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9.「名家」

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――いつ鬼。母にとり憑き、その影響は娘であるめぐみにまで色濃く及び、その首をくくらせようとする恐ろしい妖怪。月原はほぼ間違いないと言った。しかし、そんな恐ろしい妖怪とはできるだけ関わりあいになりたくは無い。できるなら間違いであって欲しい。この話もすべて月原の作り話なら――しかし、そうであったとしたら母が急におかしくなった原因がまた分からなくなる。少なくとも今は、その原因を母や自分達家族以外のもの、得体の知れない妖怪のせいにできるのでまだ心持が楽というものだ。
 めぐみは先に歩いていく月原の背中を急いで追った。昨日の時点で分かったが、月原の歩くスピードはかなり早く、猫又を飛び出たときにはもうすでにかなり先を歩いていた。めぐみもようやく追い着くが、月原は一瞥いちべつもせずにどんどん歩いていく。全くの無愛想だ。これのどこにやる気があるというのだろうか。やはりあれはマスターのリップサービスだったのだろう。しかし、本当に足が早い。たまらずめぐみはストップをかけた。
「ま、まって月原さん! 早いよ!」
「仕方ないじゃない。次の電車の時間が近いのだから」
「そうなんだ……って、月原さん、私のお爺ちゃんの家の場所知らないでしょう!」
「南町でしょう?」
 めぐみは思わず驚いた。確かに祖父の家は南町にある。しかし何故月原がそんな事を――
「昨日、駅のホームで言ってたでしょう。南町のどこかは分からないけど、どの道電車の方が早いでしょう。次の電車の時間が十一時ちょうど。その次は二十五分よ」
 よくそんなに時刻がスラスラと出てくるものだと感心してしまう。しかし、めぐみの感覚で言わせて貰ったらたかが二十五分だ。ゆっくり歩いていって、そこからのんびり待てばいいのだ。
「そんなに急がなくても……」
「……随分と暢気のんきね。こうしてる間にもあなたのお母さんは苦しんでいるかもしれないのに。でも、まあいいわ。あなたがそう言うなら」
 その言葉に、めぐみはまるで胸に釘を打たれたような痛みを覚えた。
「だ、だめ! 走るよ!」
 そう言うとめぐみは月原の手を取り走り始めた。走りながら、めぐみは自分の暢気さが恥ずかしくなり、耳が赤くなっていた。母の状態は落ち着いてきたとはいえ、いまだ暗く冷たい病室の中にいるのだ。一刻も早くどうにかしてあげたいと思っていたはずなのに、早く歩く事、一本でも早い電車に乗ろうという努力すらおこたろうとしていた。めぐみは穴があったら入りたかった。そんな事を思っていたからだろうか、側溝そっこうの間に足が引っかかり盛大に転倒してしまった。更に悪い事に、手を握っていた月原まで巻き添えにすると言う最悪の格好だった。

 めぐみの膝には大きな絆創膏ばんそうこうが一枚貼られていた。先程こけたときに膝を擦りむき、血が出てしまったからだ。転倒後痛いやら恥ずかしいやら月原に申し訳ないやらで半泣きになっていると、月原はさっさと立ち上がり、しゃがみこむめぐみに手を差し伸べた。
 月原は立ち上がっためぐみの膝の怪我を見て、ポーチから消毒液と絆創膏を取り出すと、無言で手当てをした。申し訳なさ過ぎて、めぐみは何も話す事が出来なかった。
 結局乗ろうとしていた時間には間に合わず、次の電車に乗り南駅へ向かった。その車中、すっかり落ち込みながら電車に揺られていた。なんどか「さっきはごめんね」と月原に謝ろうとしたのに、気まずさがオーバーヒートし、結局隣座るだけで何も言えなかった。
話す事も無く、ぼんやりと窓から見える景色を眺めていると、次第にその色も変わってきた。アパートや住宅が多い中央区や東町は人工物ばかりで、建物の白か、コンクリートの灰色ばかりが目に付いた。しかし、青葉川を抜け、南へ進んで行くと、景色ががらりと変わった。目に飛び込んでくるのは豊かな黄金色に輝く田園風景だ。田んぼでは実りの時期を迎えたと、農家の人達が稲刈りに精を出しており、路肩には彼岸花が咲いていた。青葉区の中でもこの南区は特に昔の色合いを濃く残しており、このような田んぼだけでなく、畑も沢山ある。更に、この南区は昔から災害が少なかった影響もあり、神社や文化財も沢山残っているし、所謂名家も軒並みここに揃っていた。その内の一つが島岡家というわけだ。
 電車から遠目に祖父の家を確認できた。もう駅までは近い。めぐみは視線を元に戻すと、先にやらなければならないことを済ませることにした。
 めぐみは息をゆっくり吸い、心を落ちつかせると、隣に座るロボットに声をかけた。
「つ、月原さん!」
 気を張っていたからか、想像以上に大きな声が出てしまい、当の本人であるめぐみが目を丸くしてしまった。
「島岡さん、公共交通機関の中でそのボリュームは感心しないわ」
「ご、ごめんなさい!」
「……人の話を聞いてる?」
 まるで壊れたラジオのように、音量の調整が出来なかった。しかし、口を開いた以上、後には引けない。
「さ、さっきは……ありがとう。あの、手当てしてくれて……」
 すると、月原はなんだそんな事か、といわんばかりの視線を送ってきた。その瞳はまるで何の感情も無いように思えたが、どこか、何か引っかかるものがあった。
 めぐみはその疑問のままを口にしてしまった。
「な、何かある? やっぱり怒ってる?」
「……どうしてそう思ったの?」
「いや、あの……だって……私のお母さんの事なのに、暢気な事言ったり、走ってこけたり……おまけに月原さんも巻き添えにしちゃうし……」
 めぐみはがっくりと肩を落とした。別に格好をつける気も無いし、そんな事は無理だと分かっているが、今日は特に酷い。本当に穴があったら入って、その上からふたをして鍵をかけたいくらいだ。もし、普通の人ならきっと怒って帰ってしまうだろう。しかし、月原は黙ってついてきてくれている。それだけでもありがたいが、やはり内心はらわたが煮えくり返っているなら丁重に土下座でもすべきなのだ。そう思いながら、月原の答えを待っていたのだ。しかし、月原は怒った素振りも無く、言った。
「別に怒ってないわ……でも、」
「で、でも?」
 やはり怒っているのか――
「こんなおっちょこちょいの人がこの世に存在するなんて……正直驚いているわ」
「お、驚いたんだ」
「……渾名あだなはおちょこさんね」
 そう言った月原はこの話はおしまいといわんばかりに口をつぐんでしまった。
 そこからは全く会話はしなかったが、どこか月原は満足そうに見えた。もしかしてあの渾名の下りは月原なりの場を和ませる冗談だったのだろうか。そんな事を思っていると、電車はようやく南駅へと到着した。
 南町は田舎だが、地主や名家が揃っている関係もあり、駅舎自体はとても立派で、きちんと自動改札やエレベーターが設置されているし、至る所がバリアフリー化している。年寄りが多い地区でもあるのでその配慮だろう。
 駅のロータリーを抜けると、すぐに幹線道路が見えてくる。その道を進み、交差点を抜けるとあっという間に田舎の色が濃くなってくる。更に山手に向かって進むと、次第に大きな屋敷が見えてきた。地元の名家で見栄っ張りな祖父らしく、豪華な門構えの豪邸だ。
 祖父からはいつでも好きに来ていいと言われているので、めぐみはインターフォンも鳴らさず、門をくぐった。広い敷地なので門から玄関までも相当の距離がある。これに関しては近い方がありがたいが、それは贅沢というものだ。
 無駄に広い庭には、立派な灯篭や池、桜や松の木が植えられている。小さな頃はよくここで遊んだものだとめぐみは少し懐かしい気持ちになっていると、後ろに続く月原の声が聞えた。
「立派なお宅ね、このお庭もしっかりと手入れされているし」
 珍しく月原のほうから話し始めた。
「おじいちゃん、お金持ちだから。あっちの池にいる鯉なんて、すごく高いんだって」
 自分の家ではないが、金持ち自慢をしているみたいでめぐみは少し恥ずかしくなった。
 そんなめぐみをよそに、月原は庭に生えている桜の木の本へ歩いていき、徐に立ち止まった。周囲を見渡すと「いるわ」と呟くと、すっと指を立てた。するとどこからともなくかすみがかったものが集まってくる。
 その不思議な光景を見ながら、めぐみは口を開いた
「昨日、教室で見たやつだ。」
 その時の事を思い出してみる。確か――
「チョウケシンだったよね」
 蝶化身の名前をつげると、みるみると霞が晴れ、美しい蝶が姿を表した。
 めぐみはその美しい姿に視線を奪われた。
「きれい――」
 蝶化身は月岡の指から離れ、めぐみの周囲をゆっくりと飛び始めた。その美しい姿を見とれながら、ある事を思い出した。
「蝶化身ってたしか――」
「この周りに不幸が訪れる事を知らせてくれる。そう、この家の人に何か不幸が迫っているのね」
 月原がそう言うと蝶化身はフッと姿を消してしまった。
「あ、消えた……今のも憑き物なの?」
「そうよ。不幸が迫っていると伝える事が出来て、想いを果たしたんでしょうね」
「じゃあ、今のが憑き物祓いって事?」
「そうなるわね」
 図らずとも、めぐみは憑き物祓いを目にした。それはあまりにもあっけないものだった。
「そっか……」
 憑き物、と言うことは誰かが蝶化身に想いを託してくれたのだろうか?
 少なくとも、自分やその家族を大切に思ってくれている人がいる。そう思うと、少し嬉しいような気分になった。
 気を取り直して、めぐみは玄関へ向かい、扉を開けた。
「おじいちゃん、おばあちゃん、こんにちわ」
 大きな声を出すと、奥のほうから割烹着を着た女性がゆっくりと歩いて出てきた。
 めぐみの祖母、絹江だ。歳は七十を少し越えているが、背筋はぴんと伸び、その上品な立ち姿からは年を感じさせなかった。
 祖母はめぐみの姿をみると、ゆっくりと微笑んだ。
「めぐちゃん、いらっしゃい。どうしたの、急に……えっと、そちらの方はお友達?」
 祖母の視線は月原に向けられていた。
「ちょっとおばあちゃんに用事。えっと、この子は同じクラスの友達。月原さんっていうの」
「月原芹と申します」
 月原は綺麗に礼をした。
「あら、礼儀正しいのね。今時の子にしては珍しいわ。めぐちゃんも見習わないと」
「もう、おばあちゃん!」
 むくれるめぐみをよそに、月原は「お邪魔します」と、スリッパに履き替えて上がっていく。めぐみも急いで靴を脱ぎ後を追った。

 祖母の後を追い、めぐみ達は廊下を進む。廊下には控えめだが高価な調度品が並んでいる。昔はもっと数も多く、派手なものを置いていたが、前を歩く祖母が「いい加減悪趣味よ」と言い、すべて処分してしまった。あの時の祖父の落ち込みようといったら、たまに思い出してくすりと笑ってしまうほどだった。
無駄に多い部屋を眺めながら、無駄に長い廊下を歩いていく。普段遊びに来た時はリビングだが、今日は月原がいるので客室へ案内された。客室には豪華なソファーに高そうな机、後は良く分からない骨董品、果ては木彫りの熊まであった。これは祖父の趣味だ。ここは祖父曰く最後の砦で、流石にここは祖母も手は出さなかったらしい。
 祖母は「すぐにお茶を出す」とキッチンのほうへ行ってしまったが、少し待っていると、切りたてのメロンやお茶菓子をお盆に乗せ戻ってきた。
「めぐちゃんはいつものココアでいいかしら? 月原さんは――」
「わ、わたしコーヒーでいいよ! もう子供じゃないんだからミルクもお砂糖もいらない! 月原さんもコーヒーだよね」
 自分と同い年なのに、猫又で表情一つ変えずコーヒーを飲む月原の姿を見て、なぜかココアを飲む自分がひどく子供に思えためぐみは強がって好きでもないコーヒーを頼んだ。
 当然月原もコーヒーを頼むと思っていたが――
「あら、ココアいいじゃない。私好きよ。すいません、ココアを頂いてもよろしいですか?」
「え! コーヒーじゃなくていいの?」
 猫又で堂々とコーヒーを飲む姿からはココアを頼む姿は想像できなかった。
「ココアおいしいわよね」
 祖母がそういうと、月原も頷いた。
 祖母が再びキッチンへ行く姿を見て、あの苦い汁を飲まなければならないと、めぐみは心底後悔した。
「い、以外に甘いもの好きなんだね」
 勝手に月原に嵌められた気になってしまっためぐみは苦し紛れにそういった。しかし、月原はさも当然の如く
「当たり前でしょう。だって、私、まだ子供なのだから」
 そう話す月原はどこか誇らしげにすら見えた。
 暫くすると、祖母はマグカップを持って戻ってきた。
 「はい、どうぞ」と月原の前にココアが差し出される。
 恨みがましい視線をおくるめぐみの前に差し出されたマグカップの中にもココアが入れられていた。
 祖母の顔をみると「間違えちゃったわ」とやさしく笑っている。
 悔しいが、めぐみはコーヒーを飲まずに済んで心底ほっとしていると、隣で月原が小さく
「良かったわね、おちょこさん」と呟いた。
 めぐみは耳どころか顔をただ真っ赤にするしかなかった。
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