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隙間
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私の兄は隙間を異様に怖がる。
扉や襖の半開き、電子レンジがしっかり閉まってなくても顔色を変えて、まさに血相を変えて怒る。そのくせ他はずぼらそのもので自分の部屋だってまともに掃除できないし今どきダサいスカジャンを羽織ってカッコいいだろ? なんて言ってるのでそんなことじゃせっかくできた彼女にも振られるんだろうなーと思いつつも怒る兄に「ごめんごめん」と言葉だけの謝罪をしていた。
──────────
そんな兄が死んでしまった。
発見したのは私。
冬の寒い日、友達と遊んでいて終電を逃した私は兄が一人暮らししているアパートに泊めてもらおうと(最初からそれを当てにしていた)兄に連絡をしたが反応が帰ってこずプリプリして兄の住むぼろっちぃ木造アパートに出向いた。兄の住んでいる部屋には呼び鈴すらついておらず私は時間も時間だったので控えめにノックして「兄さーん……私です。あなたのかわいいかわいい妹ですよーかわいいぞー」なんてことを酔っていたがせいに口走っていた。
それでも反応がなく、そこで私はそこで少し焦った。まさか留守? えっ? 私野宿? と急速に喉の乾きを覚えてダメもとでドアノブを捻ったらなんも重みも感じずぬるっとした手応えのもと扉が開いた。
「兄さーん……?」とやはり声をかけるが反応はなし。そこで私はおやっと思った。
兄の住んでる部屋は玄関を開けると右手にキッチン、左手にバスルーム、そして目の前にリビング兼寝室といった狭い部屋だが玄関とリビング兼寝室の部屋を区切るように摺りガラス戸が付いてる。
その摺りガラス戸が半開きになっている。
そのときは珍しいなとただ思い、また部屋から人の気配がしなかったものだから鍵をかけずに外出するなんて不用心だぞと思いながら部屋にあがろうとして私は息を呑み、持っていたハンドバッグを落とした。酔いも一瞬で覚めた。
部屋の奥で兄が倒れているのが見えたからだ。
「兄さんっ! 」
そう小さく叫ぶと私は兄に駆け寄った。血など流れている様子はなかったが意識はないようだった。スマートフォンを取り出し救急車を呼ぼうとしながら兄の腕を触ると信じられないくらい冷たく、そして固かった。
おそるおそる首筋に手を当てるとやはりそこも怖いほど冷たく固く、そして脈はなかった。
「火事ですか? 救急ですか? 」というスマートフォン越しからの問いかけにも私はしばらく反応ができずただ呆然と床に伏し、死んでいる兄さんを見つめていた。
──────────
兄さんの死因は心臓発作による心筋梗塞ということになった。
外傷はなく、薬物反応も出なかったらしい。つまり事件性はなしと判断された。
あの日私が兄さんの部屋を訪れる六時間ほど前に兄さんは死んでしまったようだ。
「あんたが早く見つけてくれて良かった」母が私の肩を抱きながらそう言い、続けて「あんたに見つけてもらえてお兄ちゃんも嬉しかったやろうな」と号泣していた。
母がずっと泣いている中、父はてきぱきと働いていた。正直父のことは頼りないと思っていたがこの思わぬ姿に私は強い尊敬の念を抱いた。
しかし、やはり父も消耗しているのは明らかで目の下には隈がはっきりと浮かび上がり、肌の色も悪い。そんな様子を見て私も父を手伝おうとするが父は「静江の側についていてくれ」と普段は母さんとしか呼ばない母を名前で呼び「静江は弱い人だから」と続けた。弱いからという言葉の響きの中に計り知れないほどのいたわりと優しさがこもっていた。
そんな中私は、というとまだ兄さんが死んだという現実をどこか作り物めいたものに感じて現実感がまったくなかった。死んでいた兄を見つけたのは私であり、救急隊や警察がくるまで私は兄の死体とずっと一緒にいた。いうなれば兄の死と一番長い時間を共にしているのは私なのだ。
しかし、どうしても兄が死んだとは思えなかった。だから涙もでなかった。ただ胃の中がずっしりと重く息をするのもなんだか億劫で頭の中に濃い霧が漂い思考が普段よりずっと鈍かった。
通夜が終わり、葬儀が終わり、火葬が終わり、兄が小さな骨になってしまったときたった一滴だけ涙が溢れた。
本当に死んじゃったんだねと兄に心の中で語りかけた。
──────────
自宅に戻ると父は疲れ切り、母はもう泣いてはいないものの憔悴しきり度々兄の名前を呟くように呼んでいる。そんな姿を見ていると兄に対して怒りがこみ上げてくる。兄さん、兄さんが死んじゃったせいで父さんも母さんもボロボロだよ、と。
そんなこと言われても、と困ったような泣き笑いの表情をつくる兄さんの顔をはっきりとリアルに想像できて私は驚いた。
父の寝室に入ると父は未だに喪服から着替えずベッドの上で項垂れていた。
部屋に入ってきた私にも気が付いてない様子で私が「お父さん」と私が声をかけるとようやく父は顔をあげた。
私は母よりも父の方がずっと心配であった。母は嘆いていればいいだろう泣いていれば状況は動いていく、だけども父は? 父の嘆きだって母と同じくらい大きいだろう。それなのにあらゆる仕事を一手に引き受け、泣く暇もないくらい動いてる。
父は母のことを弱い人と言ったが私は弱い人より強い人が心配だ。案外弱いもの、柔らかいものは折れにくい、だけども強いもの、硬いものは思っているより簡単に折れてしまうのだ。
私はすっと隣に座り、父の手を取る。
父は意外そうな顔をして驚き「どうした? 」と言った。
父に触れるのなんて何年ぶりだろうか、思い出せないほど久しぶりだ。今なぜ私が父の手を取っているのか私自身分からない、ただ手を取って分かることは最後に触れたときよりずっと張りがなくなり力強さというものを感じなかった。
あぁ父も年を取ってるんだな、と当たり前のことを思った。
「兄さんの部屋は私が片付けてくるよ」と思っていることとは全然違うことを私は言った。
兄が借りていたアパートも引き払わないといけないだろうしなにも言わなければ父は一人でその作業をしてしまうだろう。兄が住んでいた部屋を一人で片付ける父の姿を想像するとたまらない。
「いや、それは父さんが……」
「私にやらせて、お願い」
父の言葉に重ねるように私は言った。父はしばらく逡巡していたようだが「頼めるか? 」と私の目を見て言う。
それに「もちろん! 」と答え「今度はお父さんはお母さんについていてあげて」と父の手を離してベッドから立つ。
なんだかとても気恥ずかしくなって顔が火照ってくるのが分かった。それを見られないように父に背中を向けて寝室から出るために扉を開ける。
「お前ももう大人だな」と父の声が後ろから聞こえた。
──────────
兄の部屋の整理をしている。
まさに男の一人暮らしといった感じで物が乱雑に置かれているというより積まれている感じで私なら一夜だけならともかく一日たりとてこの部屋で生活するのは無理だろうなと感じた。
これでも私がちょくちょく訪ねてきて掃除してあげていたのだ。それで兄の彼女が勘違いして喧嘩になったと兄に愚痴られたことを思い出す。
私も頭にきちゃって「だったらその女に掃除させな! 」と怒鳴ったことを思い出す。それも今となっては良い思い出、にはならないやっぱり今思い出しても充分にムカつく出来事だ。
その彼女は葬儀中後ろの方で泣いてた。いい気なものだと思った。彼氏を亡くした悲劇のヒロインぶっているのだろう隣には兄の友人がいてその彼女を慰めているのが目に入り、その光景が私はとんでもなくおぞましく、いやらしいものに感じた。
あの二人、きっと付き合い出すんだろうな。兄さん、あんた出汁に使われてるよ。
私が心の中でそういうと兄は一発ぶん殴って許すと大義そうに腕を組んで頷いた。もちろん、私の妄想の兄だった。ボコボコにしてほしいくらいだよとまた私は思った。
ふと、顔をあげると摺りガラス戸が少しだけ半開きになっている。兄に怒られてしまうとふと苦笑し、摺りガラス戸を閉めるために立ち上がろうとする。
そういえばあの日も、兄さんが死んだ日もこの摺りガラス戸は半開きになっていた。あんなに半開きを嫌っていた兄さんがなぜあの日摺りガラス戸を半開きにしていたのか。
心臓発作が起こって苦しみながら摺りガラス戸を半端に開けてキッチンから部屋の奥へと進んでいったのか。でもそれなら兄は部屋の奥に向かって倒れていなければおかしい、あの日兄は部屋の奥からキッチンに向かって倒れていたのだ。
そう、まるで摺りガラス戸を閉じに行こうとして力尽きた。そのようにも見える。
最後の最後まで半開きが気になったと思うとどうしようもないなと思う。だがなんだか兄らしい。
そこでじぃっとこちらを見る視線に気が付いた。瞬間、心臓が止まるかのような衝撃を感じる「うっ」と声が漏れる。
一人の男が半開きのドアから顔を少しだけ覗かけていた。顔は青白く目が真っ黒で、その真っ黒な目で私をじぃっと見つめていた。
──────────
言葉が出なかった。息も止まった。
その男はなにやらこちらを見つめながらもぞもぞと顔だけ動かしているそれが生理的な嫌悪を催し、まるで岩礁の下を覗いてみればそこにびっしりとフナムシが蠢いてるのを目の当たりにしたかのような気持ち悪さがある。
警察を、呼ばなくちゃと思うものの体は震えるばかりで動かない。
まだその男は顔だけでぐいぐいと引き戸を押すような動きをしている。私はその行動の意味が分かりゾッとした。摺りガラス戸を開けようとしているのだ。そう確信した。この男は理由は分からないがなぜか顔だけでこの摺りガラス戸を開けようとしている。
男の行動の意味が分かると同時に私は自分の体のコントール権を取り戻した。
泣きそうになりながらも摺りガラス戸に駆け寄り、その男の方を見ないように意識して戸を思いっきり閉める。
「ぎっ! 」と鳴くような音がしたがそれは男が発したものか戸が閉まるときに出た音なのか私には判別がつかなかった。戸を閉めた瞬間男の気配はあとかたもなく霧散した。消え去ったと言っていい。
しかし、戸から手を離すのはしばらく無理そうだ。なんだったんだあれは……。
人間の形をしていたが人間というよりも受けた印象は虫、昆虫のようだった。まだ息が落ち着かない。ただの不審者なんかじゃ絶対にない。
もしかして兄はあれを恐れていたんじゃないか? 扉を半開きにしているとあれが現れるから兄は異様に扉の半開きを恐れた。なら? と思う。ならあの日、もしかして半開きの扉からあれがこちらに入ってきたのではないか? 自らの想像に肌が粟立つ、だから……だから兄は死んだんだとそう私は言いたいのか? と自問自答する。
それならすべて辻褄が合うじゃないか?
半開きを異様に恐れていた兄。
あの若さで心臓発作、心筋梗塞という不自然な死を遂げた兄。
そしてあの日に限って半開きになっていた摺りガラス戸。
そしてあの青白く目が真っ黒な男。
それがすべて繋がっているとすれば私はすんなり納得ができる。
だが、誰が信じる! と心の中で叫びをあげる。こんな話、誰も信じない! 兄を亡くして頭がおかしくなったと思われるだけだ。そうだ、とまた思いつく。兄も同じように思ったんだ! 頭がおかしくなったとおもうわれると! だから兄も誰にも私にだって言わなかったんだ!
────────────
あれから十年。
兄が死に、兄の代わりに私が半開きの扉を極度に恐れるようになってから十年の歳月がすぎた。
長いようであっという間だった気がする。あれから当然私も、私の周りも変化した。
兄の彼女だった女は案の定兄の友達だった男と付き合って結婚までしたらしい。
母は兄が亡くなってすっかり老け込み、家に籠りがちになった。
父はまだ現役で仕事をこなしながら母を慰めながら共に暮らしている。
そして私は三年前に職場の先輩と結婚し、半年前に男の子を出産した。それに喜んだのは母でさすがに夫や夫の親族の前では言わないが兄の生まれ変わりに違いないと信じているようで名前まで兄と同じ名前にしろと私に持ちかけてきて辟易とした。
父がうまく宥めていたが母には困ったものだ。
だがそれでも私の母であり、子供を亡くしてしまった女なのである。私にも息子ができて初めてあのときの母の嘆きの一端でも理解できるような気がした。
もし、私がこの子を失えば同じように苦しむだろう。
そしてあの日以来扉の半開きは絶対に許して来なかった。夫にも交際している段階で私のこの癖(と説明した)を理解してもらえなければ別れると口を酸っぱくして言い続けたおかげで我が家で半開きが発生することはなかった。
今思えば十年前のあの男は私が見た幻だったのではないか、とすら思うようになっていた。
兄を失い私も非常にショックを受けていた。そんな状態で兄との思い出の詰まったあの部屋で一人で片付けをしていればなんらかの幻覚を見ても不思議じゃないとそう思う。
しかしだからといって半開きは許せない。もはや一種の使命のように私は扉をきちんとしめる。半開きは兄の遺した教えでもあり、また仇でもあるのでその意欲は並々なものではなかった。
そんな幸せといっても言いある日の午後、私は息子を寝室に寝かせてキッチンで洗い物をしていた。
この洗い物が最近の楽しみであった。三人家族なので洗い物などほとんど出ないがスポンジでお皿を綺麗にしていくその作業に快感を覚えていた。
そのとき傍らに置いてあるスマートフォンからけたたましい音が鳴った【地震です! 地震です! 】さっと血の気が引いた。ほとんど無意識にガス栓を締め、慌ててドアを蹴破るようにして寝室へ走り込んだ。息子を抱き上げるとぐらりと視界が揺れた、いや建物自体、土地自体が揺れている。当たり前だ地震なのだから。
泣き出す息子を抱きしめ、へたり込みながらも「大丈夫だよ、大丈夫だよ。大したことないよ」と言い聞かせてまたそれは自分にも言い聞かせていた。揺れはすぐに収まりほっと胸を撫で下ろした。
──────────
じぃっとこちらを窺うような視線を感じて息子から目を上げ扉の方を見ると「ひっ」と短い悲鳴が出た。
青白い顔で目が真っ黒な男がまた顔だけをこちらに出して私を見つめていた。十年前のあの男だ。
慌てて寝室に入ったものだから扉をきちんと締めていなかったのだ。
しかも今回は兄の部屋で遭遇したときよりも扉が開いているスペースが断然広い、人一人がなんとか通れるくらいのスペースはある。
閉めなきゃと思ったときにはもう遅かった。ぬっと男が半身で扉の隙間に体を入れ部屋に侵入してくる。体は全身真っ黒であった。服を着ているのかそれとも肌自体が真っ黒なのか判別がつかない、ただ黒いということしかわからなかった。
息子を抱きながら後ずさる。ただ息子を守らなければと思うだけである。男はゆっくりと近づきこちらに手を伸ばしてくる。
思わず息子を体の下に入れ、うずくまる。男のつま先が目の前にあった。
「兄さん助けて」私は夫でも父でもなく、もう十年も前に死んだ兄に助けて求めた。理由はわからない。
そのとき肉と肉がぶつかる激しい音が私のすぐ頭上で炸裂した。
すぐ目の前に居た男はぶっ飛んでいた。その代わりに私の目の前にはダサいスカジャンを着た一人の男が立っていた。
「お前は一発じゃ許さねぇ」と呟くとずんずんと歩き男に近づき、一発もう一発と殴りつけ男を寝室の外まで殴り飛ばしていった。
私は目の前の光景がとても信じられなかった。
ダサいスカジャン姿の背中、その後ろ姿に見覚えがあったからだ。しかしここにその人が居るとはどうしても信じられなかった。
「兄さん! 」私がそう叫んでも兄はこちらを振り返らずただ一言「任せろ」と言い自身も寝室出て、後ろ手でドアを閉めた。
ドアが閉まるとあの日と同じようにあの男の気配は消え、さらに兄の気配も消えた。
なんだったんだろう、そう思うがもう大丈夫なのだろうと根拠もなく思った。いや、根拠ならある! 兄が「任せろ」と言ったじゃないかそれならもう絶対に大丈夫なんだ。知らず笑みが浮かぶ「ありがとう兄さん」
息子もいつの間にか泣き止み、私を見て笑っていた。
扉や襖の半開き、電子レンジがしっかり閉まってなくても顔色を変えて、まさに血相を変えて怒る。そのくせ他はずぼらそのもので自分の部屋だってまともに掃除できないし今どきダサいスカジャンを羽織ってカッコいいだろ? なんて言ってるのでそんなことじゃせっかくできた彼女にも振られるんだろうなーと思いつつも怒る兄に「ごめんごめん」と言葉だけの謝罪をしていた。
──────────
そんな兄が死んでしまった。
発見したのは私。
冬の寒い日、友達と遊んでいて終電を逃した私は兄が一人暮らししているアパートに泊めてもらおうと(最初からそれを当てにしていた)兄に連絡をしたが反応が帰ってこずプリプリして兄の住むぼろっちぃ木造アパートに出向いた。兄の住んでいる部屋には呼び鈴すらついておらず私は時間も時間だったので控えめにノックして「兄さーん……私です。あなたのかわいいかわいい妹ですよーかわいいぞー」なんてことを酔っていたがせいに口走っていた。
それでも反応がなく、そこで私はそこで少し焦った。まさか留守? えっ? 私野宿? と急速に喉の乾きを覚えてダメもとでドアノブを捻ったらなんも重みも感じずぬるっとした手応えのもと扉が開いた。
「兄さーん……?」とやはり声をかけるが反応はなし。そこで私はおやっと思った。
兄の住んでる部屋は玄関を開けると右手にキッチン、左手にバスルーム、そして目の前にリビング兼寝室といった狭い部屋だが玄関とリビング兼寝室の部屋を区切るように摺りガラス戸が付いてる。
その摺りガラス戸が半開きになっている。
そのときは珍しいなとただ思い、また部屋から人の気配がしなかったものだから鍵をかけずに外出するなんて不用心だぞと思いながら部屋にあがろうとして私は息を呑み、持っていたハンドバッグを落とした。酔いも一瞬で覚めた。
部屋の奥で兄が倒れているのが見えたからだ。
「兄さんっ! 」
そう小さく叫ぶと私は兄に駆け寄った。血など流れている様子はなかったが意識はないようだった。スマートフォンを取り出し救急車を呼ぼうとしながら兄の腕を触ると信じられないくらい冷たく、そして固かった。
おそるおそる首筋に手を当てるとやはりそこも怖いほど冷たく固く、そして脈はなかった。
「火事ですか? 救急ですか? 」というスマートフォン越しからの問いかけにも私はしばらく反応ができずただ呆然と床に伏し、死んでいる兄さんを見つめていた。
──────────
兄さんの死因は心臓発作による心筋梗塞ということになった。
外傷はなく、薬物反応も出なかったらしい。つまり事件性はなしと判断された。
あの日私が兄さんの部屋を訪れる六時間ほど前に兄さんは死んでしまったようだ。
「あんたが早く見つけてくれて良かった」母が私の肩を抱きながらそう言い、続けて「あんたに見つけてもらえてお兄ちゃんも嬉しかったやろうな」と号泣していた。
母がずっと泣いている中、父はてきぱきと働いていた。正直父のことは頼りないと思っていたがこの思わぬ姿に私は強い尊敬の念を抱いた。
しかし、やはり父も消耗しているのは明らかで目の下には隈がはっきりと浮かび上がり、肌の色も悪い。そんな様子を見て私も父を手伝おうとするが父は「静江の側についていてくれ」と普段は母さんとしか呼ばない母を名前で呼び「静江は弱い人だから」と続けた。弱いからという言葉の響きの中に計り知れないほどのいたわりと優しさがこもっていた。
そんな中私は、というとまだ兄さんが死んだという現実をどこか作り物めいたものに感じて現実感がまったくなかった。死んでいた兄を見つけたのは私であり、救急隊や警察がくるまで私は兄の死体とずっと一緒にいた。いうなれば兄の死と一番長い時間を共にしているのは私なのだ。
しかし、どうしても兄が死んだとは思えなかった。だから涙もでなかった。ただ胃の中がずっしりと重く息をするのもなんだか億劫で頭の中に濃い霧が漂い思考が普段よりずっと鈍かった。
通夜が終わり、葬儀が終わり、火葬が終わり、兄が小さな骨になってしまったときたった一滴だけ涙が溢れた。
本当に死んじゃったんだねと兄に心の中で語りかけた。
──────────
自宅に戻ると父は疲れ切り、母はもう泣いてはいないものの憔悴しきり度々兄の名前を呟くように呼んでいる。そんな姿を見ていると兄に対して怒りがこみ上げてくる。兄さん、兄さんが死んじゃったせいで父さんも母さんもボロボロだよ、と。
そんなこと言われても、と困ったような泣き笑いの表情をつくる兄さんの顔をはっきりとリアルに想像できて私は驚いた。
父の寝室に入ると父は未だに喪服から着替えずベッドの上で項垂れていた。
部屋に入ってきた私にも気が付いてない様子で私が「お父さん」と私が声をかけるとようやく父は顔をあげた。
私は母よりも父の方がずっと心配であった。母は嘆いていればいいだろう泣いていれば状況は動いていく、だけども父は? 父の嘆きだって母と同じくらい大きいだろう。それなのにあらゆる仕事を一手に引き受け、泣く暇もないくらい動いてる。
父は母のことを弱い人と言ったが私は弱い人より強い人が心配だ。案外弱いもの、柔らかいものは折れにくい、だけども強いもの、硬いものは思っているより簡単に折れてしまうのだ。
私はすっと隣に座り、父の手を取る。
父は意外そうな顔をして驚き「どうした? 」と言った。
父に触れるのなんて何年ぶりだろうか、思い出せないほど久しぶりだ。今なぜ私が父の手を取っているのか私自身分からない、ただ手を取って分かることは最後に触れたときよりずっと張りがなくなり力強さというものを感じなかった。
あぁ父も年を取ってるんだな、と当たり前のことを思った。
「兄さんの部屋は私が片付けてくるよ」と思っていることとは全然違うことを私は言った。
兄が借りていたアパートも引き払わないといけないだろうしなにも言わなければ父は一人でその作業をしてしまうだろう。兄が住んでいた部屋を一人で片付ける父の姿を想像するとたまらない。
「いや、それは父さんが……」
「私にやらせて、お願い」
父の言葉に重ねるように私は言った。父はしばらく逡巡していたようだが「頼めるか? 」と私の目を見て言う。
それに「もちろん! 」と答え「今度はお父さんはお母さんについていてあげて」と父の手を離してベッドから立つ。
なんだかとても気恥ずかしくなって顔が火照ってくるのが分かった。それを見られないように父に背中を向けて寝室から出るために扉を開ける。
「お前ももう大人だな」と父の声が後ろから聞こえた。
──────────
兄の部屋の整理をしている。
まさに男の一人暮らしといった感じで物が乱雑に置かれているというより積まれている感じで私なら一夜だけならともかく一日たりとてこの部屋で生活するのは無理だろうなと感じた。
これでも私がちょくちょく訪ねてきて掃除してあげていたのだ。それで兄の彼女が勘違いして喧嘩になったと兄に愚痴られたことを思い出す。
私も頭にきちゃって「だったらその女に掃除させな! 」と怒鳴ったことを思い出す。それも今となっては良い思い出、にはならないやっぱり今思い出しても充分にムカつく出来事だ。
その彼女は葬儀中後ろの方で泣いてた。いい気なものだと思った。彼氏を亡くした悲劇のヒロインぶっているのだろう隣には兄の友人がいてその彼女を慰めているのが目に入り、その光景が私はとんでもなくおぞましく、いやらしいものに感じた。
あの二人、きっと付き合い出すんだろうな。兄さん、あんた出汁に使われてるよ。
私が心の中でそういうと兄は一発ぶん殴って許すと大義そうに腕を組んで頷いた。もちろん、私の妄想の兄だった。ボコボコにしてほしいくらいだよとまた私は思った。
ふと、顔をあげると摺りガラス戸が少しだけ半開きになっている。兄に怒られてしまうとふと苦笑し、摺りガラス戸を閉めるために立ち上がろうとする。
そういえばあの日も、兄さんが死んだ日もこの摺りガラス戸は半開きになっていた。あんなに半開きを嫌っていた兄さんがなぜあの日摺りガラス戸を半開きにしていたのか。
心臓発作が起こって苦しみながら摺りガラス戸を半端に開けてキッチンから部屋の奥へと進んでいったのか。でもそれなら兄は部屋の奥に向かって倒れていなければおかしい、あの日兄は部屋の奥からキッチンに向かって倒れていたのだ。
そう、まるで摺りガラス戸を閉じに行こうとして力尽きた。そのようにも見える。
最後の最後まで半開きが気になったと思うとどうしようもないなと思う。だがなんだか兄らしい。
そこでじぃっとこちらを見る視線に気が付いた。瞬間、心臓が止まるかのような衝撃を感じる「うっ」と声が漏れる。
一人の男が半開きのドアから顔を少しだけ覗かけていた。顔は青白く目が真っ黒で、その真っ黒な目で私をじぃっと見つめていた。
──────────
言葉が出なかった。息も止まった。
その男はなにやらこちらを見つめながらもぞもぞと顔だけ動かしているそれが生理的な嫌悪を催し、まるで岩礁の下を覗いてみればそこにびっしりとフナムシが蠢いてるのを目の当たりにしたかのような気持ち悪さがある。
警察を、呼ばなくちゃと思うものの体は震えるばかりで動かない。
まだその男は顔だけでぐいぐいと引き戸を押すような動きをしている。私はその行動の意味が分かりゾッとした。摺りガラス戸を開けようとしているのだ。そう確信した。この男は理由は分からないがなぜか顔だけでこの摺りガラス戸を開けようとしている。
男の行動の意味が分かると同時に私は自分の体のコントール権を取り戻した。
泣きそうになりながらも摺りガラス戸に駆け寄り、その男の方を見ないように意識して戸を思いっきり閉める。
「ぎっ! 」と鳴くような音がしたがそれは男が発したものか戸が閉まるときに出た音なのか私には判別がつかなかった。戸を閉めた瞬間男の気配はあとかたもなく霧散した。消え去ったと言っていい。
しかし、戸から手を離すのはしばらく無理そうだ。なんだったんだあれは……。
人間の形をしていたが人間というよりも受けた印象は虫、昆虫のようだった。まだ息が落ち着かない。ただの不審者なんかじゃ絶対にない。
もしかして兄はあれを恐れていたんじゃないか? 扉を半開きにしているとあれが現れるから兄は異様に扉の半開きを恐れた。なら? と思う。ならあの日、もしかして半開きの扉からあれがこちらに入ってきたのではないか? 自らの想像に肌が粟立つ、だから……だから兄は死んだんだとそう私は言いたいのか? と自問自答する。
それならすべて辻褄が合うじゃないか?
半開きを異様に恐れていた兄。
あの若さで心臓発作、心筋梗塞という不自然な死を遂げた兄。
そしてあの日に限って半開きになっていた摺りガラス戸。
そしてあの青白く目が真っ黒な男。
それがすべて繋がっているとすれば私はすんなり納得ができる。
だが、誰が信じる! と心の中で叫びをあげる。こんな話、誰も信じない! 兄を亡くして頭がおかしくなったと思われるだけだ。そうだ、とまた思いつく。兄も同じように思ったんだ! 頭がおかしくなったとおもうわれると! だから兄も誰にも私にだって言わなかったんだ!
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あれから十年。
兄が死に、兄の代わりに私が半開きの扉を極度に恐れるようになってから十年の歳月がすぎた。
長いようであっという間だった気がする。あれから当然私も、私の周りも変化した。
兄の彼女だった女は案の定兄の友達だった男と付き合って結婚までしたらしい。
母は兄が亡くなってすっかり老け込み、家に籠りがちになった。
父はまだ現役で仕事をこなしながら母を慰めながら共に暮らしている。
そして私は三年前に職場の先輩と結婚し、半年前に男の子を出産した。それに喜んだのは母でさすがに夫や夫の親族の前では言わないが兄の生まれ変わりに違いないと信じているようで名前まで兄と同じ名前にしろと私に持ちかけてきて辟易とした。
父がうまく宥めていたが母には困ったものだ。
だがそれでも私の母であり、子供を亡くしてしまった女なのである。私にも息子ができて初めてあのときの母の嘆きの一端でも理解できるような気がした。
もし、私がこの子を失えば同じように苦しむだろう。
そしてあの日以来扉の半開きは絶対に許して来なかった。夫にも交際している段階で私のこの癖(と説明した)を理解してもらえなければ別れると口を酸っぱくして言い続けたおかげで我が家で半開きが発生することはなかった。
今思えば十年前のあの男は私が見た幻だったのではないか、とすら思うようになっていた。
兄を失い私も非常にショックを受けていた。そんな状態で兄との思い出の詰まったあの部屋で一人で片付けをしていればなんらかの幻覚を見ても不思議じゃないとそう思う。
しかしだからといって半開きは許せない。もはや一種の使命のように私は扉をきちんとしめる。半開きは兄の遺した教えでもあり、また仇でもあるのでその意欲は並々なものではなかった。
そんな幸せといっても言いある日の午後、私は息子を寝室に寝かせてキッチンで洗い物をしていた。
この洗い物が最近の楽しみであった。三人家族なので洗い物などほとんど出ないがスポンジでお皿を綺麗にしていくその作業に快感を覚えていた。
そのとき傍らに置いてあるスマートフォンからけたたましい音が鳴った【地震です! 地震です! 】さっと血の気が引いた。ほとんど無意識にガス栓を締め、慌ててドアを蹴破るようにして寝室へ走り込んだ。息子を抱き上げるとぐらりと視界が揺れた、いや建物自体、土地自体が揺れている。当たり前だ地震なのだから。
泣き出す息子を抱きしめ、へたり込みながらも「大丈夫だよ、大丈夫だよ。大したことないよ」と言い聞かせてまたそれは自分にも言い聞かせていた。揺れはすぐに収まりほっと胸を撫で下ろした。
──────────
じぃっとこちらを窺うような視線を感じて息子から目を上げ扉の方を見ると「ひっ」と短い悲鳴が出た。
青白い顔で目が真っ黒な男がまた顔だけをこちらに出して私を見つめていた。十年前のあの男だ。
慌てて寝室に入ったものだから扉をきちんと締めていなかったのだ。
しかも今回は兄の部屋で遭遇したときよりも扉が開いているスペースが断然広い、人一人がなんとか通れるくらいのスペースはある。
閉めなきゃと思ったときにはもう遅かった。ぬっと男が半身で扉の隙間に体を入れ部屋に侵入してくる。体は全身真っ黒であった。服を着ているのかそれとも肌自体が真っ黒なのか判別がつかない、ただ黒いということしかわからなかった。
息子を抱きながら後ずさる。ただ息子を守らなければと思うだけである。男はゆっくりと近づきこちらに手を伸ばしてくる。
思わず息子を体の下に入れ、うずくまる。男のつま先が目の前にあった。
「兄さん助けて」私は夫でも父でもなく、もう十年も前に死んだ兄に助けて求めた。理由はわからない。
そのとき肉と肉がぶつかる激しい音が私のすぐ頭上で炸裂した。
すぐ目の前に居た男はぶっ飛んでいた。その代わりに私の目の前にはダサいスカジャンを着た一人の男が立っていた。
「お前は一発じゃ許さねぇ」と呟くとずんずんと歩き男に近づき、一発もう一発と殴りつけ男を寝室の外まで殴り飛ばしていった。
私は目の前の光景がとても信じられなかった。
ダサいスカジャン姿の背中、その後ろ姿に見覚えがあったからだ。しかしここにその人が居るとはどうしても信じられなかった。
「兄さん! 」私がそう叫んでも兄はこちらを振り返らずただ一言「任せろ」と言い自身も寝室出て、後ろ手でドアを閉めた。
ドアが閉まるとあの日と同じようにあの男の気配は消え、さらに兄の気配も消えた。
なんだったんだろう、そう思うがもう大丈夫なのだろうと根拠もなく思った。いや、根拠ならある! 兄が「任せろ」と言ったじゃないかそれならもう絶対に大丈夫なんだ。知らず笑みが浮かぶ「ありがとう兄さん」
息子もいつの間にか泣き止み、私を見て笑っていた。
応援ありがとうございます!
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