SAND PLANET

るなかふぇ

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第六章 新たな命

2 赤子

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──ぱり。

 ごくごく小さな音がフランの胸のあたりから聞こえた。
「え……」
 フランが驚いて手元を見る。
 ぴき、ぱきんと卵の表面に小さなひび割れが生じていた。
「わ、まさか……」
「おお……?」

 さすがのヴォルフも瞠目した。
 フランごと卵を抱きかかえるようにして、一心にその瞬間を見守る。
 卵の殻がゆっくりと少しずつ割れていく。その陰から、小さな小さな赤子の指が見え隠れしていた。
 フランが震える指でその殻を取り除く手伝いをしてやる。
 やがてその中から、ふぐ、とか、きゅう、とかいう赤子独特の甲高い声が聞こえてきた。

「う……生まれる? 生まれるよ、ヴォルフ! どっ、どうしよ──」
 フランはわたわたして、ひたすらどうしよう、どうしようと言い続けている。百五十年も生きてきても、やはり初体験の事態にはどきどきしてしまうものらしい。
「いや、『どうしよう』じゃねえだろ」
 ヴォルフは思わず噴き出した。
「だだだって──」
「しっかりしねえか。お前、ママだろ」
「そっ……そそ、そんなこと言ったってえ!」
 とかなんとか言ううちにも、どんどん赤子の姿が見え始めた。

(うわ……。こりゃあ──)

 すっかり姿を現した赤子を見て、ヴォルフも息を呑んだ。
 赤ん坊はつややかな白い肌に、爽やかな翡翠の瞳と、金色の髪をした男の子だった。ひどくまぶしいらしく、まだほとんど目は開かない。
 くるんとした濁りのない瞳に、もの言いたげな可愛らしい唇。つやつや光ってぷっくりとやわらかそうな桃色の頬。

 要するに、ひと言でいえば。
「お前にそっくりじゃねえかよ。フラン」
 そういうことだ。が、フランの顔はもう涙でぐしょぐしょだった。
「う……うん。うんん……っ」
「って、もう泣いてんのか。しっかりしろってえのよ、『フランママ』」

 正直言うとほんの少しだけ、本当にほんの少し、自分似でないことにはがっかりした。とはいえ、ほんの一パーセント。残りの九十九パーセントは心からほっとして、ただただ嬉しさがこみあげてきた。じんわりと腹の底が温かくなる。

「クソ可愛いじゃねえか。……な、俺にも抱かせろよ」
「あ、うん……」

 体から残りの殻をとりのけてやり、フランがおっかなびっくりの手つきで赤子をヴォルフの腕に預けてきた。
 軽い。羽のような軽さだ。
 生まれたばかりの赤子がこんなに小さくて頼りないものだということを初めて知った。こんなのが本当にちゃんと育つのだろうか。
 これでも自分は孤児院育ちで、ある程度大きくなってからは年下の子供らの面倒を見るのが当たり前という環境で育ってきた男である。しかし、そう言えばこんな新生児を抱いたことはついぞなかったと改めて思い至った。

「すごい。ヴォルフ、さすが手慣れてるね……」
「んなことねえよ。こんなちっこいの抱くのは初めてだ。なんか、壊しちまいそうでおっかねえ」

 赤ん坊はひどく眠いらしい。そうっとフランの腕の中に戻してやると、ふわあと小さなあくびをして、小さな唇でなにやらもにゅもにゅいいながら目を閉じてしまった。すやすやと可愛らしい寝息が聞こえる。
 
「ありがと、ヴォルフ。ありがとう……」

 ヴォルフはその小さな命ごと、もうぼろぼろと泣いているフランを抱きしめた。フランはひたすら「ありがとう」を繰り返し、泣き笑いでぐしゃぐしゃの顔で赤ん坊に頬ずりした。そうして、無精髭だらけのヴォルフの顎にそっとキスした。
 ヴォルフもまた、フランの額と赤子の額に優しく唇を触れさせた。





 結局、アジュールの覚醒については言いそびれたまま、ヴォルフはその後、子育てに奔走する羽目になった。
 いや、実際育児については一家言いっかげんある。それなりに経験があるからだ。が、フランはもちろんそうはいかなかった。赤子がぐずり出すと途端におろおろし始めて、すぐにヴォルフに泣きついてくる。

「ヴォルフ、ヴォルフ! 坊やが泣いてるよ。ね、なんで泣いてると思う? お腹がすいたのかな、それともトイレ??」
「ん~。この泣き方だとオムツじゃねえの。ちょっとにおいを嗅いでみな」
「あっ! ほんとだ。ヴォルフってすごーい」
 ぱちぱちぱち、と手など叩いて絶賛される。
「……あのなあ。『すごーい』じゃねえんだよ」
 ヴォルフはがくりと肩を落として頭を抱えた。これでは先が思いやられる。

 半ば呆れつつも、ありあわせの布で作ったおむつを交換してやり、シャワールーム兼洗濯機の中へ放り込む。布はタチアナやミリアがあちこちから集めてくれたものだった。まことにあの二人には感謝してもしきれない。
 食事についても同様だった。彼女たちの提案で、ヴォルフはとりあえず食料班からミルクの代替になる飲料をもらってきては、それを与えているのである。生むだけは生めても、フランの体には人間の女性のような乳を出す機能が備わっていなかったのだ。
 本来であれば彼らの住処すみかで、なんの苦労も手ぬかりもなく赤子の世話ができるためであるらしい。要するに、至れり尽くせりというやつだ。

 ところで、ヴォルフにはひとつ疑問に思っていることがあった。
 以前、彼らの子供は「男女ひとりずつで生まれてくる」と聞いていたはずだ。だが、今回は男の子がひとりしか生まれてこなかった。
 が、それを訊ねてみると、フランはあっさりとこう言った。

 『……まあ、僕ができそこないだからね』と。

 彼の寂しげな微笑を見て、ヴォルフはひどく後悔した。これは、訊くべきではないことだったのだ。
 以来、ヴォルフもいっさいそのことには触れていない。というか、人間ならば普通は一度に一人しか生まないのだ。これで十分、御の字というものではないか。
 申し訳なさそうにうなだれて「ごめんね」と言おうとするフランを制して、ヴォルフは彼を力いっぱい抱きしめた。
 そして「悪かった」と「忘れてくれ」を繰り返した。

 母乳の代替品である飲料は、清潔な布を浸してそれを吸わせる形で与えた。が、これはかなり時間を要する上に忍耐を求められる作業だった。赤ん坊自身の負担も大きい。そうこうするうち、手先の器用なミリアが作業ユニットで哺乳瓶によく似た容器をオリジナルで制作してくれた。その後はありがたくそれを使わせてもらっている。
 そうして二人はますます、この女性たちに頭が上がらぬ状態になるのだった。

 フランは慣れない育児ですっかり疲れているらしく、赤子が眠っているときには自分も完全に眠りこけていることが多かった。それで余計に、ヴォルフは例のアジュールの件を彼に切り出すタイミングを失っていた。

「そう言やあ、お前。名前はつけてやんねえのか?」
「え? ああ、うーん……そうなんだけど」

 フランがいつまでたっても赤子のことを「坊や」とか「この子」とかとしか呼ばないので不審に思ったのだが、返ってきた答えは微妙なものだった。フランはフランなりに、なにか思うところがあるらしい。ヴォルフもなんとなくそれを察して、それ以上はあまり突っ込まなかった。
 というか、驚くべきことが次々起こって、正直それどころではなかったのだ。
 実際、その二日後、仕事が終わって自室に戻ったヴォルフは、そこに信じられないものを見て仰天することになった。

「……おい。これ、一体どういうことだ……?」
「え? なにが?」

 当のフランはきょとんと見返してくる。
 その目の前では、つい先日生まれたばかりの赤子が、もうそこいらを元気に這いまわっていた。
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