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小さな恋のものがたり

10 ユーリ殿下と

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「なるほど。恋か……。恋、だよねえ」
「そ、そうなのでしょうか」

 その日の午後。
 約束通り、殿下は勉強の合い間の時間、お茶の刻限になってから黒鳶を含めて人払いを命じ、ロマンとふたりきりになってくださった。
 自分でさえまとまっていない、このとり散らかした感情を殿下に説明するのは、なかなか簡単なことではなかった。話が前後し、何度も筋が見えなくなりしてはしどろもどろになるロマンの話を、殿下は辛抱強く聴いてくださった。その間、その瞳から優しい光が消えることはいっさいなく、ずっと「うんうん」と頷いてくださっていた。

「最初はきっと、ぼんやりとした憧れだったんだと思う。いや、今でもまだそんな感じなのかもしれないけど。黒鳶はとても男らしいし、仕事はできるし。俗な言い方だけれど、とてもカッコいいものね。ロマンの気持ちはよくわかるよ」
「い、いえ……」
 微笑みながら言われてしまって、全身が熱くなった。
 自分でも、まだそこまでの感情ではないはずだと思っていたから余計である。
「それにしても、うっかりしていた。こちらでは、まだロマンは未成年なんだよね。すっかり失念していたよ。君があんまり、しっかりした人なものだから」
「そ、そんなことは──」

 慌てて手元の紅茶を飲み下そうとしたが、カップは話をしているうちにすっかりからっぽになっていた。見ればユーリ殿下のカップも似たようなものだ。ロマンは急いで立ち上がった。

「お、お茶のお代わりをお淹れします」
「ああ、いいからいいから。もっとちゃんと話を聞かせて」
「いえ。でも、もうお話しすることなんて──」
「いいから。さ、こっちへ座って」

 とんとんとソファのご自分の隣を叩いて促される。
 ロマンは何度か固辞した挙げ句、しまいには仕方なく殿下の隣に座った。

「でも、考えようによったら希望はあるよね?」
「えっ……」
「だって、そうでしょう。『あなたはこちらの国では未成年だ』『だから今はお付き合いできない』。これって、裏を返せば『成年になれば真剣に考える』ともとれるのじゃない? どうだろう」
「で、ですが」
「うん。でもすぐに『仕事の性質上、恋人も家族も持てない』とも言われたんだよね。ロマンが自分の気持ちを何も言わないうちから」
「はい……」

 しゅんとしぼんだロマンを見て、ユーリ殿下は腕組みをして考えこんだ。

「うーん。それもちょっと酷いかなとは思うけど……。黒鳶の気持ちと立場を考えると、無理もない気もするよ」
「えっ? な、なぜでしょうか」
「玻璃殿下に聞いたんだけどね。黒鳶は、物心がついたころにはもう天涯孤独の身だったそうだよ。どういう状況かまでは知らないけれど、両親は他界されていて、親戚もないそうだ。もちろんきょうだいも一人もいない。彼自身、ご両親の顔もきっと覚えてないんだろうね」
「は、はい……」

 それはなんとなく知っていた。
 だからこそ、彼は忍びの仕事に向いているのだとも言える。
 だが、貧乏貴族とはいえきょうだいも多く、父母の仲もいい大家族の中で育ってきたロマンには、幼かったときの黒鳶を想像することすら難しく思えた。
 気がついたら、親がいない。きょうだいもいない。血のつながる人が誰もおらず、頼れる人もない中で、当時の彼はどんな思いで自分の人生を眺めていたことだろう。
 ユーリ殿下の話は続いている。

「そこをたまたま海皇陛下に拾われて、大いなる恩寵を受けた。その後、本人の希望もあって、そのまま玻璃どのの側付きになるべく教育され、今のとおり忍びになった。彼の忠誠心については、この国で右に出る者はないとまで言う人があるよ」
「はい。そうでしょうね……」

 ロマンはうなだれた。それはそうだろう。だからこそ、彼はあのとき、玻璃殿下にとって非常に大切な人になったユーリ殿下を護衛するという重大な役目をおおせつかったのだ。

「彼の仕事への責任感と、滄海への忠誠心。これは誰にも傷つけることはできないと思う。他人が勝手に立ち入って、『その価値観を変えてくれ』なんて言えないし。それは傲慢なことだろうから。彼には彼の人生があるのだし」
「はい……」
 俯いたロマンの肩に、ユーリ殿下の手がぽんと置かれた。
「でも。そんな人がわざわざ君に『自分を愛さないでくれ』って言ったんだ。これはちょっと、逆に凄いことでもあると思うよ。私はね」
「え、そうなのですか……?」
「だって考えてもみてよ。なんとも思っていない相手に、わざわざそんなことを言うかな? まだ君からはっきりと告白されたわけでもないのに。しかも、あの真面目でお固い黒鳶がだよ?」
「さ、さあ。私には──」

 体じゅうが熱くなったり、すっと顔から血の気が引くような気分を味わったり。ちょっと眩暈がしそうなほどだ。ロマンは先ほどから、ずっと船酔いのような気分を味わっている。
 ユーリ殿下は「うーん」と唸ったまま、しばらく難しい顔をして頭を抱えておられた。

 そうこうするうち、規定の休憩時間はあっというまに終了し、AIが次の講義の開始を宣言して、さっさと導入の説明を始めてしまった。
 黒鳶がするっと部屋へ戻ってくる。それもあって、この会話はひどく中途半端なところで中断せざるを得なくなった。

 ロマンは宙に浮かんだ自分用の教育プログラムの画面を見ているようなふりをしながら、こっそりとまた黒鳶の表情を窺った。
 黒ずくめの男は相変わらず、停止したかのような表情筋をぴくりとも動かさず、視線を空中の一点に固定させたままだった。
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