Hope Man

如月 睦月

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勉強開始

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『で?わからないところは?』

吉田が龍一に聞く。

この日、龍一は吉田に勉強を教わりに来ていた。以前自問自答した『わからないところ』何がわからないのかがわからない、なので吉田の質問には答えられるはずがなかったのだが、正直に吉田に言ってみた。

『何がわからないのかわからないんだよね』

はぁ?とでも言うのだろう、それじゃ話にならないとでも言うのだろう、龍一は数秒の沈黙の中で否定的な吉田の答えをどこか期待するほど卑屈になっていたのかもしれない、しかし吉田はその龍一のネガティブな思考を覆してきた。

『わかる!俺もそうだったからさ、はっはっは』

『え?そうだったの?そういえば吉田のランクって?』

『Dだけど』

『でぃ・・・でぃー!?』

『おっぱいの大きさみたいに言うなよ、はっはっは』

『俺も何がわからないのかがわからないから、何がわからないのかを考えたんだよ、なんでなにもかもがわからないんだろうって』

『何を言っているのかがわからないけど、それで?』

『考えても無駄だったから、わかる事から始めたんだよ、流石に100個のうち100個がわからないってことはないだろ?さかのぼれば足し算引き算はわかるじゃん?』

『さすがにな・・・』

『そこから始めるんだよ、意外と数学って基礎が大事なんだよ、逆に言えば基礎がわかればその先の事もなんとかなってくるんだよ、繋がってるっつーかさ…』

『基礎の大事さはわかるよ、俺のやってた格闘技でもそうだった、見た目が派手な技を覚えたいけど、それをやるには基礎が出来ていないと、形は出来ても威力がでないんだよ、バラバラっつーかさ・・・』

『それ!そういうこと!じゃぁ逆に聞くけど、わかるのはどの辺?』

『そっか、それならわかるよ!』

思わぬ吉田の逆転の発想により、微かな光を感じた龍一。
もっとも光を感じただけであり、突破口を開いたわけではない。現状は何も変わっていないのだ、マラソンの途中でスタートに引き返すようなものなのだから。しかし龍一にとってはそのリスタートは突破口とも言えるほど大きなやり直しだった。すごろくでゴールギリギリに「スタートに戻る」が出た時は絶望的で破壊的な精神的ショックを受けるゲーム史上最大級のトラップではあるものの、今の龍一にとってはそのトラップを楽しめるほど心が前向きだった。

自分がわかる部分を教え、それを前に進めるために吉田に指導してもらい、一歩一歩前進できる兆しが見えた。帰るまでの1時間ほど大友克洋作品について語り、龍一は吉田の家を後にした。

家に帰るとちょうど夕ご飯の時間だった。
夫婦茶碗の一件からより一層会話が無くなった桜坂親子。
と言っても悪態着く事はなく、龍一も聞かれた事には静かに答えるのだった。
静かな食事を終え、席を立つときに『勉強するから』と一言伝えた。
これは安心させるための気遣いではなく、勉強していると言う事実を植え付ける為、じゃないとやっているのに『勉強してるのか?』と言われるからである。言われたくないランキングベスト5に入る様な気持ち悪い言葉を、毎日言う事が無いから取り敢えず言うみたいな感覚で使われるのはたまったものではない。言い換えれば父親に『仕事してるの?』母親に『掃除してるの?』と言うようなもの、当然言えば2人とも顔を真っ赤にして反論するだろう、怒り狂うだろう、なぜって?やっているからだ、やっている事を敢えて言われると気分の悪いものなのだ、そうやって自分に置き換えてからモノを言う努力と言うか気遣いをしてもらいたい、それが我が子だろうと他人だろうと…そんな気持ちが龍一にはあった。

もっとも、気遣い出来ないから言うのだ、優しさが足りない。

机に向かい、まずはラジオを付ける、テレビは観てしまうから自主規制。
ラジオは会話が心地よく、聴かないと思えば耳に入らない、聴こうとすれば楽しく聴けるし、時には共感出来たりもする、これを自分の能力だけで操作できるのがありがたかった、何を聴くわけでもない、かかっていればいい、聴こえていればいい。ペンを取ってわかる所を書き出し始めた。わかる所をやるのだから面白くないはずがなく、それはわかっているのに龍一は勉強を面白いと感じていた、こんな気持ちは何年ぶりだろう、いや初めてかもしれない、この感覚いつかどこかで…

あ、絵を描いていた時だ…。

そんな事を思い出したりもしたが、もう描かないと決めた龍一は頭に浮かんだ絵の思い出をかき消すのだった、忌まわしいあの体験を思い出す前に。

新しい勉強法、わかるところからやるスタイル、これは基本的に数学対応型であり、他の教科に関してはもっぱら暗記するしかない。数学が追いついたら暗記型の教科へ以降するとして、まずは一番の鬼門である数学に力を入れた。しかしわかる所はわかるものの、わからない所がわかる所とどう繋がって来るのかをわかる事が出来るのかがわからないので不安はあった。吉田は『その時教えてやるよ、うわっははははは』と爆笑していたが、その時に分からないところはここだと明確に伝える事が出来るかわかるだろうかと不安はあった。わかる所がわからなくてわからない所が…そんなことを考えていたら頭の中がわかるとわからないが入り乱れてさっぱりわからなくなってきた。

『よし!まずは珈琲だ!』

何にもしていない、いや、ラジオを付けただけなのに、思う存分勉強した上での休憩だと言わんばかりに珈琲をブラックでつくった。
ズズッと吸い上げると、何とも言えない香りと呑み込んだ苦みが心地よく、窓を開けた龍一は、ラジオを付けただけのクセに煙草を1本吸った。

『さて、やるか』

何もしていないのにしていたかのように、続きをするが如く教科書を開いた。古い教科書に書かれた龍一を罵倒する言葉は気にせず、これを解くには因数分解…因数分解とは…と時代を追うように龍一なりに一生懸命取り組んだ。
2時間ほど無心になって復習をした龍一、まるで何もしてこなかった過去の自分に復讐するかのように…ここで我に返り、気分転換の為にテコンドーのシャドウを始めた、突き、蹴り、勉強で溜まったフラストレーションを払拭するようにシャドウに打ち込んだ。この頃大好きだったジャッキーチェンの映画でやっていた手首を返す腕立て伏せをしたり、自分なりの蛇拳をやってみたりもして汗ばむほどに身体を動かした。

机に向かうと小腹が空いたことに気が付き、時計を見ると午後11時を回っていたので、居間に行ってインスタントラーメンを作ることにした。
静かにやっても音は出る、その音に気付き母親が『夜食かい?』と寝床から声を掛ける。『うん、自分でやるから』と静かに答えると自分なりの美味しいラーメンを研究しながら作った。今までは鍋で全てを完成させてどんぶりに入れていたが、龍一はスープと麺が一体化してしまう作り方が嫌で、どんぶりにタレを用意して出来上がったラーメンの煮汁をどんぶりに注いでスープを作ってから麺を落す事を試してみた。これが今までの龍一のインスタントラーメンの歴史を変えた、麺とスープの味がしっかり分離しているのだ、これはまさにラーメン屋のラーメンに近かった。『これだけで味が30%は上がる!美味い!なんて美味いんだ!インスタントとは思えない完成度じゃないか!否!ラーメン屋のラーメンの再現度と言っても良い。』とう言いながらハフハフとラーメンを吸い上げた、最後の一滴まで吸い尽くすと、満足感に襲われて煙草が吸いたくなり、幸福感をプラスした。『次は味だなぁ、出汁を足してみるか…先に昆布で出汁を取ったらどうだろう』頭の中はインスタントラーメンの完成度の高さを上げる事でいっぱいだった。

椅子に座ると、至福感でいっぱいになり、そのまま眠りに堕ちてしまった。

『はわっ!』

目を覚ますと午前1時を回っていた、朝は7時に起きるので2時に寝ても5時間眠れる、あと1時間は勉強できるな…まずは直ぐ寝られるように歯を磨こう、歯を磨いて戻ると電気を消し、当たり前のようにベッドに入って眠ってしまった。
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