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第二部 エスペローサ編 第五章 呪詛
9 毒杯(1)
しおりを挟む幸せなどというものは、失ってからようやく気付くものなのだと思う。
十四になるまでの自分は、大国エスペローサの皇太子などという、己の窮屈な立場が決して好きではなかった。だがそうでありながらも、自分がどんなに恵まれた人生を送っているかなど露ほども考えたことはなかった。それだけ、裕福な家に生まれ甘やかされてぬくぬくと育った、ただの子供だったのだと思う。
年老いて病がちの少し気難しい父王と、その歳にあってもいまだ花も恥じらうほどに美しく心優しい母。そして赤ん坊の妹姫。それが自分の家族のすべてだった。
父と母の馴れ初めについては、十になる頃には知っていた。周囲の者たちは当然固く口を閉ざしていたものの、それでもいずこからともなく聞こえてきたからだ。人々の噂とは、常にそうしたものだ。
まだたった十六の、小さな隣国の姫だった母。その母を、当時六十だった父が見初めて力づくで掠め取ってきたのだということを。
父は、さすがに人格者とまでは言えなかったが、家臣や臣民に対して特に非情すぎるということも苛烈すぎるということもなく、まずまず穏当な王だったとは思う。しかし、自分が父を尊敬するということはあまり無かった。昔の、母を娶った顛末を聞くまでもなく、自分は父の人柄についてなにかしらの卑しさを覚えていたのだと思う。
一方で母は、日々ただ幸せそうに暮らしていた。そんな来し方を嘆く素振りも見せず、故郷を懐かしむ風もまるでなく、今にして思えば不思議なほどに。
アイリスが生まれて間もない頃、一度訊ねてみたことがある。
「お母様はどうして、いつもそんなに幸せそうにしていられるのですか」と。
母の答えは簡単だった。
「あら、どうして? こんなに素敵なナリウスと、こんなに愛らしいアイリスがいてくれるのに。どうしてお母様が不幸でなんていられるの?」──
花のような微笑みでそう返されて、自分は黙って苦笑するほかなかった。
ナリウスの知る限り、彼女の頬からその柔らかな微笑みが消えたためしは無かった。
冬ともなれば雪と氷で身動きもとれなくなるこの国。そんな環境でどうしても暗くなりがちな城の中が彼女が歩くだけで華やいで、まるで春の日差しが差し込んだようになった。母を見るとき、家臣たちも、侍女や侍従たちも自然に顔をほころばせた。
自分はそんな母を心から尊敬し、また愛していた。母が娘時代にここへ連れてこられた顛末を初めて聞いたときには、あまりにも当時の母が気の毒で、父を恨む気持ちすら生まれてしまったほどだった。父と母がいなければ、そもそも自分がここにいるはずもないというのに。
◇
その噂が聞こえてきたのは、それから間もなくのことだった。
自分が父の実子ではないというその噂は、瞬く間に城中に、そして国中に広がっていった。
自分はすぐに、父にも母にも聞いてみた。
が、二人の答えは予想通りのものだった。
「そんなことが、あるはずがない」──。
しかし、本当に根も葉もない話がそこまでまことしやかに囁かれ、ここまで広がってしまうものなのだろうか?
ナリウスの疑問は消えなかった。
正直なところ、自分があのどこか性根の卑しい父王の本当の子でないのだとしても、少しも残念な気持ちにはならなかった。これは不思議なことだったが、自然にそう思われたのだ。むしろ母が、婚前に母国で愛していたという件の青年と僅かでも幸せな時を過ごすことができたというなら、それはそれで構わない。そんな気持ちにすらなるのだった。
さすがにアイリスまでは無理だとしても、いざとなれば自分と母だけでも母国ヨークランドへ戻ってしまえばいいことだ。当時は、そんな風にまで考えていた。「思いつめていた」と言ってもいい。
別に自分が国王になどならなくとも、側室腹の王子たちはすでに沢山いる。彼らはそうした立場にある人間ならば当然のこととして、国王としての権力を喉から手が出るほど欲しがってもいた。
(そんなに欲しいならば、くれてやる)
当時のナリウスには、その地位に拘って汲々とする気持ちはまったくなかった。
毎日やってきては厳しく授業を行う帝王学の教師や剣術の師範たちは、二言目には「いずれ貴方様は王位を継がれるのですから」とうるさかった。だが当のナリウスにその実感はまったく湧かなかった。ただ少し、本当にそうなったら面倒だなと思うぐらいのことだった。飽くまでも「真面目に働くつもりがあれば」のことだが、国王の執務量というものもその精神的な重圧も相当なものであることは明らかだったからだ。
父王の近くに侍っている宮宰の中年男や宮中伯の老人たちは、いつ見ても権力と欲に塗れきった濁った目をしており、ひどく薄汚く見えた。父王の前ではまるで愛玩犬のごとくに激しく尻尾をふって媚び諂う。そのくせ裏に回れば聞くに堪えない陰口をひそひそと囁き交わす。物陰からそんな姿を見るにつけても、「国王などにはなりたくない」という思いのほうが日々募ってゆくのだった。
しかし。
父王の態度は、少しずつ変わっていった。
初めのうち、妻である王妃の裏切りなど露ほども疑ってはいなかったはずの父王が、日を追うごとに次第に表情が険しくなり、母に対する態度も冷たいものへと変わっていった。それと同時に、王が自分を見る視線も、まるで他人を見るかのように冷ややかなものへと変化していった。
ナリウスには分かっていた。父の病床の傍で、いつもその耳によからぬことを吹き込んでいる宮宰や側室や、宮中伯たちの存在を。
もしも、父がまだもう少し若くて健常な体であったなら。そうすればそんなことにはならなかったのかも知れない。しかし、父はもう病床に就いて相当長くなっており、判断力、記憶力ともにつとに低下してきてもいた。その上、それに反比例するように自分の感情を抑えることが難しくもなっていた。
耳元で日々囁かれる、王妃に対する疑念と不信の言葉。それを聞き続けるうち、国王の頭のなかでただの「疑念」が「確信」へと変貌していったのは、想像に難くないことだった。
(……奸臣め)
十四のナリウスでさえそう思った。
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