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小さな恋のものがたり

13 月夜

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 近ごろ、少年の態度が少しおかしい。
 黒ずくめの忍びの男は、無表情な顔の下で考えている。
 いや、いつもではない。今は自分が専属の護衛対象となっているユーリ殿下と、その側近である少年を守るという重大な仕事のためには、個人的な感情などは一時的に棚上げしておくほかはないからだ。余計なことに気を取られていて、殿下と少年の身に何かが起こってからでは遅い。

(しかし、妙だな)

 あの少年は、出合った当初はともかくとして、基本的には自分に対して友好的な態度を崩さなかったはずだった。
 それがこのところの数日間、意識的に自分と目を合わさないように努力しているように見えるのだ。考え合わせてみるに、どうやらあの波茜がユーリ殿下のお部屋に訪問してきて以来である。
 もっと言えば、波茜を送って外に出た黒鳶を、あの少年が殿下の忘れ物を届けに追いかけて来てからだ。

(なにか、まずいことを仕出かしたか? ……覚えがないが)

 黒鳶は、持っていた箸をかたりと膳にもどして、顔の前で手を合わせた。こちらの国では、これは食事とそれを準備してくれた者らへの感謝を意味する。
 専属の護衛だとはいえ、黒鳶とて人の子である。最低限の睡眠も、食事もとらねば生きてはいられない。

 幸いにしてと言うべきか、御所におられることが多い配殿下である。とりわけ夜間、皇太子殿下とともに部屋におられる時には、自分は護衛の任を離れて自室に戻ることを許されていた。その間は、別の者が護衛を交代してくれる。
 今もそうした、いわば「個人の時間」である。
 最低限の薄い寝具と文机がある以外ほとんど何もない、納戸のような板敷きの小さな部屋だった。ここが黒鳶の唯一の個人的なスペースである。ここで毎晩簡単な食事をとり、睡眠をとって、翌日は早朝から殿下の護衛につく。それが今の黒鳶の日課であった。
 玻璃殿下からは「ユーリの護衛を」と命じられているわけだが、いつもそのユーリ殿下にぴったりとはりつくように従っている側近の少年、ロマンのことも、黒鳶は同時に警護してきた。

 純粋でまじめで、なおかつ努力家で優秀な少年。ロマンという名のその人は、ユーリ殿下に非常に忠実な、とても可愛らしい少年である。年のころは、もうすぐ十六になるのだとか。帝国アルネリオでならとうに成人だというが、こちらの法律ではまだ成年に達していない。
 ユーリ殿下への素晴らしい忠誠心とまっすぐな心根は、黒鳶の目から見ても十分に慕わしいものだった。なぜなら自分もまた、滄海と海皇陛下、そして玻璃殿下への忠誠心を心の軸として生きてきた者だからだ。

 ユーリ殿下が宇宙の向こうへほとんど人質のようにして旅立たれたとき、少年の悲嘆の激しさはすさまじかった。
 ああいう時こそ、人の真価が問われるものだ。それこそいい加減な従者であったなら「やれやれ、肩の荷がおりた」とばかり緊張を解くこともあるだろう。が、少年の反応は正反対だった。
 取り乱し、泣きわめき、「代わりに自分が行けばいいのだ」とさえ言って、遂にはこの胸で号泣した。

(……あのようなこと。すべきではなかった)

 無意識に右手を拳に握る。
 あのとき感じた少年の細くて薄い肩の感触が、いつまでたっても皮膚の上から消え去らない。なんの香料を使っているのか、爽やかで甘い香りが鼻孔をくすぐった、その感覚も。
 今では深く後悔していることだが、黒鳶はそのとき思わず、かの少年を抱きしめたのだ。その衝動を、どうしても抑えることができなかった。
 「護ってやりたい」と切に思った。それが本来の自分の仕事ではないというのに。自分が護るべきなのは、まず第一にユーリ殿下であるというのに。

(そもそも本末転倒だ。第一あのようなこと、わざわざ申し上げるべきでもなかった)

 ロマン少年が、こちらの国ではまだ未成年と見なされること。
 自分が職務上、特に個人的に大切に思うような人、つまり恋人や家族を持つことはありえないという事実。
 あんな話、なにもわざわざあの少年に話して聞かせるようなことではなかった。
 だから、あれはむしろ黒鳶自身が、自分に向かって言い聞かせていたに等しかった……のだと、今では思う。

(なぜだ。……なぜ、わざわざそんな真似を)

 自分自身がこんな風にゆらいだのは、初めての経験だった。
 拳の先でぐりぐりとこめかみのあたりを圧迫し、四角く切られた小窓の外へ目をやる。夜間の時間帯に設定されているこの時間、人工の空には地上と同じように星と月の姿が再現されている。その映像を手前にして、ときおり海の底を泳ぐ生物たちが、悠然と泳いでいく姿が見える。

(俺は、この国のものだ。命はもちろん髪の毛から爪の先、細胞のひとつに至るまで。なにもかも群青陛下と玻璃殿下にお捧げした身だというのに)

 そんな者がなぜ、あんな少年にひどく固執しているのだろう。
 そして、なにを惑うのか。
 彼が未成年であることに。
 そして、自分が恋人などつくらぬ人間だということに。

(いや。……もういい)

 黒鳶はそこで、意識的に自分の思考を中断させた。
 考えたところできりがない。そして、詮無いことだ。
 なによりこれ以上考えれば、非常に問題のある結論に到達せざるを得ないことが明らかである。
 それをはっきりと認識してしまったが最後、自分はもう今までのように自分の任務を果たすことが叶わなくなる。そのことだけははっきりしていた。

(駄目だ。それだけは、絶対にあってはならぬ)

 黒鳶は一度ぐっと目を閉じた。
 それは、それだけは、絶対にあってはならないことだった。
 たとえ天地がひっくり返ろうとも。

 だが、そう思うと同時に広がるものは、到底無視することが叶わなかった。
 胸の奥に広がる疼痛。
 それに、名をつけるわけにはいかなかった。

(すまぬ……ロマン殿。あなたを傷つけるつもりはなかった)

 これ以上、なにも言うまい。
 いずれ玻璃殿下に申し出て、ユーリ殿下の護衛の任を解いていただけば済むことだ。それでもう金輪際、あの少年と顔を合わさずに済むだろう。
 そうすれば、かの少年だってその甘やかな憧れを──恐らくそれは憧れなのだ──次第に忘れて、本来の自分の幸せへ焦点を合わせてくれるはずなのだから。

 黒ずくめのその男は、偽物の月を見上げた。
 そうしてひっそりと、細く虚しい吐息を洩らした。
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