃあ、王座を巡る争いで有力候補である蒼龍様の正妻となるには、大事なことですよ?」
妙に楽しそうな宦官に、砡は何も言えなくなった。
とはいえ、蒼龍の態度を見る限り、自分を夜伽の相手として期待しているようには見えない。庇護として礼として受けている境遇だ。
(……まあ、そもそも蒼龍様は来る気すらないだろうし……)
砡はため息をつき、ややこしくなるので宦官に言われるがまま、着替えを済ませた。
慣れない衣の感触に落ち着かない気分のまま、寝台に横になる。
しばらくして、扉の外の足音に耳を澄ませたが――
その夜、蒼龍がこの部屋を訪れることは、なかった。
「申し訳ありません」
翌朝、宦官去坂は、砡の前で膝を折った。
「いえ、私もはっきりと言えばよかったのです。」
夜伽だ正妻だ、などと持ちかけたにも関わらず蒼龍が訪れなかったことに謝罪したのだ。
この宦官は、ここに来るまでの経緯や砡の立場も聞かされていなかったのだろうと、砡は、これまでの経緯を説明することにした。
宦官は、深く頷いて熟考する素振りだった。
「なるほど、蒼龍様がなるほど。」
「だから私はその、これからむしろどうするべきかお聞きしたくて」
砡は、膝の上で拳を握りしめる。
奴隷仕事なら染み付いているが、他の仕事などやってみたことがない。
宮中に、ましてや蒼龍の妻(これから数多作るだろう内の一人)として、突然砡は放り込まれた。きっと蒼龍のあの様子では、ここに入れたことで満足してほぼ顔を見ることもなくなるのではないだろうか。
砡がそんな憂いを宦官に伝える。
宦官は、苦笑して。
「そうでございますね。そこまで薄情な方ではないのですが、少々粗っぽい所がおありですから」
宦官は微笑みながら、どこか困ったように肩をすくめた。
「ですが、奥様――いえ、砡様はすでに蒼龍様の妻になられたのです。どのような形であれ、その立場に変わりはございません」
「……それは、つまり?」
「おそらく蒼龍様は、しばらく奥様を放っておかれるでしょう。しかし、それをただ待つのか、それとも自ら動くのかは、砡様次第です」
砡は少し考え込んだ。
「……私は、どうするべきでしょうか?」
「ふむ……」宦官は顎に手を当て、少しの間考えた後、にこりと笑った。
「では、まずは宮中での立ち振る舞いからお教えいたしましょう。奥様方がどのように暮らし、どのように動いているのか、それを知ることが大切です」
「そうですね……私も、何も知らないままではいられませんから」
砡は深く息をつき、気を引き締めた。
蒼龍が自分に関心を持っていないのは、すでにわかっている。しかし、だからといってこのまま流されていては、ただ“存在するだけ”になってしまう。
それだけは避けなければならない――。
(そんな人形のような人生、嫌だから)
「よろしくお願いします」
砡が頭を下げると、宦官は満足そうに頷いた。
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