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禿
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はっきりと自分が禿げてきたことを自覚したのは二十五歳のときであった。
「あっ……やばいなぁ」
鏡を見ながら前髪を上げてみると明らかにV字禿の兆候が出ているのが分かった。
私の父も祖父も、叔父も少し年の離れた従兄弟でさえも禿ていた。父は高い育毛剤を頭にふりかけ、大して好きでもない海藻をたくさん食べ、なんだかよく分からないサプリメントを飲む等涙ぐましくも無駄な努力を重ねていた。祖父はそんな努力をしたくないのか、もう既にその道は昔通ったのかひと目でそれと分かるカツラを被っていた。
数年前祖父が亡くなったとき遺影がカツラを被っている写真になったときには唖然としたものだ。だが、仕方ないのである祖父はカツラを被っているときにしか写真を撮らせなかったのだから遺影がカツラを被っているのもやむなし、なのである。
私の一族の男たちはみんな禿ばかりだったのでいざ私自身が禿げてきたとき私の心にさほどの衝撃はなかった。
ついにきたなと思ったものである。ついにきたな、さぁ勝負だ! とまさに自分との戦いが始まった。
そしてその自分との戦いはそれから三年後、私が二十八の頃にはあっさりと決着がついた。
結論から言えば私は負けた。
髪の毛はどんどん抜け、私の額は広くなっていた。中央部の髪の毛はなんとか踏みとどまっていたが、右翼と左翼は後退し、さながら私の生え際は魚鱗の陣のような様相を体していた。
禿始めて私は街のオシャレ美容院に行くのをやめた。いくらファッション紙を捲っても肝心の自分の頭が魚鱗の陣ではどうしようもないし、オシャレ美容師に禿がきたとクスクス裏で笑われているのではと思うと足を運ぶことは無理だった。
禿は人を卑屈にするらしい。
私は近所のおじいさんマスターがやっている床屋に通うことにした。ここなら禿の私にも居場所があると思った。ここなら上手いこと禿と付き合っていけると思った。
しかし、この床屋を選んだのは大失敗であった。
私が敗北を喫してから二年、さらに額の砂漠化は進み、明らかに床屋のおじいさんマスターが私の髪型に苦慮し始めたときその悲劇は起こった。
数カ月ぶりの散髪であった。私は前日徹夜で残業をこなし、疲れていた。
散髪が始まると私は自分で危惧していたようにうつらうつらとし始めた。散髪中に寝るのは危ないと感じていたので私は眠りに落ちないように睡魔と戦っていた。
そんな私の様子を見かねた床屋のおじいさんマスターが「おやすみになっていただいても大丈夫ですよ」と声をかけてくれた。
半分眠っていた私はなんとか「ありがとうございます」と言葉を発し瞼を閉じた。
どれくらい眠ったのかふと目を覚ますとまだ散髪の途中のようで右側頭部の髪の毛が切られてなかった。あぁ今から切るのか、まだ少し寝れるなと再び目を閉じようとすると「シャンプーしますね」とおじいさんマスターが座席の前についている洗面台のシャワーを流し始めた。
「えっ……」と困惑の声を出したものの、「では、どうぞ」と洗面台に指し示され私は身を屈めてシャンプーを受ける。まさか、と私の脳裏に嫌な予感が過ぎり、背中に冷たい汗が流れた。
一通りシャンプーが終わり、ドライヤーで髪を乾かしてもらう。右側頭部に残っている切られてない髪の毛がドライヤーの風を受け靡いていた。
「セット致しますがスプレー使ってもよろしいですか?」
という問いに少し震える声で「……はい、お願いします」と答える。
おじいさんマスターはヘアブラシを手に取り、右側頭部の髪の毛を反対側へぐいっと撫で付け整髪スプレーをこれでもかとかけ始めた。
やはり! 私が恐れていた通りの髪型にされてしまった。
すなわち、バーコード! さすがにまだ人々がイメージするTHEオヤジ! ってほどには禿は進行してはいないが私自ら見てもそれは不自然すぎる髪型だ。だがもうここまで来たらなにも言えない、おじいさんマスターは良かれと思ってやってくれたんだ。なにも言うまい。
「ありがとうございましたー! 」
お金を払い、床屋を後にする。振り返り床屋の扉に写る自分を見てみると香港マフィアのような髪型で自分でも少し笑える。
しかし、禿を隠すならこれしか方法はないのだろう、と思った。
なぜ世の禿げたおじさんたちはバーコードなんて奇妙キテレツな髪型をしているのかと思っていたが微妙に禿げた状態のうちからこの髪型にされもはや後戻りできなくなってあの末期の姿になるのだなと妙な納得を覚えた。
そして恐怖した。私もそのレールに乗ってしまったのだ。もはや私もバーコード隊の新入隊員として扱われてしまうと理解した。
そこから先はバーコード地獄の始まりだった。まず一つ、整髪スプレーは絶対に切らせない。常にストックしておかなくてはならない。
整髪スプレーがなければ冗談抜きに外に出られないのだ。右側頭部だけロン毛の情けない姿を人前に晒すわけにはいかない。
さらに走れないという制約もついた。理由は髪型が乱れるからだ。そして中途半端バーコードにとって髪型の乱れは死である。
そして風の強い日を非常に恐れるようになった。強風に遊ばれ髪の毛ぱっかーんとなればもうそれはもうどうしようもないのだ。修正不可能なのであります。
禿げた頭を隠す、ただこれだけのために私は多くのものを失う必要があった。
上記したもの以外でも、海やプール、温泉にも行けないし走れないということはスポーツができないということだ。
私のリソースの何割かはバーコード髪型を守るということに割かざるを得なくなってしまった。息苦しい毎日が続いていった。
そんなとき一人の女性と出会った。その女性は私より二歳年上でスナックで働いているという。彼女の勤めているスナックで知り合ったわけではなく、たまたま私の行きつけのバーのカウンターで隣同士となりそこから交流が始まった。
スナックの仕事というのはストレスがたまるらしく彼女はそのぽっちゃりとした体を揺らしながらハイボールを飲み、地黒の肌を朱に染めながら愚痴を吐いていた。
このように書くと私は彼女にあまり良い印象を持ってないように受け取られるかもしれないが私は彼女の自然体な振る舞いを好ましいものに感じていた。それは私がバーコードで自らの禿頭を隠しているから余計に素晴らしいものに感じられたのかもしれない。
何回か偶然会い、そして何回か約束して会った。初めて出会って三ヶ月も経つ頃にはお互いの家を行き来し、部屋に泊まるような関係になっていた。
年末が近づいてきたその日、私は夜遅く会社から出た。理由は昨日から私の先輩が無断欠勤し連絡取れずその先輩の抱えている仕事の整理を私が受け持つことになったからだ。
「勘弁してくれよ」
昨日から何回呟いた分からない言葉が無意識に口から出る。入社してからずっとお世話になっていた先輩だがこの二日の激務ですっかり心配より憤りの方が大きくなっていた。
グゥとひときわ大きく腹が鳴った。今日はまともに飯を食う時間もなかった。すき家に寄って牛丼でも食うかと思っていると目の前から見知った顔の女が歩いてきた。最近仲良くしているスナック勤めの女であった。
「やぁ! 偶然だね」と右手を上げて彼女は言った。
演技にしてもへたくそすぎるしわざとらしすぎる。スマートフォンを確認してみると彼女からの着信が二件ほど表示されてた。
「ごめん、忙しくて気付かなった」
私が謝ると彼女はにっこりと笑って「いやぁ嫌われて無視されてるのかと思った」と冗談なのか本気なのかよく分からないことを言った。
数秒の沈黙の後、「ウチくる? 」と遠慮がちに彼女は問いかけてきた。
「いや、今日は……」この二日の多忙さで腹も減っているがベッドで休みたかった私は断りを入れようかと口を開いたが、彼女はそれに「カレーがあるよ」と食い気味に被せた。
私は頭の中で食欲と睡眠欲を天秤にはかり、食欲が勝利した。
「……お邪魔します」
私が答えるがいなや彼女は私の腕を取り彼女の自宅へと歩き始めた。甘い良い匂いがした。
彼女のカレーは具材たっぷりゴロゴロのドロドロカレーで私の好きなタイプのカレーであった。
「ごちそうさまでした。美味しかったよ」
手を合わせながら私がそう言うと「お粗末さま」と彼女が言い、私の食べた皿を炊事場に持っていった。
私が持っていかなくちゃいけないのにお粗末さまなんて実際に言う人がいるのかという驚きに気を取られとっさに動けなかった。
私が「ありがとう」と言うと彼女はお茶を二つもってきて私の隣に座った。なんだか今日は至れり尽くせりである。
「ねぇあたしと居て楽しい? 」
急に深刻な表情して彼女は言った。隣に座りじっと私の目を見る。
「えっ? 楽しいですよ」
まったく思いがけない言葉に思わず敬語になってしまう。
「本当? だっていつもなにか気にしてるしお風呂も一緒入ってくれないしセックスのときもなんか集中してないよね? 私なんだか心配になっちゃって、ねぇなにか気に入らないところがあったらなんでも言って」
グッと言葉に詰まる。思い当たる節があるからだ。
というかすべてこのバーコード髪型を守るためにしていることだ。
一緒にお酒を飲んでいるときも食事をしているときも歩いているときでさえ髪型が崩れないように気をつかなきゃいけないし、一緒にお風呂なんてもってのほかで、セックスだって言ってしまえば激しい運動なんだから気を抜くとバーコードを振り乱すことになってしまう。
最近の私のバーコード髪型を守ろうする姿勢は病的な域まで達していた。それはなにより、彼女に禿だとバレて嫌われたくなったから、彼女にだけはバレたくなかった。
しかし私のその姿勢が彼女をこんなに不安にさせてしまっているなんて、まさに本末転倒であった。
不安気な瞳が私を見つめている。ふぅ、とため息をつき「実は……」と私は私のコンプレックスを話し始めた。
「そう……。そうだったのね」
彼女は俯き、肩を震わせ呟いた。
「な、なるほど。確かに言われて見たら、はっ……あ……あぁ……ごめんなさい」となんだか分からない言葉を発したと思ったらすくっと立ち上がり、ドアを開き寝室の中に入ってしまった。
なんだどうした。やっぱり禿はダメか? 話さなきゃ良かったと思っていたら「くっくくく」と喉を絞るような声が聞こてくる。
私も寝室へと入り、「どうした? 大丈夫? 」と声をかけた。
彼女は枕に顔を押し付け、手振りだけで大丈夫だから出ていってほしいといったジェスチャーをした。私はジェスチャーに従い、寝室から出た。
最初彼女は泣いているのかと思ったがどうもそんな様子ではない。首を捻っているとボンッと枕を投げた音がして「ひゃ~はっはぁ~! ! ! 」とはっきりとした笑い声が聞こえた。
「あっはっはぁ~。そ、そんなことだったなんて、私勘違いして深刻ぶって、あははははは」
ゲタゲタゲタと笑い、彼女はひぃひぃ言っている。
思わず私は寝室に飛び込み「酷いじゃないか! 」と叫んだわ。こっちは本当に腹を切るような気持ちで告白したというのにこんなに笑うとは!
「いや、違うの! 違うのよ! あなたのコンプレックスを笑ってるんじゃなくて私の勘違いを笑ってるの、あーはははおかしぃ! 」
なにも違わないだろと憮然として私が仁王立ちになっているとようやく笑いの発作を抑えた彼女が近づいてきて「ねっ笑ったりして本当にごめんなさい。でも聞いてほしいの、私ね、あなたがいつもなんだかあたしに向き合ってくれない気がしてて……なんか気に触ることしちゃったかなってずっと悩んでた」
私の手を取り自分の手と絡ませ彼女は続ける「あなたにとっては大事なことを笑ったりして本当にごめんなさい、でもあたしあなたに髪の毛があろとなかろうと構いやしないわ。それにそんなに気にして生活するの体に毒よ、だから……」
彼女は絡ませていた手を離し、くるりと私に背を向けてエンドテーブルからハサミとカミソリを取り出した。
「だから……ねっ? 剃ろ? 」
「えっ? 」
次の日、出社するとオフィスから「すいませんでしたー!」と声が聞こえてくる。
「おはよう、どうしたんだ? 」と同僚の背中に声をかけると「あぁ……あの無断欠勤の先輩帰ってきたんだって……っておぉい! 」
振り向いた同僚が視線を私の頭に投げ掛け叫ぶ。
先輩帰ってきたのか、良かった。これで私の仕事が楽になる。
「お前、お前、頭……」
金魚のように口をパクパクさせて同僚が頭頭頭と繰り返している。
「あぁ剃った。楽だぞ」
そう言って私は仕事に取り掛かる。つるりとした頭を撫でてキーボードを打ち込む、強がりではなかった。事実ドライヤーも整髪スプレーも必要ないのだから楽であった。
しかし気持ちのほうがずいぶん楽になった。
人の視線も風もなにも気にしないで良くなった。これからは海もプールも温泉も行き放題だ。彼女に感謝だな。あの瞬間は本気でムカついたものだが今考えるとあんなふうに笑い飛ばしてくれて良かったと思う。
「本当にすいませんでしたー! 」
先輩の謝る声がまた響き渡った。彼はこの頭を見てどんな反応をするのか少し楽しみに思う。
「あっ……やばいなぁ」
鏡を見ながら前髪を上げてみると明らかにV字禿の兆候が出ているのが分かった。
私の父も祖父も、叔父も少し年の離れた従兄弟でさえも禿ていた。父は高い育毛剤を頭にふりかけ、大して好きでもない海藻をたくさん食べ、なんだかよく分からないサプリメントを飲む等涙ぐましくも無駄な努力を重ねていた。祖父はそんな努力をしたくないのか、もう既にその道は昔通ったのかひと目でそれと分かるカツラを被っていた。
数年前祖父が亡くなったとき遺影がカツラを被っている写真になったときには唖然としたものだ。だが、仕方ないのである祖父はカツラを被っているときにしか写真を撮らせなかったのだから遺影がカツラを被っているのもやむなし、なのである。
私の一族の男たちはみんな禿ばかりだったのでいざ私自身が禿げてきたとき私の心にさほどの衝撃はなかった。
ついにきたなと思ったものである。ついにきたな、さぁ勝負だ! とまさに自分との戦いが始まった。
そしてその自分との戦いはそれから三年後、私が二十八の頃にはあっさりと決着がついた。
結論から言えば私は負けた。
髪の毛はどんどん抜け、私の額は広くなっていた。中央部の髪の毛はなんとか踏みとどまっていたが、右翼と左翼は後退し、さながら私の生え際は魚鱗の陣のような様相を体していた。
禿始めて私は街のオシャレ美容院に行くのをやめた。いくらファッション紙を捲っても肝心の自分の頭が魚鱗の陣ではどうしようもないし、オシャレ美容師に禿がきたとクスクス裏で笑われているのではと思うと足を運ぶことは無理だった。
禿は人を卑屈にするらしい。
私は近所のおじいさんマスターがやっている床屋に通うことにした。ここなら禿の私にも居場所があると思った。ここなら上手いこと禿と付き合っていけると思った。
しかし、この床屋を選んだのは大失敗であった。
私が敗北を喫してから二年、さらに額の砂漠化は進み、明らかに床屋のおじいさんマスターが私の髪型に苦慮し始めたときその悲劇は起こった。
数カ月ぶりの散髪であった。私は前日徹夜で残業をこなし、疲れていた。
散髪が始まると私は自分で危惧していたようにうつらうつらとし始めた。散髪中に寝るのは危ないと感じていたので私は眠りに落ちないように睡魔と戦っていた。
そんな私の様子を見かねた床屋のおじいさんマスターが「おやすみになっていただいても大丈夫ですよ」と声をかけてくれた。
半分眠っていた私はなんとか「ありがとうございます」と言葉を発し瞼を閉じた。
どれくらい眠ったのかふと目を覚ますとまだ散髪の途中のようで右側頭部の髪の毛が切られてなかった。あぁ今から切るのか、まだ少し寝れるなと再び目を閉じようとすると「シャンプーしますね」とおじいさんマスターが座席の前についている洗面台のシャワーを流し始めた。
「えっ……」と困惑の声を出したものの、「では、どうぞ」と洗面台に指し示され私は身を屈めてシャンプーを受ける。まさか、と私の脳裏に嫌な予感が過ぎり、背中に冷たい汗が流れた。
一通りシャンプーが終わり、ドライヤーで髪を乾かしてもらう。右側頭部に残っている切られてない髪の毛がドライヤーの風を受け靡いていた。
「セット致しますがスプレー使ってもよろしいですか?」
という問いに少し震える声で「……はい、お願いします」と答える。
おじいさんマスターはヘアブラシを手に取り、右側頭部の髪の毛を反対側へぐいっと撫で付け整髪スプレーをこれでもかとかけ始めた。
やはり! 私が恐れていた通りの髪型にされてしまった。
すなわち、バーコード! さすがにまだ人々がイメージするTHEオヤジ! ってほどには禿は進行してはいないが私自ら見てもそれは不自然すぎる髪型だ。だがもうここまで来たらなにも言えない、おじいさんマスターは良かれと思ってやってくれたんだ。なにも言うまい。
「ありがとうございましたー! 」
お金を払い、床屋を後にする。振り返り床屋の扉に写る自分を見てみると香港マフィアのような髪型で自分でも少し笑える。
しかし、禿を隠すならこれしか方法はないのだろう、と思った。
なぜ世の禿げたおじさんたちはバーコードなんて奇妙キテレツな髪型をしているのかと思っていたが微妙に禿げた状態のうちからこの髪型にされもはや後戻りできなくなってあの末期の姿になるのだなと妙な納得を覚えた。
そして恐怖した。私もそのレールに乗ってしまったのだ。もはや私もバーコード隊の新入隊員として扱われてしまうと理解した。
そこから先はバーコード地獄の始まりだった。まず一つ、整髪スプレーは絶対に切らせない。常にストックしておかなくてはならない。
整髪スプレーがなければ冗談抜きに外に出られないのだ。右側頭部だけロン毛の情けない姿を人前に晒すわけにはいかない。
さらに走れないという制約もついた。理由は髪型が乱れるからだ。そして中途半端バーコードにとって髪型の乱れは死である。
そして風の強い日を非常に恐れるようになった。強風に遊ばれ髪の毛ぱっかーんとなればもうそれはもうどうしようもないのだ。修正不可能なのであります。
禿げた頭を隠す、ただこれだけのために私は多くのものを失う必要があった。
上記したもの以外でも、海やプール、温泉にも行けないし走れないということはスポーツができないということだ。
私のリソースの何割かはバーコード髪型を守るということに割かざるを得なくなってしまった。息苦しい毎日が続いていった。
そんなとき一人の女性と出会った。その女性は私より二歳年上でスナックで働いているという。彼女の勤めているスナックで知り合ったわけではなく、たまたま私の行きつけのバーのカウンターで隣同士となりそこから交流が始まった。
スナックの仕事というのはストレスがたまるらしく彼女はそのぽっちゃりとした体を揺らしながらハイボールを飲み、地黒の肌を朱に染めながら愚痴を吐いていた。
このように書くと私は彼女にあまり良い印象を持ってないように受け取られるかもしれないが私は彼女の自然体な振る舞いを好ましいものに感じていた。それは私がバーコードで自らの禿頭を隠しているから余計に素晴らしいものに感じられたのかもしれない。
何回か偶然会い、そして何回か約束して会った。初めて出会って三ヶ月も経つ頃にはお互いの家を行き来し、部屋に泊まるような関係になっていた。
年末が近づいてきたその日、私は夜遅く会社から出た。理由は昨日から私の先輩が無断欠勤し連絡取れずその先輩の抱えている仕事の整理を私が受け持つことになったからだ。
「勘弁してくれよ」
昨日から何回呟いた分からない言葉が無意識に口から出る。入社してからずっとお世話になっていた先輩だがこの二日の激務ですっかり心配より憤りの方が大きくなっていた。
グゥとひときわ大きく腹が鳴った。今日はまともに飯を食う時間もなかった。すき家に寄って牛丼でも食うかと思っていると目の前から見知った顔の女が歩いてきた。最近仲良くしているスナック勤めの女であった。
「やぁ! 偶然だね」と右手を上げて彼女は言った。
演技にしてもへたくそすぎるしわざとらしすぎる。スマートフォンを確認してみると彼女からの着信が二件ほど表示されてた。
「ごめん、忙しくて気付かなった」
私が謝ると彼女はにっこりと笑って「いやぁ嫌われて無視されてるのかと思った」と冗談なのか本気なのかよく分からないことを言った。
数秒の沈黙の後、「ウチくる? 」と遠慮がちに彼女は問いかけてきた。
「いや、今日は……」この二日の多忙さで腹も減っているがベッドで休みたかった私は断りを入れようかと口を開いたが、彼女はそれに「カレーがあるよ」と食い気味に被せた。
私は頭の中で食欲と睡眠欲を天秤にはかり、食欲が勝利した。
「……お邪魔します」
私が答えるがいなや彼女は私の腕を取り彼女の自宅へと歩き始めた。甘い良い匂いがした。
彼女のカレーは具材たっぷりゴロゴロのドロドロカレーで私の好きなタイプのカレーであった。
「ごちそうさまでした。美味しかったよ」
手を合わせながら私がそう言うと「お粗末さま」と彼女が言い、私の食べた皿を炊事場に持っていった。
私が持っていかなくちゃいけないのにお粗末さまなんて実際に言う人がいるのかという驚きに気を取られとっさに動けなかった。
私が「ありがとう」と言うと彼女はお茶を二つもってきて私の隣に座った。なんだか今日は至れり尽くせりである。
「ねぇあたしと居て楽しい? 」
急に深刻な表情して彼女は言った。隣に座りじっと私の目を見る。
「えっ? 楽しいですよ」
まったく思いがけない言葉に思わず敬語になってしまう。
「本当? だっていつもなにか気にしてるしお風呂も一緒入ってくれないしセックスのときもなんか集中してないよね? 私なんだか心配になっちゃって、ねぇなにか気に入らないところがあったらなんでも言って」
グッと言葉に詰まる。思い当たる節があるからだ。
というかすべてこのバーコード髪型を守るためにしていることだ。
一緒にお酒を飲んでいるときも食事をしているときも歩いているときでさえ髪型が崩れないように気をつかなきゃいけないし、一緒にお風呂なんてもってのほかで、セックスだって言ってしまえば激しい運動なんだから気を抜くとバーコードを振り乱すことになってしまう。
最近の私のバーコード髪型を守ろうする姿勢は病的な域まで達していた。それはなにより、彼女に禿だとバレて嫌われたくなったから、彼女にだけはバレたくなかった。
しかし私のその姿勢が彼女をこんなに不安にさせてしまっているなんて、まさに本末転倒であった。
不安気な瞳が私を見つめている。ふぅ、とため息をつき「実は……」と私は私のコンプレックスを話し始めた。
「そう……。そうだったのね」
彼女は俯き、肩を震わせ呟いた。
「な、なるほど。確かに言われて見たら、はっ……あ……あぁ……ごめんなさい」となんだか分からない言葉を発したと思ったらすくっと立ち上がり、ドアを開き寝室の中に入ってしまった。
なんだどうした。やっぱり禿はダメか? 話さなきゃ良かったと思っていたら「くっくくく」と喉を絞るような声が聞こてくる。
私も寝室へと入り、「どうした? 大丈夫? 」と声をかけた。
彼女は枕に顔を押し付け、手振りだけで大丈夫だから出ていってほしいといったジェスチャーをした。私はジェスチャーに従い、寝室から出た。
最初彼女は泣いているのかと思ったがどうもそんな様子ではない。首を捻っているとボンッと枕を投げた音がして「ひゃ~はっはぁ~! ! ! 」とはっきりとした笑い声が聞こえた。
「あっはっはぁ~。そ、そんなことだったなんて、私勘違いして深刻ぶって、あははははは」
ゲタゲタゲタと笑い、彼女はひぃひぃ言っている。
思わず私は寝室に飛び込み「酷いじゃないか! 」と叫んだわ。こっちは本当に腹を切るような気持ちで告白したというのにこんなに笑うとは!
「いや、違うの! 違うのよ! あなたのコンプレックスを笑ってるんじゃなくて私の勘違いを笑ってるの、あーはははおかしぃ! 」
なにも違わないだろと憮然として私が仁王立ちになっているとようやく笑いの発作を抑えた彼女が近づいてきて「ねっ笑ったりして本当にごめんなさい。でも聞いてほしいの、私ね、あなたがいつもなんだかあたしに向き合ってくれない気がしてて……なんか気に触ることしちゃったかなってずっと悩んでた」
私の手を取り自分の手と絡ませ彼女は続ける「あなたにとっては大事なことを笑ったりして本当にごめんなさい、でもあたしあなたに髪の毛があろとなかろうと構いやしないわ。それにそんなに気にして生活するの体に毒よ、だから……」
彼女は絡ませていた手を離し、くるりと私に背を向けてエンドテーブルからハサミとカミソリを取り出した。
「だから……ねっ? 剃ろ? 」
「えっ? 」
次の日、出社するとオフィスから「すいませんでしたー!」と声が聞こえてくる。
「おはよう、どうしたんだ? 」と同僚の背中に声をかけると「あぁ……あの無断欠勤の先輩帰ってきたんだって……っておぉい! 」
振り向いた同僚が視線を私の頭に投げ掛け叫ぶ。
先輩帰ってきたのか、良かった。これで私の仕事が楽になる。
「お前、お前、頭……」
金魚のように口をパクパクさせて同僚が頭頭頭と繰り返している。
「あぁ剃った。楽だぞ」
そう言って私は仕事に取り掛かる。つるりとした頭を撫でてキーボードを打ち込む、強がりではなかった。事実ドライヤーも整髪スプレーも必要ないのだから楽であった。
しかし気持ちのほうがずいぶん楽になった。
人の視線も風もなにも気にしないで良くなった。これからは海もプールも温泉も行き放題だ。彼女に感謝だな。あの瞬間は本気でムカついたものだが今考えるとあんなふうに笑い飛ばしてくれて良かったと思う。
「本当にすいませんでしたー! 」
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