ひとつの秩序

水瀬 葵

文字の大きさ
4 / 13
第一章

第四話

しおりを挟む
 
 
帰ろっか。そう言い出したのは莉子からだった。莉子からそれを言い出すまで、加瀬はその場に付き合ってくれていた。

何度もジャケットを返そうとする莉子に、加瀬は何度もそれを拒否し、ついでに送るとも言った。公園の前に停めていた自転車を引きながら、加瀬は莉子の隣を歩く。

「そういえば私の家の場所、知らないね」
「こっち側まで来ることはあんまりないからなー」
「カフェとかあるよ、可愛いの」
「南好きそう」

だからこの辺選んだんだ?と聞く加瀬に、莉子も嬉しそうに頷く。

「加瀬の家の周りは?なんかある?」
「駅から遠いし、なんもねーなー、あ、でもパン屋あるわ」
「いいじゃん!」
「なんかオシャレな感じだけど、俺は米派だからなー」
「もったいないー」

そう言って自分の方を見た莉子の目元を少し覗き込むようにした加瀬に、莉子はどうしたの?と聞いた。

「…いや、ラメか」
「…さっき、泣いてたかと思ったでしょ?」
「…うん」
「…泣かないよ」

莉子は前を向いてそう言った。加瀬のジャケットはネイビーのはずだが、夜に紛れてすっかり馴染んでいる。その下から覗く、柔らかそうなシフォン素材の白のスカートが、やけに映える。

「なんで?」
「え?」
「俺の前だから?」
「…違うよ」
「家で一人で泣いてんの?」
「…泣いてない」
「なんで?」

先ほどと同じ問いを、同じトーンでまっすぐ加瀬はぶつける。スポーツメーカーに勤めているだけあって、清潔感のある髪型をしている加瀬の髪の毛は、風に吹かれても莉子ほど激しくは揺られない。根元はすっきり短めで、トップにだけボリュームを残したショート。耳周りは軽く刈り上げているのに、前髪だけは少し長めで、それが風に吹かれてさらりと額にかかる。

「なんでって…」
「ちゃんと、泣けよ」

悲しいんだから。

そう言った加瀬の言葉に、莉子の涙が急に決壊したかのように溢れる。なんで、なんで、そんなこと言うの、

私が、どれだけ必死に、

「うううううーーーー」
「…」
「うううーーーーーーーー」
「…なんで我慢してたんだよ」

子どものように立ったまま、歯を少し食いしばって、目をぎゅっとつぶって、両手でジャケットを押さえたまま、クシャりと歪められた顔から溢れる莉子の涙を見て、加瀬は自転車を停めて、一歩近づいた。深いグリーンチェックのハンカチを頬に当てて、莉子の肩を持って、歩道に寄せた。

「だってっ、泣いたら、ちゃんと、認めるみたい、じゃん」
「…ごめん」
「認め、たく、ないじゃんっ、そんな、一ミリも、この四年、意識されてなかったとか、」
「ごめん」
「ちゃんと好き、だったのに、毎日、顔、合わせて、毎日、優しくて、毎日、好き、なのに、っ、どうしたらいいの?」


加瀬はもう一歩、莉子に近づいた。
二人の距離はゼロになり、加瀬の胸板に莉子の顔が当たる。加瀬の腕が、ゆっくりと莉子の肩を柔らかく包む。

「…そうだな」

その柔らかい声を聞いて、莉子はまた涙が流れる。こんな優しい男だったなんて知らなかった、こんな、小さい言葉をぽつんと落とすように音を出すなんて。

片手で拭っていた涙も、もう手の水分の飽和量を超えて拭いきれない。やばい、鼻水も出ている気がする。そう思って莉子が一歩下がろうとした時、加瀬は少しだけ肩に置いた手の力を強める。

「いいから」
「ううううううーーー」
「…子どもみたいに泣くんだな」
「ううう…」
「そのうちエーンって言いそう」
「うう…、言おうか?」
「いいわ」

加瀬が少し、ふと笑った気がした。それを感じた莉子も少し口元が緩んだ。さっきといい、悲しいのに、なんでこんなに最後は笑えてきちゃうんだろう?莉子はスカートのポケットからハンカチを出そうとした。それを察した加瀬が、先ほどのグリーンチェックのハンカチを莉子の手に近づけてくる。

「え、」
「もうさっきお前の涙ついてるから」
「は、はなみずを、」
「ハハっ、もうそれも一緒だから拭いとけ」

加瀬は一歩後ろに下がり、ハンカチを自分で持って莉子の鼻に当てた。開いた布を、鼻に沿わせて閉じるようにして鼻水を拭う。閉じたそれの綺麗な面で、涙も同じようにして拭う。

「あ、か、かせ、」
「ん?」
「シャツに、はなみずが、」
「知ってるわ、すげー湿ってきてるもん」
「ごご、ごめごめごめんっ」

いいよ、俺が泣かせたからな。と加瀬は少し笑いながら言った。泣いたのは確かに加瀬の言葉がきっかけだけど、別に加瀬のせいじゃないのに、と莉子は思った。加瀬はもうハンカチを自分のポケットにしまって、自転車を動かす体制に入っていた。

「加瀬、シャツ、弁償させて」
「いいよ別に、洗うし」
「じゃあ、私が洗う!」
「いや半裸で帰ることになるじゃん」

不審者で捕まるんですけど、と言いながら自転車を引き始める加瀬に、棒立ちだった莉子も慌てて隣に並ぶ。それは、そうなんだけど、でも、

「じゃあ、うち上がってく?」

そしたら服も貸せるし、と思いながらした提案に、加瀬の動きは少し止まり、莉子をチラリと見た。

「上がんねーよ」

片方の口角だけをあげてそう言った加瀬は少し苦笑気味に笑い、莉子に言った。もうすぐ莉子の家に着く。

「でも、」
「どうせワイシャツ買い替えなきゃと思ってたし、そしたら、南今度ついてきてよ」
「え?」
「ブランドとか詳しいだろ?これ、地元で買ったやつでさ」
「え、うん、」
「先輩に、そろそろ大衆店じゃないものを持っててもいいんじゃないかとか言われて、でも俺そういうの分からん」
「じゃあ、そこで加瀬に似合うの私が買う!」

そういえば、いつも夜に飲む時は匂いがつくからって私服に着替えてきている加瀬がスーツのまま来るなんて、と莉子はふと思った。きっと、いつもと様子が違うと感じて、家に寄らず、駅からまっすぐ自転車を走らせてきてくれたんだろう。

「ふ、じゃあ頼むわ」
「任せて!」

加瀬はさっきと同じように笑った。ここが家だと伝えると、加瀬は莉子の肩にかかっていたジャケットを優しく取った。持ち主の元に戻ったネイビーのジャケットは無造作に自転車のカゴに入れられた。

「じゃ、気をつけろよ」

そう言って自転車に跨った加瀬は、莉子に家に入るように手で指示した。莉子も同じように、いやいや、いやいや、としばらくお互いやり合って、莉子が根負けして、加瀬に手を振って玄関に向かうと、背後から加瀬の自転車が走り去る音が聞こえた。

さっき、気をつけろよって、加瀬の方こそなのに。そう思ったのに、言うの忘れたな、と思った莉子は無意識のうちに笑みを浮かべながら、鍵を取り出すのだった。

 
 
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

元恋人と、今日から同僚です

紗和木 りん
恋愛
女性向けライフスタイル誌・編集部で働く結城真帆(29)。 仕事一筋で生きてきた彼女の前に、ある日突然、五年前に別れた元恋人が現れた。 「今日から、この部署に配属になった」 そう告げたのは、穏やかで理性的な朝倉。 かつて、将来や価値観のすれ違いから別れた相手だ。 仕事として割り切ろうと距離を取る真帆だったが、過去の別れが誤解と説明不足によるものだったことが少しずつ見えてくる。 恋愛から逃げてきた女と、想いを言葉にできなかった男。 仕事も感情も投げ出さず、逃げずに選び直した先にあるのは「やり直し」ではなく……。 元恋人と同僚になった二人。 仕事から始まる新しい恋の物語。

離した手の温もり

橘 凛子
恋愛
3年前、未来を誓った君を置いて、私は夢を追いかけた。キャリアを優先した私に、君と会う資格なんてないのかもしれない。それでも、あの日の選択をずっと後悔している。そして今、私はあの場所へ帰ってきた。もう一度、君に会いたい。ただ、ごめんなさいと伝えたい。それだけでいい。それ以上の願いは、もう抱けないから。

ソツのない彼氏とスキのない彼女

吉野 那生
恋愛
特別目立つ訳ではない。 どちらかといえば地味だし、バリキャリという風でもない。 だけど…何故か気になってしまう。 気がつくと、彼女の姿を目で追っている。 *** 社内でも知らない者はいないという程、有名な彼。 爽やかな見た目、人懐っこく相手の懐にスルリと入り込む手腕。 そして、華やかな噂。 あまり得意なタイプではない。 どちらかといえば敬遠するタイプなのに…。

遠回りな恋〜私の恋心を弄ぶ悪い男〜

小田恒子
恋愛
瀬川真冬は、高校時代の同級生である一ノ瀬玲央が好きだった。 でも玲央の彼女となる女の子は、いつだって真冬の友人で、真冬は選ばれない。 就活で内定を決めた本命の会社を蹴って、最終的には玲央の父が経営する会社へ就職をする。 そこには玲央がいる。 それなのに、私は玲央に選ばれない…… そんなある日、玲央の出張に付き合うことになり、二人の恋が動き出す。 瀬川真冬 25歳 一ノ瀬玲央 25歳 ベリーズカフェからの作品転載分を若干修正しております。 表紙は簡単表紙メーカーにて作成。 アルファポリス公開日 2024/10/21 作品の無断転載はご遠慮ください。

【完結】泡になった約束

山田森湖
恋愛
三十九歳、専業主婦。 夫と娘を送り出し、静まり返ったキッチンで食器を洗う朝。 洗剤の泡が立っては消えるその繰り返しに、自分の人生を重ねながら、彼女は「ごく普通」の日常を受け入れている。 愛がないわけではない。けれど、満たされているとも言い切れない。 そんな午前中、何気なく出かけたスーパーで、背後から名前を呼ばれる。 振り返った先にいたのは、かつて確かに愛した男――元恋人・佐々木拓也。 平穏だったはずの毎日に、静かな波紋が広がり始める。

Melty romance 〜甘S彼氏の執着愛〜

yuzu
恋愛
 人数合わせで強引に参加させられた合コンに現れたのは、高校生の頃に少しだけ付き合って別れた元カレの佐野充希。適当にその場をやり過ごして帰るつもりだった堀沢真乃は充希に捕まりキスされて…… 「オレを好きになるまで離してやんない。」

距離感ゼロ〜副社長と私の恋の攻防戦〜

葉月 まい
恋愛
「どうするつもりだ?」 そう言ってグッと肩を抱いてくる 「人肌が心地良くてよく眠れた」 いやいや、私は抱き枕ですか!? 近い、とにかく近いんですって! グイグイ迫ってくる副社長と 仕事一筋の秘書の 恋の攻防戦、スタート! ✼••┈•• ♡ 登場人物 ♡••┈••✼ 里見 芹奈(27歳) …神蔵不動産 社長秘書 神蔵 翔(32歳) …神蔵不動産 副社長 社長秘書の芹奈は、パーティーで社長をかばい ドレスにワインをかけられる。 それに気づいた副社長の翔は 芹奈の肩を抱き寄せてホテルの部屋へ。 海外から帰国したばかりの翔は 何をするにもとにかく近い! 仕事一筋の芹奈は そんな翔に戸惑うばかりで……

偽装夫婦

詩織
恋愛
付き合って5年になる彼は後輩に横取りされた。 会社も一緒だし行く気がない。 けど、横取りされたからって会社辞めるってアホすぎません?

処理中です...