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第八章 虎穴
1 親友
しおりを挟む月齢、〇・三。新月の日。
遂にその朝はやってきた。
「いくぞー、クロエ」
「きゅう、きゅうきゅう!」
俺は一旦自宅に戻って着替え、例のワンショルダーバッグを肩に引っ掛けると、バイトの用意をして家を出た。もちろん、姿を消した状態のクロエも一緒だ。
「あ……」
俺は玄関を一歩出たところで、そのど真ん前で仁王立ちしている人影に足を止めた。
「うっす」
凌牙だ。腕組みをし、俺をまっすぐに見つめている。今日も今日とてやっぱりワイルド系のイケメンだ。
「お……おはよ」
軽く片手を上げた俺を見るなり、凌牙は一瞬で渋面を作った。鼻の頭にきゅっと皺を寄せている。ほんと、狼や犬がする表情にそっくりだ。
どうやらたとえ新月の日でも、人間の数倍は鼻がきくらしい。昨夜のことは、ひと嗅ぎで全部お見通しってことなんだろう。
鼻と眉間におっそろしい皺を立てている凌牙を見つめて、俺はちょっと肩を落とした。
(ったく。プライバシーもなんも、あったもんじゃねえな)
「あー。なんかもう、わかっちゃってると思うけどさ。俺──」
言いかけたのを、凌牙はビシッと片手で制した。
「いい。なんも言うな。『ゴメン』とか言いやがったらはっ倒す」
「……ん。そうだよな」
「言っとくが、俺に謝ったり言い訳したりする必要はねえ。どっちを選ぶかは、全部お前に任すことになっていた。『結論が出た』、それだけのこった」
凌牙、さすがに言うことが渋い。そんでやっぱ、かっけぇ。
こいつの言う通りだ。こいつらのことは、こいつら同士で解決するしかない。
こいつらの両方とも、俺の意思を無理やりに曲げさせて自分の思い通りにしようなんてしない。逆にそんなことをしちまったら、その途端に俺の心を失うんだって分かっていたからだと思うけどさ。
そこがこいつらと、あのシルヴェストルとの大きな違いだ。
だからこそ、たとえ人外だとしても俺はこいつらが好きなんだ。
……大好きなんだ。
俺は顎を上げて、まっすぐに凌牙を見た。
「わかった。でも、ひとつだけ言わせてくれ」
「なんだ」
凌牙の目も声も、思ってた以上に静かだった。なんの濁りもないのはいつものことだけど、それはいつも以上に澄みきっている。
俺はそれに背中を押されたみたいな気になって、緊張しながらもゆっくりと落ち着いてしゃべることができた。
「結局、怜二が抜け駆けしたみたいな形になったけどさ。あれは俺に非があっから。怜二はお前のことがあるから一回は断ったんだ。それを俺が無理に頼み込んだことだから。だから怜二を責めないでくれ。もしそれで怜二を殴るんだったら、まず俺を殴れ。約束してくれ」
そう言ったら、一瞬、本当に一瞬だけ、さっと凌牙の瞳が悲しそうになった。
「どアホ。んなカッコ悪い真似ができるか」
言いながら、べしっと頭頂部をはたかれた。
言葉と真逆のことしているみたいだけど、それはちっとも痛くなかった。
痛くないことが悲しかった。
「もともとそういう話だった。お前がどっちを選ぼうが恨みっこなし、ってな。俺とあの野郎の間では、ちゃんと話がついてたんだ。だからお前が気に病む必要はこれっぽっちもねえ」
「凌牙……」
「ぜってえ気にすんな。わかったな」
「ん……。ありがと」
なんか、胸がじんとした。
やっぱりこいつ、いい奴だ。ずっとずっと、友達でいてえ。
だけどこうなっちまったら、それはもう無理なのかな……?
そう思うだけでもう、俺の胸はずきんずきんと痛みを訴え始めた。
「なあ……凌牙」
だからどうしても、声は震えた。「あのさ」と言ったきり、続きをなかなか言い出せなくなる。
いつになく凌牙は気が長くて、「なんだどうした、さっさと話せ」みたいにせっついてくることもなく、黙って俺の言葉を待ってくれた。
金色を帯びたその目がめちゃくちゃ優しくって、俺の喉はぎゅうっと痛んだ。
「あのさ。それでも……それでもお前と、友達で、いて……いいかな」
必死でそうならないように我慢したのに、声はカッコ悪く掠れてしまった。
なんか泣きそう。
いや、ダメだ。泣くな俺。ここで泣いたら凌牙に申し訳なさすぎる。
凌牙はしばらく停止した。ほんのひと呼吸の間だけ。でも、すぐに緊張を解いてふはっと笑った。
「たりめーだっつの。アホ、泣くなバカ」
「アホバカうるせえっ。泣いてねえしっ!」
「ほんっとガキだなー」
「ガキ言うなっ」
俺は叫んで、こいつに絶対に見られたくねえものを、ごしごしと手の甲でこすりとった。
「ほんとお前ら、人のことばっかガキ扱いしやがって。そう言うお前はいくつなんだよ。怜二よりは年下なのか?」
「ん~?」
凌牙は急にめんどくさそうな目になった。
「なんだよ。いいじゃん。教えろよ」
「んー。まあなあ──」
ほじほじと小指で耳なんかほじくる真似をしている。
「……ま、あれよ。ほんの三百歳」
「どひえ!?」
思わず飛びすさったら、もの凄く冷たい半眼で睨まれた。
「『おっさん』とか言いやがったらブチ殺す」
うーん。目の前に持ち上がった拳の説得力が半端ねえ。
(三百歳……? マジかよ)
三百年前っていったら、日本ってなに時代だ? 江戸時代?
「ま、そんな話はどうでもいい。車、持ってきてんだ。送るから乗れ」
「え? 凌牙、免許とったの?」
初耳だぞ。俺だってまだなのに!
「そいつは難しい質問だな」
凌牙は軽く笑って、指先で車のキーをちゃりちゃり回している。
ああ、なるほど。こいつらには普通の人間みたいな方法で戸籍は取れない。ここで生活していくために、あれこれと裏の手や奥の手を使ったりして戸籍やら免許やら取っているのは想像に難くない。ヴァンピールなら赤ん坊や幼児に化けることもできるから、そのへんは比較的簡単なんだろうけどな。
すぐ脇に停まっていたでかくて黒いワンボックスカーが凌牙の車らしかった。窓には黒いシートが貼ってあって、中が見えにくくなっている。
なんとなくスポーツカーを想像していた俺は、たぶん意外そうな顔になっていたんだろう。凌牙がそれを見て取って言った。
「結局こういうののほうが、仲間を運ぶには便利なもんでな。万が一の時なんか、特によ」
「あー、なるほど」
つまり、仲間が変身しちまった状態のときとか、ってことだよな。
凌牙がにやっと口角をひきあげた。
「理解が早くて助かるわ。さすがは俺の親友だぜ」
「……!」
思わず絶句して固まった。
そんな俺を、凌牙はほとんど押し込むみたいにして助手席に乗せ、するっと運転席に座った。ごく慣れた手つきでシートベルトをし、エンジンをかける。
車は静かにスタートすると、ごくスムーズに駅前を走る国道に乗った。
「ま、あれだ」
沈黙して助手席で小さくなっている俺を、凌牙は横目で見もせずに言った。
「幸せになれ。俺らの望みはそんだけだからよ」
「りょ……っ」
「うっわ!」
ああ、もうダメだ。
もうダメだった。
俺の目からとんでもない量のそれがどばーっと噴き出しちまって、あとはなんかもうぐだぐだになった。
「だから泣くなっつってんだ、バカ! いきなり隣で泣きだすなボケぇ!」
「だって、りょ、がが──うああっ……どもだぢぃ……りょーが、うわああああ──ん!」
「きゅうきゅう? ぴいいっ?」
クロエがびっくりして姿を現し、俺の頭の周りをぱたぱた飛び回る。
「泣ーくーなー! ああもう、このバカガキが──!」
「ぴい、ぴいいいっ!」
バイト先に着くまでずっとそんな調子だった。
車内は俺の泣き叫ぶ声と凌牙の怒鳴り声、そして心配して鳴きまくるクロエの声で、ずっとずっといっぱいだった。
そうして凌駕の左腕は、俺の頭をずっとぽすぽす、優しく叩いてくれていた。
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