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7.マスター

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――覚悟は決めたおいたほうがいい
 十七年。それなりに嫌な事や辛い事はあった。しかし、この平和な世で、ましてやそこそこ裕福で、優しい両親の元で育っためぐみに、『覚悟』なんてあるわけも無かった。
 今、自分の身に起きている事は、正に信じられないことの連続でまるで漫画やドラマの世界の出来事の様だった。
 漫画やドラマでは次々にってく困難に直面しながらも、力を合わせて立ち向かい、最後にはヒーローが解決してめでたし、で終わる。
 めぐみは今回の出来事も、最後には月原が助けてくれて、元の日常に戻る――どこか他人事のように考えていた。
 しかし、現実は物語とは違い非情だ。どうやらそういうわけにもいかないようだ。唯一の頼りの月原も、どうみても積極的には見えない、いや、そもそも頼りにしていいのか。
 色々な感情が渦巻き、吐き気すら覚えていたが、その時めぐみの前にすっと、何かが差し出された。
「プリン、嫌いじゃなければ、どうぞ。サービスです」

 喫茶猫又のマスターがにこりと笑いながら、プリンを二つテーブルに置いた。
「あ、ありがとうございます」
 折角せっかく厚意こういだが、今のめぐみはとても食べる気にはなれなかった。プリンを何となくながめていると、マスターが優しく声をかけてきた。
「お嬢さん、プリンはお嫌いですか?」
「い、いえ……。あ、好きですけど……」
「芹ちゃんも実はプリンが好きでね。あの子のは特別仕様なんです」
「は、はぁ」
 どう答えていいのか分からず、生返事を返した。流石に一口も食べないのは失礼だと思い、目の前のプリンをスプーンにすくい口に入れると途端とたんに絶妙な甘さと、とろけるような食感が広がった。
「――おいしい! これすごく美味しいです」
 そういうと次々と手が進み、あっという間に平らげてしまった。マスターはその姿を嬉しそうに見ていた。
「少しは落ち着きましたか?」
「あ、はい。ありがとうございます」
 落ち込む姿を見て持ってきてくれたのだろう。このマスター見た目は怪しいが、どうやら悪い人ではないみたいだ。
「お嬢さんも憑きもの関係ですか?」
 憑き物という言葉を月原以外から初めて聞いたが、さして驚かなかった。
 この人なら知っている、と思わせる。そんな雰囲気をただよわせていたからか、めぐみは自分の身に降りかかった事を話し始めてしまった。
 マスターは流石さすが接客業というべきだろうか、聞き上手でめぐみが気付いた時には、自分や母に降りかかった事を全て話していた。
 
「なるほどね……。確かに芹ちゃんが言うことは本当だよ。憑き物祓いはとても難しいんだ。それにそもそもその『依りしろ』の想いというのも身勝手というか、理不尽と言うか……」
 マスターの表情がくもる。月原と違って表情は豊かだ。
「マスターも、もしかして――」
「うん。昔ね、僕自身が別に悪いことをした訳でも無いんだけど、厄介なのに憑かれちゃってね。本当に死に掛けたんだ。そんな時に芹ちゃんのお父さんに助けられてね。まあ、僕も芹ちゃんのお父さんもボロボロになって入院する事になったけど。そこから僕も恩返しじゃないけど、影ながらお手伝いしているんだ」
 多少驚いたが、月原の父もまた、憑き物祓いをしているという事は、そういう家系なのだろうか。しかし、今たずねると話が横にれそうな気がしたので、その疑問は胸にしまっておく事にした。
「大変だったんですね……。でも願いを叶えてあげたんですよね」
 そうでなければ、マスターは今この場にいないだろう。何せ病院送りにしてくるような憑き物なのだから。
「いや、無理だったよ」
しかし、マスターの返答はめぐみの予想とは違うものだった。
「え! でも、じゃあどうやって」
「無理だった、と言えば語弊ごへいがあるね。形を変えて思いを果たしてあげた、って感じかな」
 よく分からないといった表情をしていると、マスターが再び話し始めた。
「例えばだけど、依り代の願いがプリンを食べたい、だったとする」
 そういうと、マスターはめぐみの空になった皿を指差した。
「しかしプリンはもう無い。じゃあどうしたらいいと思う?」
 めぐみは急に問われ、驚きながらも考えていると、月原のために用意されたプリンが目に入った。
「えーっと、じゃあこのプリンをどうぞ、かな」
 めぐみは月原の席にあるプリンを指差した。
「そう。所有権とか窃盗になるとか、そんなの彼らには関係ないからね。お構い無しにそのプリンを食べるだろうね。じゃあこのプリンが無い時は」
 そういうとマスターは月原のプリンをさっと下げ、カウンターに置いてしまった。
「更に、もうこの店に、いや、この世界にはもうプリンは無い。どうしようか?」
 意地悪な質問だ。プリンが食べたいと言っているのにプリンが無い世界にするなんて、どうしようもない。
 そもそも一体何の話なのだろうか。どうにか頭をひねってめぐみは答えた。
「えーっと、じゃあプリンに似た……ババロアなんてどうかな」
 言ってから、適当な答えをして気を悪くさせたかもと心配したが――
「うん。いい線いってるね」
 まさかの返事にめぐみは驚いた。
「依りしろの中で、プリンと言うものが甘いものの代名詞で、もし甘いものを食べたいだけなら、それで納得してくれるかもしれないね。それに、プリンが思い出の味で、昔の思い出にひたりたいからプリンを要求するなら、一緒に飲んでいたコーヒーを出したら満足してくれるかもしれない」
 めぐみは分かったような、分からないような複雑な表情を浮かべた。
「依り代は想いに囚われすぎて、一つの方向でしかものを見ない。しかし、答えは一つじゃない。今みたいに意外なところに解決の糸口はあるものだよ」
 よく分からないが、思いつめすぎるなと言うことだろうか。めぐみは一旦勝手にそう解釈する事にした。
「――お母さんの憑き物の願いも、だれも傷つかずに叶えてあげられるかもしれないんですね」
 甘い考えかもしれない。でも、わずかであるが、希望が見えた気がした。今はそれにすがるしかなかった。
「それは、君達しだいだよ。それに依り代を説得するのは並大抵の事じゃない。プリンに凄まじい執着を示す奴もいるし、それに、依り代と話す前にはまず、依り代を守っている神様や妖怪の正体も知らなければならないんだ」
 めぐみはまだ知らなかった情報に思わず目を丸くした。
「ええ! そうなんですか? でも具現化してるっていうから、見た目で分からないんですか」
「僕も昔同じ事を聞いたよ。具現化って、人間に干渉できるようになる事で、姿かたちを表すことじゃないんだって。神様や、妖怪の姿かたちを表してもらって、依り代と話をするって流れだね。そして姿を表してもらうのも、話をしてもらうのもまずは、妖怪と依り代の両方の名前……正体を暴かなくてはならない。これはもう僕達素人しろうとじゃあどうにもならないよ」
 依り代の正体も全く分からない上に、その本体を守る神様や妖怪の正体も知らなくてはならない。この事実はめぐみのようやく芽生めばえた小さな希望を打ち砕こうとしていた。

 落ち込んでいると、カウンターの奥から人の気配を感じた。めぐみは視線を送ると、月原が戻ってきていた。そのまま席には着かず、カウンターに置かれた特別仕様のプリンを食べ始めた。
 人が落ち込んでいるのに暢気のんきにプリンを食べている月原に文句の一つも言いたいが、既に自分の皿は空だ。言える筋合いではないので、黙って視線を送り続けるしかなかった。
「あら、どうしたの?」
「え、えっとどこに行ってたのかなって」
「ああ、ごめんなさいね。ちょっと猫又と遊んでいたの」
「猫又?」
 この喫茶店の名前だ。意味が分からず首を捻っていると、急に足元に気配を感じ、驚いて視線を送ると、めぐみを案内した黒猫が丸くなっていた。
「いつの間に――」
「あら、猫又。いきなりいなくなったと思ったらそんな所にいたのね。本当に神出鬼没ね」
 どうやらこの黒猫が猫又というらしい。喫茶猫又の猫だから同じく猫又なのか。どちらにしろ安直なネーミングだ。しかし、今は猫なんてどうでもいい。
 めぐみは月原に向かって口を開いた。
「マスターから色々聞いたんだ。憑き物祓いって大変なんだね」
 月原はマスターに鋭い視線を送った。
「マスター、あまり女子高生をいじめるものじゃないわよ。セクハラでうったえられてもしらないから」
「ええ! 誤解だよ」
 真顔の月原と表情豊かなマスターの漫才のような掛け合いをみていると、めぐみの口から大きなため息が漏れた。
「妖怪の正体に、その妖怪の形を作る依り代。どっちも分かんないよ」
「――今回は妖怪ね。正体なら分かっているわ」
 月原は食べ終わった更にスプーンを置いて驚くめぐみにむけて口を開いた。

「――いつ鬼(おに)それがあなたのお母さんに憑いているものよ」
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