ひとつの秩序

水瀬 葵

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第一章

第一話

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「ねぇぇもう本当に私ダメかもしんない…」
「分かったよ」

この会話をもう何回繰り返したか分からない。
この目の前の男の返答のトーンから、その回数の多さが伺える。

「片倉せんぱい…」
「ハイハイ、好きだったなー」

みなみ 莉子りこは、高校の時の同級生だった目の前の男、加瀬かせ 透真とうまに愚痴をこぼしながら目の前の枝豆を摘む。

力任せに開いたところから、加瀬の方に中身の緑の粒が飛んだ。

「もったいねー」

そう言いながら加瀬が机の縁に飛ばされた豆を口に入れた。莉子は最初から食べる気などなかったかのように、目の前の加瀬の一連の動作を見ていた。

金曜日の夜、最寄り駅、普段使う改札と反対側から三分歩いたところの、入り口が少し狭い居酒屋。炉端焼きが美味しいという口コミを見て選ばれた場所だったが、せっかく頼んだ骨つきスペアリブという店一番の看板メニューは大して手がつけられないまま莉子の前に置かれたままだ。

「で?その片倉先輩が同棲したと」
「付き合って三ヶ月でだって…」
「はや」
「でしょ!?しかも先輩から話持ちかけたらしいの!はぁ?もう、大好きじゃん!」
「一人でキレんな」

残業なんかしてられるか、と莉子が急に加瀬を呼び出したのは三時間前のこと。金曜の十六時に連絡しても特に予定のなかったらしい加瀬が店選びまでご丁寧にしてくれたのは、莉子のメッセージの文面が荒れていたことを察してらしい。

「本当に好きだったのに…今でもまだ大好きだけど」
「なー、カルパッチョ食っていい?」
「好きにして…」

会社の二つ上の片倉 洋太かたくら ようた先輩。入社した時からいろんなことを教えてくれた。毎年新卒を採用しているわけではない会社で、初めての直属の後輩なんだと嬉しそうにしてくれた片倉の顔を、莉子はいまだに覚えている。

すいません、と手をあげて店員を呼ぶ加瀬は、ハイボールもう一杯、と消え入るような声で言った莉子の訴えも一緒に伝えた。快活な返事と共に手書きの伝票に書き込みながらテーブルを去っていく店員を莉子はなんとなく見つめた。

「どうしたらいい…?」
「どうしたもこうしたも、入る隙間なくね?」
「やめてそういうこと言わないでー!そういうことじゃなくて、私の気持ちの話…」
「気持ちって、もともと諦めてないじゃん、三ヶ月前もこの話したと思うわ」
「だってだって、だってだって」

片肘ついて、面倒臭そうな雰囲気を出しつつも、スマホを触ったりメニューに目をやったりはせず、まっすぐ莉子の目を見て話を聞いてくれる体勢の加瀬に、毎度毎度甘えていることはわかっている。ガヤガヤとうるさい店内、このお店を選んでくれた加瀬に莉子は感謝をする。オシャレな静かなお店だったら、きっとこんなにありのまま愚痴を言うことは出来なかった。

「マッチングアプリで出来た彼女なんか、すぐ別れると思うじゃん…」
「偏見ー」

莉子はまたしても机に項垂れた。なんとなく片手で持ったままのハイボールのジョッキからは雫が垂れて、机に水溜りを作っている。

「髪、机についてる。濡れるぞ」
「いいの髪なんてどうでも…」
「やさぐれんな、オシャレな女になるって意気込んでた四年前の自分を思い出せ」
「それはーー、会社も立地もオシャレだったからー!」
「念願のな」
「…でも片倉先輩が一番オシャレだった…」
「また話が戻った」

就職して四年、それなりに仕事も慣れてきて、新しいことも任されて、好きな人とはいい感じだと思っていたのに、片倉に三ヶ月前に彼女が出来たとランチタイムで聞かされてからは何だか人生が一気に下り坂になったような気がしていた。

「加瀬、マッチングアプリ使ったことある?」
「社会人一年目の時に使ったな」
「あるの!?」
「南、今の時代にそんな価値観で生きてんの?」
「ショック…」
「なんで?」
「加瀬ってそういう感じで女を求めるの…」
「嫌な言い方すんな」

フツーの彼女を作りませんか、みたいなやつだよ。すぐ辞めたけど。と加瀬は残っていた鶏もも肉の串を頬張って言った。少しだけ残った状態の料理たちを食べ切って皿を重ねる加瀬を見ながら、莉子は言った。

「なんで辞めたの」
「こっち知り合いいなかったし、土日何していいか分かんなかったからなー、でも連絡とったら意外と友達も上京してたから、」

だから必要ねーなーと思って。と言いながら、加瀬はさっきの机に項垂れたままの莉子の髪の毛を手に取り、肩の後ろへと流した。先程の会話から、加瀬はずっと机についたままの莉子の髪の毛が気になっていたらしい。

「彼女欲しかったけど出来なかったんだね…」
「解釈の仕方おかしくね?」
「私と一緒だね…」
「はいはいそうだねー」

ほら、飲み物くるしそろそろ顔上げろ、と言って加瀬は莉子の肩を叩く。うるさい店内でも、大声を出す客がいるわけでもなく、ジュウジュウと食材が立てる音と、調理音が心地いい。壁に画鋲で雑多に貼られたメニューを見上げながら、莉子は体を起こした。

「私が近所に住んでてよかったね、加瀬」
「近所ってもチャリの距離だけどな」
「いつもこっちにチャリで来てくれてありがと…」
「いいよ別に毎日乗ってるから」

加瀬とは高校の同級生だった。
二年生と三年生の時のクラスが一緒で、二年生の時はそれほど関わりはなかったものの、三年生になった時に加瀬と莉子のそれぞれが所属する四人ほどのグループでカップルが一組誕生したことにより、なんとなく加瀬のグループとも一緒に過ごすことが増えた。

大学は別で、疎遠になると思ったのだがバイト先の焼肉屋が一緒で、居心地のいいバイト先だったこともあって四年間、それなりに顔を合わす仲だった。

そこそこ都会の地元だったので、地元で就職する友人が多かったが、莉子は東京のデザイン事務所に、同じく加瀬も都内のスポーツメーカーに就職が決まり、お互い上京となった。

就職活動がお互い忙しく、バイトでも顔を合わせることも少なかったことや、特に特別な連絡を取り合うわけでもなかったので住む場所を教え合うこともなかったのだが、蓋を開けてみたらご近所さんだったというわけだ。

ご近所さんといっても最寄駅も沿線も違うのだが、加瀬が最寄り駅から徒歩十五分の場所なのもあって、結果的に加瀬の家から莉子の最寄り駅までは自転車で十分ほど。

「いい会社勤めてるんだから、もっと近く住めばいいのに、ありがとう…」
「お前のためみたいに言うなよ、お金貯められるならそっちの方がいいじゃん」

加瀬は店員から受け取った真鯛のカルパッチョを、莉子の取り皿に数枚移した。そんなに気が利かなそうな男に見えるくせに、箸をしっかり分けているところが、加瀬のいいところで居心地がいいところなんだよな、と莉子は心の中で思いながらハイボールを飲んだ。運ばれてきたばっかりなのにグラスには水滴が沢山ついている。手がびしょりと濡れたそれは、まるで私の心の中のようだなどと一瞬思ってから、自分の比喩の安直さに項垂れそうになる。

「片倉先輩はね、港区で同棲したんだって」
「すげーじゃん」
「彼女さんの希望なんだって」
「あー」
「片倉先輩もね、物件は少し背伸びしたけど、彼女も稼いでるからまぁ頑張ろうねって話したんだって」
「稼いでんだ」
「勝てるところない…」
「南って自分で自分の傷を抉りに行くよな」

加瀬はケラケラと笑いながらそう言った。こんな重いトーンで話をしても軽く受け止めてくれるからありがたい。莉子が何かあった時に話を聞いてもらいたくなる暖かさを加瀬は持っていた。

「また飲みに付き合ってくれる?」
「いいよ」

加瀬がそういって笑って、烏龍茶を飲んだ。ほら、お前も今日は飲めよと言う言葉にも甘えた莉子も、同じように笑ってハイボールをこくりと飲んだ。喉を流れるシュワリとした辛さと冷たさが、沁みた。
 
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