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第七章 兄
3 遺棄
しおりを挟む「フラン……!」
フランの血を見て思わず岩陰から動こうとしたヴォルフだったが、即座に彼の右手によって制された。確かにいま出てはまずい。自分だけならまだしも、今は腕の中にいたいけな赤子がいるのだから。
(くそッ……!)
奥歯を軋らせ、もとのように岩陰に半身を隠す。
『僕のことはいい。あとでどうとでも、好きにしてくれたらいいよ』
フランの声はごく静かだ。先ほどまではあった震えが、今は止まっている。
『でも、この人と赤ちゃんのことは見逃して。お願いだよ』
『断る』
男の応えはにべもなかった。
『お前を抱いた時点で、そいつは万死に値する。なんで見逃してやる必要がある』
『アジュール──』
フランが一歩前にでた。ゆっくりと両手を広げている。
『お願い。これだけ聞いてくれれば、もう他のことは何もいらない。僕のことはもう一生、君の好きにしたらいい。今すぐ殺してくれたって構わない』
『…………』
男はじろりとフランを睨んだ。
『だから、お願い。この人とこの子を逃がしてあげて。彼らの宇宙船に戻してあげれば、それでいいんだ。あとは彼らが、勝手にこの星を離れてくれる』
そこまで聞いて男は急に、皮肉げに頬をゆがめた。
『ふん。そうはいかないと思うがな』
『えっ? それって』
問いただそうとするフランの声を聞き流して、男は刃に変化した自分の「指先」を丹念に眺めるようなそぶりを見せた。
ヴォルフは嫌な予感にぐっと胃の腑が抑え込まれるのを覚えた。
(……まさか)
まさかこの男は、もうすでに……?
まさかとは思う。思うが、この男はひょっとすると、まっすぐマレイアス号に向かったのではないか? 陽動作戦に出た自分たちではなく、マレイアスの乗組員を先に屠ってきたのだとしたら……?
嫌な予感が胸をつかんで離さない。
この男は、自分が思っていた以上に知的な生命体であるようだ。こちらの作戦そのものをとうに見切って、先にマレイアス号を殲滅する方を選んだ可能性は大いにある。
その残虐な双眸の奥で、フランに執着する気持ちと、嫌悪し排除すべき「ゴミ虫どもの船」を掃討したい気持ちとを天秤にかけ。
そして、もしも後者が勝っていたら──。
そう考えただけで、ざわざわと首の後ろの毛が逆立った。眼球の奥で、あのピットの無残な頭部がちらちらと明滅する。それが瞬時にタチアナとミリアの血まみれの顔に変わって、言い知れぬ吐き気をおぼえた。
それはフランもまったく同じのようだった。
『まさか……アジュール。マ、マレイアス号の人たちを……?』
男はふん、と鼻を鳴らした。
『そうじゃない。残念ながら、な』
二人の懸念は幸いにしてあっさりと覆されたが、それはまた別の衝撃を伴ってもいた。
『こいつらの船は、もう大気圏を離脱している』
『え……?』
フランがぴたりと停止した。信じられないという顔だ。ヴォルフもまったく同じだった。
『離脱……? 離脱って言ったの、アジュール』
『お前の聴力に異常がないなら、そうなんだろうよ』
男はちょっと顎をあげ、口の端から犬歯をのぞかせてくくっと笑った。
『ちょっと待って。そんな……だって、まだヴォルフがいるのに──!』
『俺に言われても困る。やつらの都合なんぞ、俺が知るわけないだろう』
冷笑したままの兄を見据えて、フランがぐっと言葉に詰まった。
『俺が「気象コントロール・システム」を起動して、間もなくだ。あの船がいた一帯を目標に地震を誘発させたからな。あのあたりが一番揺れたし、船の真下に大規模な亀裂が生じた。何もしなければ、あのまま地溝へ真っ逆さまだったろう』
『…………』
『虫どもは、揺れる地面から飛び上がるしかなかったわけだ。しばらくは上空を旋回していたようだったが、やがてこの星から離れていった。別に、嘘はついてないぞ』
男の声はどこまでも冷ややかで憎々しげだ。それと同時に、男にはじっくりとヴォルフの精神を観察し、嬲る様子が見て取れた。
ヴォルフは奥歯を噛みしめたまま、視線を足もとに落とした。少しでいい。その現実を自分に理解させる時間を必要としたのだ。
『そ……そんな──』
対するフランは、体じゅうを震わせている。その頬から、さらに血の気が失せていた。
『要するに、そいつは見捨てられたのさ。疑うなら見に行ってみろ。お前だって飛べるんだ。跡形もなく消えていやがるのが分かるだろうさ』
場はしばし、恐ろしい沈黙に支配された。
いまや、聞こえるのは赤子の泣き声だけである。とはいえ今では少し落ち着いて、ぐずる程度になっている。
(置いていかれた、……か)
ヴォルフはこくりと喉を鳴らし、突き付けられた現実をなんとか飲み下そうとした。
なんとなく見下ろせば、腕の中の赤子が、涙で潤んできらきらした目でじっとヴォルフを見上げている。「パパ、どうしたの」と言わんばかりの澄んだ目だった。
ヴォルフは赤子に微笑んで見せた。それは多分、ちょっと情けない笑みだったろう。
(……いや。覚悟はしてたんだ)
そうだ。もちろんある程度の覚悟はしていた。赤子をつれてフランと船を離れる決心をしたときに。そればかりか、「マレイアス号に何か事あるときには、自分のことは構わずに逃げるように」とタチアナとミリアにも言い含めてきた。
もちろん彼女たちには大いに反対された。だがそれをなんとか言いくるめ、納得させて出てきたのだ。もしも船や乗員になにかどうしようもない危険が迫れば、そのようにフォレスト大佐に進言してくれと。それがヴォルフの望みなのだと。
だが、現実にそうなるのと事前に覚悟を決めていたというのとは、まったく別の問題だった。さすがに、「ショックはゼロです」と言い切るのは無理な相談というものだった。
置いて行かれた。
自分はもう、もとの世界に戻ることはかなわない──。
その事実が、あらためてヴォルフの腸をじりじりと握りつぶした。
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