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8.いつ鬼

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「いつ鬼」

――いつ鬼。古くは江戸時代の文献にも確認されている水死者の霊が妖怪となったもので取り付いた者に首をくくらせるという逸話から『いつ鬼』または『縊り鬼(くびりおに)』と呼ばれる。

「どう? 心当たりは無い?」
 月原からいつ鬼の説明を受けるが、いきなり聞かれてもめぐみには分からない。しかし、首を括らせる、という言葉には思い当たる節があった。
「よく分からないけど、死にたいって思ったとき、首を吊る以外には考えられなかった。そういえばお母さんも首吊りしようとしてた……」
「昨日言ったけど、妖怪や神様って自分のやり方にこだわるのよ。人を死なせるためにわざわざ手間のかかる首吊りなんて、そんなの数多い妖怪の中でもいつ鬼しかいないわ」
「いつ鬼……初めて聞いた」
 めぐみにとって、鬼といえば「泣いた赤鬼」や節分の時に豆を投げつけられる、虎縞柄のパンツを履いた鬼くらいしか思い浮かばない。
 そもそも鬼なんて、女子高生とは普段も縁もゆかりも無いほうが普通であり、めぐみもそうだった。しかし月原は普通の女子高生、では無かった。
「そう?割と有名だと思うけど。江戸時代とか大昔はまだ治水もしっかりしていなかったし、災害で川が氾濫してよく水死者が出たみたい。だからいつ鬼もよく出たの」
 その話を聞いて、水死者という言葉に引っかかった。そういえば、先程の月原の説明ではいつ鬼は水死者の霊が妖怪化したものだという。何か関係があるのだろうか。
「いつ鬼も水死者の霊なんだよね。その、死に方、って関係あるの?」
 死に方という言葉なんて今までの日常では無縁だからだろう、めぐみは言葉に詰まりながらも言った。
「ええ、そうよ。基本的には妖怪は自分の属性にあったものに惹かれやすいの。分かりやすく言うと、いつ鬼みたいに水死者の霊の妖怪なら、同じく水死者の魂に魅かれて具現化する事が多いわ。あと水辺で死ぬと河童とか海坊主もとり憑きやすいわね」
「じゃあ今回のいつ鬼も水死しちゃった人の幽霊が本体、なんだね。それじゃあお母さんの身近にそういう人がいたか調べたらいいんだね」
 普段ニュースなんて見ないめぐみだが、流石に水死という死に方が死因の中でも少ないことくらいは想像がつく。母の近辺に水死した者がいないか、それを調べるだけと思うと、そんなに難しいことでない気がした。
「まあ、まずはそうしましょう。でも、中には焼死した人とかにも憑いていた事があるらしいから、絶対とは言えないけど」
「――ま逆だね。でも、いつ鬼は水死者に魅かれるんだよね。なんで――」
「さあ、知らないわ。それはいつ鬼の理屈があるから。神様も妖怪もそんなもんよ」
 月原はまた、さも当然のように言い放つ。そう言われてしまったらお手上げだ。
「神様も妖怪も結構いい加減――なんだね」
 めぐみはつい愚痴ってしまう。
「そうよ。いま気付いたの?」
 その言葉にめぐみは肩を落とした。

 話が進展しているのか、していないのかよく分からないが、妖怪の正体にあたりがついただけでもマシと言うことだろう。うじうじ落ち込んでいても何の解決にもならない。今、やるべき事は――
「とりあえず、お母さんの事を調べたらいいんだよね」
「まあ、そうね。でも、あなたには心当たりは無い。あなたのお父さんにももう一度聞いてみる? 憑き物の説明をしてからだけど」
 月原の提案にめぐみの顔がくもる。自分がそうであったように、父も神様や妖怪の類をまるで信じていないからだ。
 めぐみはいつ鬼の影響を強く受けてその存在を知覚できるようになったが、父はどうだろうか。確か、昨日月原は「全く無関係」と言っていたはずだ。
「お父さんは、見えるのかな、あの妖怪とか」
「今は無理ね。昨日直接お父さんに会ったけど、やはりいつ鬼の影響は受けてなかったわ」
「流石に、何も見えないし感じることも出来ないなら、こんな話も信じてもらえないと思うよ」
「もっといつ鬼の力が強くなるか、可視化のお札でも貼ってあげれば見えるようになるんだけど」
 月原の口からまた聞きなれない言葉が飛び出した。
「かしか?」
「見えないものを見えるようにするお札よ」
 そんな便利なものがあるならもったいぶらずに最初から教えてくれたらいいのにと、ついめぐみは口をとがらせてしまう。
「じゃあそのお札を使ってお父さんに信じてもらって、お母さんの事を――」
 めぐみはそこまで言うと言いよどんでしまった。
 母が入院してからも父は毎日忙しく仕事をしている。めぐみもそんな父を助ける為に学校を休んで家事をしようとしたが、父は学業を優先するようにとそれを止めた。
 めぐみにとって、今からが将来を決める大事な時だから。お父さんの事を思うなら、今は家の事も任せて、いつも通りの生活をしなさいと、父は優しく言ってくれた。そんな父を妖怪や憑き物などという、訳の分からないものに巻き込みたくは無いのだ。
 そんな心情を察してか、月原も「無理強いはしない」と言った。
「ごめんね。まずは私たちだけでやりたい」
 その言葉に月原ちいさく頷き、めぐみはほっと、溜息をついた。
「でも、どうしたらいいのかな」
「そうね、とりあえずあなたのお母さんに縁のある所に行ってみましょうか」
 縁のある所――めぐみは頭を巡らせる。
「実家とかでもいいの? ここからちょっとだけ離れてるけど」
 それ位しか思いつかないが――
「いいじゃない。じゃあ早速行きましょう」
 どうやら正解だったようだ。月原は伝票も持たず席を立ってしまった。めぐみは慌てて置き去りにされた伝票を片手に追いかける。
「マスターそろそろ行くわ」
「ああ、またいつでもきて下さい」
 マスターはそういうと、仕事の手を止めわざわざ扉を開けてくれた。
「あ、あのお会計――」
 今日はめぐみの為に休日を割いてもらっているのだ。当然月原の分まで払うのが筋だろうが、財布の中身が心もとない。もしかして高級なコーヒーにプリンだったとしたら――
「島岡さん大丈夫よ。このお店マスターの趣味だから」
 そういうと月原はめぐみが持っている伝票をひったくり、マスターのポケットにねじ込むと、さっさと出て行ってしまった。
「あ、ありがとうございました」
 めぐみがマスターにお礼を言うとやさしい表情をしていた。
「これから大変だろうけど、きっと芹ちゃんが助けてくれる。あんなに張り切っている芹ちゃんは初めて見るよ」
「ほ、本当ですか? とてもそういう風には――
 見えないといいかけて、外を見るとすでに月原は駅に向かって歩いていた。駅までの道が分からないので置いていかれるわけには行かない。めぐみはもう一度礼を言うと、喫茶猫又を飛び出していった。
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