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第五章
旅の人、風の人(1)
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「わざわざ呼びたててすまないな。主が是非にというものだから」
しきりに詫びる割には何やら楽しげな貴志麻呂に連れられて、カザトは薄暮の朱雀大路を北に向かって歩いていた。
初めての朝賀の儀での勤めを無事に終えてからというもの、これといった大事もなくすでに年ももう一巡りしつつあった。
舎人の勤めはおもに貴人の身辺警護や身の周りの雑事などとされているが、貴志麻呂のそれはどちらかというと隠密裏の警護が中心であるらしく、仕えている主人についての話題はこれまで避けるようにしていたようだ。
ところが、貴志麻呂の主人の方からぜひカザトを邸宅に招きたい、という声がかかったのだという。貴志麻呂から聞くカザトの話にどうやら興味を覚えたらしい。
秦姉弟の邸に招かれるのでさえ恐縮するというのに、さらに貴志麻呂の主人とはまさしく雲上人にほかならない。礼服を着用すべきかと思ったが、ご丁寧にも平服のままで来られたし、と貴志麻呂を介しての伝言だった。
仕方なく普段と変わらぬ衣を選んではきたが、さすがに新しいものを身に着けている。
「はじめてだよ、主の方からお客人を招こうっていうのは。ちょっと変わっているけど気さくな人だから、カザトも気張らずに付き合ってやっておくれよ」
「ですが、いくらなんでも……平服に手ぶらで高官のご自邸に伺うなど、聞いたためしがありませんよ」
カザトの困惑は本音そのものだったが、貴志麻呂は一向に気にする素振りも見せず、相も変わらず軽い調子で請け合う。
「いいって、いいって。だいたい向こうが招いているんだから、気遣いするのは主の方が筋ってもんさ」
そう言って笑う貴志麻呂に、カザトは深々と溜息をついてみせた。もうなるようにしかなるまい。
それにしても随分と北上しているようだ。これでは官衙のある区域を護る朱雀門にまで至りそうだ。
朱雀門に近づくにつれ、ヤマトの政の中心を担う高官の邸宅が建ち並ぶようになる。
例えば大納言・長屋王の邸宅は左京側、朱雀門から目と鼻の先に建てられており、今をときめく藤原氏の邸宅も同じくそのすぐ近くだという。
まさか貴志麻呂の仕える主とは、それらに比肩するほどの大貴族だというのだろうか。
ふいに角を曲がる貴志麻呂にカザトは慌ててついていく。このあたりまで来ると一軒の邸の敷地が広すぎて、それを区画する塀も立派で長大なものになっている。
「ここだ」
そう言って貴志麻呂が立ち止まったのは、塀に穿たれた小さな潜り戸のような扉だ。
「お客人のカザトには失礼だけど、ごく近しい者しか出入りしないここから入ってもらうよ。正門からだといろいろ面倒だしさ」
貴志麻呂が潜り戸に向かって小さく名と要件を告げると、内側から閂を外す音が聞こえ、挂甲をまとった衛兵が出迎えた。
「ご苦労」
と一声かけて貴志麻呂は勝手知った足取りで奥へと進んで行く。カザトが軽く会釈をすると衛兵も礼を返し、潜り戸に閂をかけた。
それにしても広大な邸だ。いくつもの建物もさることながら、敷地の四周にはたくさんの樹が繁っており、さながら森の中のようだ。
日も随分と傾いているため、そろそろ己の影も分かりづらくなってきている。しかし貴志麻呂は、どんどん森の暗い方に向かって進んでゆく。
いよいよ不安になってきたカザトだったが、森を形づくっている樹々の種類にふと気が付いた。クリやスダジイなど堅い実のなる樹が多く植えられているようだ。
ヤマトではあまり見ないような、暖かい土地に生える樹もある。特にアクを抜かなくても食べられるスダジイの実は、カザトの故郷でも大切な食料として重宝されていた。
秋にもなれば女子どもが総出で拾いに出かけるのが村の行事で、幼いカザトも毎年楽しみにしていたことを思い出してしまう。
「さっきも言ったけど……本当にちょっと変わった人なんだ。今日のもてなしも多分普通じゃないと思う。だからくれぐれも驚かないでくれな」
カザトの不安を余計に煽るようなことを言いながら、貴志麻呂は森の小径に分け入った。もはや貴族の邸宅というよりも、阿多の故郷の森にでも迷い込んだかのようだ。
しかし、よく見ると森のそこかしこに衛兵が潜んでいるのが分かる。やはり、ここにはヤマトの高官が暮らしているのだ。
「着いた。ここだよ」
貴志麻呂が指し示した先を見やってカザトは驚愕した。
そこには全面をカヤで葺いた竪穴の小屋がちんまりと建てられていたのだ。
地面を掘り窪めて掘立柱を立て、カヤなどで屋根を葺くこの住居は、ヤマトでも都を離れると庶民のごく一般的な住まいだという。
その点では阿多とさしたる違いはない。しかし貴人の邸宅にこのようなものがあるのはどういうわけだろう。
入口に掛けられた粗末な御簾、いやスダレからは明かりがもれている。中に向かって貴志麻呂が声をかけた。
「秦貴志麻呂です。阿多のカザト殿をお連れしました」
手招きする貴志麻呂に従ってカザトはスダレを潜って小屋に足を踏み入れた。
「いらっしゃい」
こちらが挨拶するより先に、炉の前にどっかりと腰をおろした初老の男が手にした盃を上げて陽気に声をかけてきた。
すでにだいぶ酒が入っているようで、男の顔は焚火の炎に照らされてなお一層赤い。四位の位階を表す深緋の朝服の襟をくつろげて、男は盃の中身を一息に飲み干した。
カザトが咄嗟に平伏しようとしたその時、横から貴志麻呂の怒声が飛んできた。
「旅人さま! また、お一人で先に飲み始めて! しかも何ですか、そのお姿は……。せめてお着替えになるなり何なりすればよいでしょう。お客人に失礼ですよ!」
貴志麻呂に叱られた男は首をすくめてみせたがたいして意に介してもいないようで、悪びれる風もなく手酌でもう一杯酒を注いだ。
「しかしのう、遠方より友が来る。そしてそこに酒がある。貴志麻呂、どうする」
「到着を待って一緒に飲みます」
「そうであろう、そうであろう! 飲まねばなるまいて。酒は飲むべし、とな」
到着を待って、という貴志麻呂の言葉が聞こえなかったかのように男ははしゃいでみせる。
そうして二杯目の酒もぐーっと飲み干してしまった。やはり、かなり銘酊しているようだ。
「ほら、旅人さま! お客人にご挨拶を!」
貴志麻呂に怒られた男は、呆気にとられて立ち尽くすカザトにようやく気付いたかのように、突如威儀を正してこちらに向き直った。
「や、これはまことにご無礼。ご覧の通り、どうにも酒にいじきたないたちでしてな。いつもこの貴志麻呂めに叱られておりますわい。阿多のカザト殿、今宵はよくぞおいで下さった。それがしは大伴旅人と申す」
中納言・大伴宿禰(おおとものすくね)旅人(たびと)―。
名族大伴家の当代総領で、八年前の和銅三年(七一〇)における朝賀の儀では、左将軍として隼人・蝦夷を従えて閲兵に臨んだのがこの人だ。しかも優れた歌人として宮中での誉れも高いという。
カザトは今度こそその場に平伏した。まさかよりにもよってこれほどの大貴族の招きを受けるとは―。
「ああ、ああ、そんな畏まらんでくれ。ここはわしの隠れ家よ。誰も来ぬゆえゆるりとお過ごしくだされ。ささ、何はともあれまずは一献」
そう言ってカザトに無理やり盃を持たせ、どぼどぼと酒を注ぐ。
まだ何か言いたそうな貴志麻呂にも同じく盃を押し付け、もちろん自分の分もなみなみと満たすことを忘れない。
「酒はゆきわたったな? えー、それでは遠来の友の健康と、よき縁を祝して乾杯(カンペエ)!」
またもや軽く盃を干した旅人はガハハハ、と豪快に笑ってご機嫌そのものだ。
「な、変わってるだろう」
そっと耳打ちする貴志麻呂にカザトは黙って頷いた。
だが、とても貴族とは思えぬほど気さくで磊落な旅人に、いいようのない親しみを覚えてしまう。
「お前たち、腹は空かせてきたのだろうな! さあ食え、どんどん食え! 酒だけ飲むのはいかんのだからな!」
そういって旅人は炉にかかっている土の肴瓮(なべ)の中身を手づから木椀に注ぎ分けてカザトらに振る舞った。
もはや恐縮しても仕方ない。この流儀に合わせて遠慮なく頂くことにしよう。そう腹をくくったカザトは盃の残りを一息に飲み干し、椀を受け取った。
「お、いける口じゃのう、カザト殿は! もう一杯いけ」
そう言って嬉しそうにまたなみなみと盃を満たしにくる。本当にこの酒席を楽しんでいることが伝わり、カザトの緊張も徐々にほぐれていく。
椀に注がれたのは干し貝と海藻の塩汁だ。久方ぶりの海の香りにカザトは懐かしさで胸がいっぱいになる。
「この辺も焼けとるぞ。熱いから気を付けて食えよ」
炉端に差し並べていた串には何かの肉が通してあり、こんがりと焼けたものから香ばしい匂いが漂ってくる。そのうちの一本を旅人が手渡してくれる。
「黒っぽいのが醤(ひしお)と甘蔦煎に漬け込んだもの。白っぽいのは塩と山椒の実を擦り込んだものじゃ」
何やら得意気に味付けを説明する旅人は、火加減を見ながら他の串をあっちこっちに移動させている。
「何の肉ですか?」
と、問う貴志麻呂に酔眼を向けた旅人はしばし沈黙し、じっと串を見つめた後おもむろに、
「あー……鳥だ。鳥。だから焼き鳥だな」
そう言って串を一本貴志麻呂にも握らせる。
先ほどからの不思議なやりとりにカザトはすっかり毒気を抜かれてしまい、むしろ居心地の良さに酒の酔いも早々に回ってしまいそうだった。
それにしても旨い。
汁といい串といい、何の飾り気もない素朴な味わいが心身に沁みわたるようだ。それに、先ほどから飲んでいる酒も高級な澄み酒ではなく、庶民が口にするような濁り酒だ。
盃すら、貴族が使う漆塗りのものではなく、何の変哲もないただの土器(かわらけ)ではないか。この酒席だけで大伴旅人というひとの人柄が推し量れるように思う。
カザトは旅人に勧められるままに飲み、食べた。貴志麻呂もカザトがくつろいでいる様子に安心したようだ。
しきりに詫びる割には何やら楽しげな貴志麻呂に連れられて、カザトは薄暮の朱雀大路を北に向かって歩いていた。
初めての朝賀の儀での勤めを無事に終えてからというもの、これといった大事もなくすでに年ももう一巡りしつつあった。
舎人の勤めはおもに貴人の身辺警護や身の周りの雑事などとされているが、貴志麻呂のそれはどちらかというと隠密裏の警護が中心であるらしく、仕えている主人についての話題はこれまで避けるようにしていたようだ。
ところが、貴志麻呂の主人の方からぜひカザトを邸宅に招きたい、という声がかかったのだという。貴志麻呂から聞くカザトの話にどうやら興味を覚えたらしい。
秦姉弟の邸に招かれるのでさえ恐縮するというのに、さらに貴志麻呂の主人とはまさしく雲上人にほかならない。礼服を着用すべきかと思ったが、ご丁寧にも平服のままで来られたし、と貴志麻呂を介しての伝言だった。
仕方なく普段と変わらぬ衣を選んではきたが、さすがに新しいものを身に着けている。
「はじめてだよ、主の方からお客人を招こうっていうのは。ちょっと変わっているけど気さくな人だから、カザトも気張らずに付き合ってやっておくれよ」
「ですが、いくらなんでも……平服に手ぶらで高官のご自邸に伺うなど、聞いたためしがありませんよ」
カザトの困惑は本音そのものだったが、貴志麻呂は一向に気にする素振りも見せず、相も変わらず軽い調子で請け合う。
「いいって、いいって。だいたい向こうが招いているんだから、気遣いするのは主の方が筋ってもんさ」
そう言って笑う貴志麻呂に、カザトは深々と溜息をついてみせた。もうなるようにしかなるまい。
それにしても随分と北上しているようだ。これでは官衙のある区域を護る朱雀門にまで至りそうだ。
朱雀門に近づくにつれ、ヤマトの政の中心を担う高官の邸宅が建ち並ぶようになる。
例えば大納言・長屋王の邸宅は左京側、朱雀門から目と鼻の先に建てられており、今をときめく藤原氏の邸宅も同じくそのすぐ近くだという。
まさか貴志麻呂の仕える主とは、それらに比肩するほどの大貴族だというのだろうか。
ふいに角を曲がる貴志麻呂にカザトは慌ててついていく。このあたりまで来ると一軒の邸の敷地が広すぎて、それを区画する塀も立派で長大なものになっている。
「ここだ」
そう言って貴志麻呂が立ち止まったのは、塀に穿たれた小さな潜り戸のような扉だ。
「お客人のカザトには失礼だけど、ごく近しい者しか出入りしないここから入ってもらうよ。正門からだといろいろ面倒だしさ」
貴志麻呂が潜り戸に向かって小さく名と要件を告げると、内側から閂を外す音が聞こえ、挂甲をまとった衛兵が出迎えた。
「ご苦労」
と一声かけて貴志麻呂は勝手知った足取りで奥へと進んで行く。カザトが軽く会釈をすると衛兵も礼を返し、潜り戸に閂をかけた。
それにしても広大な邸だ。いくつもの建物もさることながら、敷地の四周にはたくさんの樹が繁っており、さながら森の中のようだ。
日も随分と傾いているため、そろそろ己の影も分かりづらくなってきている。しかし貴志麻呂は、どんどん森の暗い方に向かって進んでゆく。
いよいよ不安になってきたカザトだったが、森を形づくっている樹々の種類にふと気が付いた。クリやスダジイなど堅い実のなる樹が多く植えられているようだ。
ヤマトではあまり見ないような、暖かい土地に生える樹もある。特にアクを抜かなくても食べられるスダジイの実は、カザトの故郷でも大切な食料として重宝されていた。
秋にもなれば女子どもが総出で拾いに出かけるのが村の行事で、幼いカザトも毎年楽しみにしていたことを思い出してしまう。
「さっきも言ったけど……本当にちょっと変わった人なんだ。今日のもてなしも多分普通じゃないと思う。だからくれぐれも驚かないでくれな」
カザトの不安を余計に煽るようなことを言いながら、貴志麻呂は森の小径に分け入った。もはや貴族の邸宅というよりも、阿多の故郷の森にでも迷い込んだかのようだ。
しかし、よく見ると森のそこかしこに衛兵が潜んでいるのが分かる。やはり、ここにはヤマトの高官が暮らしているのだ。
「着いた。ここだよ」
貴志麻呂が指し示した先を見やってカザトは驚愕した。
そこには全面をカヤで葺いた竪穴の小屋がちんまりと建てられていたのだ。
地面を掘り窪めて掘立柱を立て、カヤなどで屋根を葺くこの住居は、ヤマトでも都を離れると庶民のごく一般的な住まいだという。
その点では阿多とさしたる違いはない。しかし貴人の邸宅にこのようなものがあるのはどういうわけだろう。
入口に掛けられた粗末な御簾、いやスダレからは明かりがもれている。中に向かって貴志麻呂が声をかけた。
「秦貴志麻呂です。阿多のカザト殿をお連れしました」
手招きする貴志麻呂に従ってカザトはスダレを潜って小屋に足を踏み入れた。
「いらっしゃい」
こちらが挨拶するより先に、炉の前にどっかりと腰をおろした初老の男が手にした盃を上げて陽気に声をかけてきた。
すでにだいぶ酒が入っているようで、男の顔は焚火の炎に照らされてなお一層赤い。四位の位階を表す深緋の朝服の襟をくつろげて、男は盃の中身を一息に飲み干した。
カザトが咄嗟に平伏しようとしたその時、横から貴志麻呂の怒声が飛んできた。
「旅人さま! また、お一人で先に飲み始めて! しかも何ですか、そのお姿は……。せめてお着替えになるなり何なりすればよいでしょう。お客人に失礼ですよ!」
貴志麻呂に叱られた男は首をすくめてみせたがたいして意に介してもいないようで、悪びれる風もなく手酌でもう一杯酒を注いだ。
「しかしのう、遠方より友が来る。そしてそこに酒がある。貴志麻呂、どうする」
「到着を待って一緒に飲みます」
「そうであろう、そうであろう! 飲まねばなるまいて。酒は飲むべし、とな」
到着を待って、という貴志麻呂の言葉が聞こえなかったかのように男ははしゃいでみせる。
そうして二杯目の酒もぐーっと飲み干してしまった。やはり、かなり銘酊しているようだ。
「ほら、旅人さま! お客人にご挨拶を!」
貴志麻呂に怒られた男は、呆気にとられて立ち尽くすカザトにようやく気付いたかのように、突如威儀を正してこちらに向き直った。
「や、これはまことにご無礼。ご覧の通り、どうにも酒にいじきたないたちでしてな。いつもこの貴志麻呂めに叱られておりますわい。阿多のカザト殿、今宵はよくぞおいで下さった。それがしは大伴旅人と申す」
中納言・大伴宿禰(おおとものすくね)旅人(たびと)―。
名族大伴家の当代総領で、八年前の和銅三年(七一〇)における朝賀の儀では、左将軍として隼人・蝦夷を従えて閲兵に臨んだのがこの人だ。しかも優れた歌人として宮中での誉れも高いという。
カザトは今度こそその場に平伏した。まさかよりにもよってこれほどの大貴族の招きを受けるとは―。
「ああ、ああ、そんな畏まらんでくれ。ここはわしの隠れ家よ。誰も来ぬゆえゆるりとお過ごしくだされ。ささ、何はともあれまずは一献」
そう言ってカザトに無理やり盃を持たせ、どぼどぼと酒を注ぐ。
まだ何か言いたそうな貴志麻呂にも同じく盃を押し付け、もちろん自分の分もなみなみと満たすことを忘れない。
「酒はゆきわたったな? えー、それでは遠来の友の健康と、よき縁を祝して乾杯(カンペエ)!」
またもや軽く盃を干した旅人はガハハハ、と豪快に笑ってご機嫌そのものだ。
「な、変わってるだろう」
そっと耳打ちする貴志麻呂にカザトは黙って頷いた。
だが、とても貴族とは思えぬほど気さくで磊落な旅人に、いいようのない親しみを覚えてしまう。
「お前たち、腹は空かせてきたのだろうな! さあ食え、どんどん食え! 酒だけ飲むのはいかんのだからな!」
そういって旅人は炉にかかっている土の肴瓮(なべ)の中身を手づから木椀に注ぎ分けてカザトらに振る舞った。
もはや恐縮しても仕方ない。この流儀に合わせて遠慮なく頂くことにしよう。そう腹をくくったカザトは盃の残りを一息に飲み干し、椀を受け取った。
「お、いける口じゃのう、カザト殿は! もう一杯いけ」
そう言って嬉しそうにまたなみなみと盃を満たしにくる。本当にこの酒席を楽しんでいることが伝わり、カザトの緊張も徐々にほぐれていく。
椀に注がれたのは干し貝と海藻の塩汁だ。久方ぶりの海の香りにカザトは懐かしさで胸がいっぱいになる。
「この辺も焼けとるぞ。熱いから気を付けて食えよ」
炉端に差し並べていた串には何かの肉が通してあり、こんがりと焼けたものから香ばしい匂いが漂ってくる。そのうちの一本を旅人が手渡してくれる。
「黒っぽいのが醤(ひしお)と甘蔦煎に漬け込んだもの。白っぽいのは塩と山椒の実を擦り込んだものじゃ」
何やら得意気に味付けを説明する旅人は、火加減を見ながら他の串をあっちこっちに移動させている。
「何の肉ですか?」
と、問う貴志麻呂に酔眼を向けた旅人はしばし沈黙し、じっと串を見つめた後おもむろに、
「あー……鳥だ。鳥。だから焼き鳥だな」
そう言って串を一本貴志麻呂にも握らせる。
先ほどからの不思議なやりとりにカザトはすっかり毒気を抜かれてしまい、むしろ居心地の良さに酒の酔いも早々に回ってしまいそうだった。
それにしても旨い。
汁といい串といい、何の飾り気もない素朴な味わいが心身に沁みわたるようだ。それに、先ほどから飲んでいる酒も高級な澄み酒ではなく、庶民が口にするような濁り酒だ。
盃すら、貴族が使う漆塗りのものではなく、何の変哲もないただの土器(かわらけ)ではないか。この酒席だけで大伴旅人というひとの人柄が推し量れるように思う。
カザトは旅人に勧められるままに飲み、食べた。貴志麻呂もカザトがくつろいでいる様子に安心したようだ。
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