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第三章 ゆれる想い
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しおりを挟むそのあとがどうなったか、アルファには知るよしもない。なぜなら結局、アルファが店に出たのはその一回きりだったからだ。
彼から命じられたとおり奥の倉庫を掃除してすぐに店に戻ろうとしたアルファを、ベータは店側の扉のすぐそばで待ち構えていた。そしてややぶっきらぼうな調子で「ここはもういい」と言ったきり、扉を閉ざしてしまったのだ。
アルファはせっかく手に入れかけていた自分の居場所を失ったような、ひどく情けない気持ちになりながら、一旦は居住スペースの自室に戻った。しばらくはそこでぼんやりと、置いてある本のページなどをめくってみたり、部屋の掃除をしてみたりしたのだが、すぐに時間をもてあましてしまった。
本といえば、驚くべきことに、ここにはいわゆる昔ながらの古い紙の本が置いてあった。今では非常な希少品であるとともに、けっこうな値段のするものだ。のぞいてみると、それらは内容も言語もまことに種々雑多で、物語の本はほとんどなかった。唯一、本棚の片隅に無造作に置かれていたのが公用語で書かれた「星の王子さま」だったけれども、物語と呼べる本は本当にこの一冊きりだった。
しかし、よりによって「星の王子さま」。
これは彼の趣味なのだろうか。
なんとなく、彼のイメージにはそぐわないような気がして、アルファは首をかしげた。
基本的に、彼は一般的な情報に関してはネットで得ることが多いようだった。しかし「もっとも重要な情報は、こんなところには載っていないもんだ」と笑って、決して鵜呑みにはしなかった。
自身がその裏の情報屋としての顔も持つ男の言だ。誰が言うより説得力があった。
◆◆◆
アルファは閉店時間が近づいたころになってふと思い立ち、居住スペース内のキッチンに入った。コーヒーを淹れてみようと思ったのだ。
もちろん、ベータのためである。
ベータはコーヒーメーカーを使わない。豆も手ずから挽いた上で、非常にアナログなドリップ式を採用している。コーヒーミルも落ち着いた小豆色をした手挽きのものだ。ベータはいつも、それ専用の丸みのある背の高いケトルを使って、いつも非常に丁寧に、一杯一杯淹れている。
ちなみにあのバーは昼間に開ける場合には大人向けの喫茶店として営業するのだそうだ。そのときに客に供するのが、この香りのいいコーヒーなのである。
産地に応じてコーヒーの種類はいくつもあるが、そのほかのケーキやなにかといったサイドメニューはほとんどない。コーヒーに合う素朴なバターケーキが一種類あるばかりだ。
まことに客を選ぶ趣味的な大人の店に見えたが、どうやらあそこは喫茶店としても、普段からちゃんとした固定客があるらしかった。
アルファはその専門的な淹れ方をよく知らないけれども、とりあえず見よう見まねでやってみることにした。例のケトルで湯を沸かす準備をし、やっぱり見よう見まねで彼がやっていたようにペーパーフィルターの端に折り目をつける。
豆は淹れる直前に挽く。だからじっと耳を澄ませていて、男の足音が階段をおりてくるらしいのを聞きつけてから挽きはじめた。豆の挽き方によっても、味がずいぶん変わるのだそうだ。
扉を開けて入ってきた男は、なにやら虫の居所がよくなさそうに見えた。が、キッチンにアルファの姿を認めると少しだけ頬のあたりを緩めた。
「コーヒーを淹れるのか」
「あ、……うん。うまく出来ないとは思うんだが。あの、良かったら、コツを教えてもらえるだろうか」
言ったらさらに、ベータの表情は柔らかくなったようだった。
「ああ。まずは一度、やってみろ」
ところどころで軽く指導されながら、なんとか淹れたコーヒーをカップに入れ、アルファはキッチンの小さな丸いテーブルに運んだ。そして男が席の向こう側でそれを口に運ぶのを、しばらく食い入るように見つめていた。
「……うん。悪くない」
「そうか。よかった」
ほっとして肩の力を抜くと、アルファも自分のカップを手にとった。しかしひと口飲んでみて、彼がかなり点を甘くしてくれたのだとすぐに分かった。
それは、彼が淹れてくれるものとはまったくの別物だった。同じ豆と水とキッチンを使っているとはとても思えないほど、彼我の差は歴然としたものだった。いったい、何がどう違うというのだろう。アルファにはさっぱり分からなかった。
ベータは特にこちらの様子に気づく風もなく、いつものようにテーブルを操作してネットニュースの画面を開いているばかりだ。
アルファはやがて、彼を見つめて姿勢をただし、頭を下げた。
「……その。今日は、済まなかった」
ベータがちらりと目を上げる。
「別に謝る必要はない。まあ、ああいう変態客のあしらいぐらいは、できるようになっておいて貰うと助かるがな」
「へんた……」
言いかけて、アルファは意味もなく少し咳き込んだ。なんとなくそれは、自分が使っていいような単語ではない気がした。
「が、もうその必要はない。明日から店には出なくていいからな」
「え――」
さらっと言われて、驚いた。それは要するに、「今日でクビだ」という意味に他ならなかった。
「あの……そんな」
冗談じゃない。
せっかく仕事をさせてもらえると思っていたら、すぐこれだ。いくら記憶を失くしているとは言っても、自分はとっくに成人した男だ。こんな状態でいつまでも彼に世話になっているわけにはいかない。
そう訴えたら、ベータは途端に苦い顔をした。
「気持ちは分かる。だが少なくとも、あの店で夜に働くのはやめたほうが無難だな。今日みたいな客はいくらでもいる。あの男も言っていたが、この街に人間型よりもかなり鼻の利く奴が多いのは事実なんだ」
「鼻が……? それは」
「稀ではあるが、本当に嗅覚に優れたタイプだと、数百メートル先からでもお前のにおいを嗅ぎ分けるだろう。ピンポイントで完全に、お前狙いで店に入ってくるだろうな。さっきの奴と同様に」
「私の、におい……」
アルファは思わず、自分の腕のあたりをちょっと嗅いでしまった。
そんなに自分は臭いだろうか。
と思ったら、いきなりベータが吹き出した。
「そうじゃない。……自分では分からんか。なるほどな」
「え……」
ちょっと情けない顔で見上げたら、ベータはついと立ち上がってこちらに少し顔を寄せてきた。少し、鼻をうごめかせている。
その瞳が、笑っていた。
「……お前、いい匂いがする。俺にもわかるぐらいだから、ああいう奴らはたまらんだろうよ」
「な……」
「あっという間に発情する。そして、お前は腕っぷしでは奴らに敵わん。即座にその場で犯されるぞ」
体が芯からかあっと熱くなったのは、今の言葉が原因か、それとも彼に間近から見つめられているからか。
が、男は先ほど女に言い寄られていたときとさして変わらぬ飄々とした様子で、にこっと笑っただけだった。
「コーヒー、美味かった。ご馳走様」
テーブル上の画面を消し、自室に引き取っていく男の背中を、アルファは熱い体を自覚しながらそっと見送ろうとした。
しかし。
気がつけば体の奥から、勝手にその声が発せられていた。
「……待って」
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