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第一章
第十三話
しおりを挟む会社の会議室。直前まで誰も使用していなかったのか、暖房が回りきっていない空気が少しまだ冷たい。スクリーンは降りているものの、プロジェクターの電源は切られたままだ。
「この一枚目、写真どう思いますか?」
「うーん…悪くないけど、少し硬いかな」
「じゃあ、もうちょっと生活感あるやつとか?」
「そうだね、商品紹介っていうより馴染んでる感じにしたい」
会議までまだ二時間ある。莉子の作った資料の最終チェックを片倉としていた。
莉子の会社は建築デザイン会社だが、空間コンセプトや内装、什器や家具、ブランドトーンなどを扱うことも多い。
今回は、地方の老舗メーカーが都内にポップアップを出すという案件だった。
地方で歴史はあり、品質はいいのだが若者に届かない。空間とビジュアル、SNSで再定義していくという内容で、莉子はキービジュアルや色や素材を決める空間トーン、SNS用のビジュアルイメージなどを担当していた。
静もチームに入っているが、今回はデザインの話がメインということで欠席している。
片倉のスマートフォンが、机の上で小さく震える。音は鳴らなかった。
一瞬そちらに目をやった二人。片倉のマウスを持つ指が止まり、手が伸びた。莉子はそちらを気にしながらも、自分のパソコンの画面を見つめる。そうして、しばらくしても動きがない片倉の方をチラリと見た。
「…先輩?」
「…あ、ごめん」
「…大丈夫ですか?」
「うん、」
「緊急、です?」
片倉の表情は硬い。何かあったんじゃないか、トラブルかと心配して声をかけた莉子に、片倉は首を振って答えた。
「いや、…彼女から」
「…もし、あれなら、私資料直してますし」
「ん、大丈夫。…今日から実家に帰るってさ」
「え、」
片倉の声はいつもより低い。莉子のマウスを持つ手も止まった。片倉はぼうっと目の前のパソコンの画面を見つめたままポツリと言う。
「最近、あんまり話せてなくてね」
「そうなんですか…」
「いや、ごめんこんな話して。仕事しよう」
莉子は片倉の様子も気に掛かったがそれ以上何か言える空気でもなく、言いたかった何かは飲み込んで、はい、と返事をしてパソコンに向かった。その話題が再び出ることはなかった。
「南が一人で頑張ってたキービジュアル、良かったと思うよ」
「本当ですか!」
「うん、特に突っ込まれなかったでしょ?」
「はい!」
「違和感がなかったってことだから」
「嬉しいです、ありがとうございます」
会議が終わり、片倉と莉子は片付けをしながら内容を振り返っていた。ブラインドをあげている莉子。会社の吹き抜けの空間が見え、張り詰めた気持ちが少しだけ緩まる。
「俺は全然ダメだったけど。ごめんね」
「そんなことないですよ!」
今日は片倉と二人で任された会議だった。クライアントの広報の女性と補佐の男性、合計四人の会議だったのだが、後半の空気は重かった。
ーー『今回はブランドを主張すると言うより、生活の中に溶け込む見せ方を意識しています』
『はい、ここまではとてもいいと思います。ただ、一点だけ』
『はい』
『これは、今じゃなくても成立しませんか?』
『…今、だからこそこのブランドを知って欲しくて』
『それは分かります。でも、今…の私たちの温度も、もう少し表現して頂きたいです』ーー
「難しいなって思いました」
「持ち帰ることになったし、俺ももうちょっと考えてみるね」
ふうー、と片倉は壁側に置かれた棚に寄りかかった。莉子はその様子を少し心配そうに見つめる。
「大丈夫ですか?」
「ん、いや大丈夫。違った捉え方も必要だよね」
「いえ、あの…さっきの」
「…あぁ、彼女の話?」
「はい……先輩、いつもより、なんか、」
片倉の頭頂部にエアコンの風が当たり、そよそよと柔らかくカーブを描いた髪の毛が揺れている。莉子は頭の中の違和感をうまく言語化できないまま見切り発車で発言してしまったので言葉に詰まる。
「…情けないよね、後輩にこんなことで心配されて」
「いえっ、私ならとても会議なんか出来なくなっちゃいます」
会議中の片倉はいつもと同じだった。ただ、その前後の空気感は少しだけピリッとしているような、いつもの柔らかい雰囲気とはちょっと違うような、触ってはいけないようなものを莉子に感じさせていた。
「…それは困るね」
「はいっ、だから片倉先輩はすごいです」
「ふっ、ありがとう」
「…先輩は、」
「うん?」
いつもなら聞こうと思わなかった、とても聞く気になれなかったことを今ならなんか聞ける気がする。莉子の口からスラスラとそれは溢れた。
「どこが好きなんですか?彼女さんの」
「…前、キラキラしてたって、言ったでしょ」
「はい」
片倉は腕を組んで、莉子の方を見た。
センターで分けて下ろしている前髪が目にかかっている。
「彼女、すごいんだよ。鎌倉に実家があって、お父さんも不動産でいくつも物件持っててね。エスカレーターで大学まで行けたのに、挑戦してみたくなって大学は外部受験して」
片倉が、彼女の新卒での就職先として伝えた会社名は、それはもうとても有名なコンサルティング会社だった。
「三年でもっと現場に近いところでやりたいってなって転職したんだって。俺の倍以上稼いでるの」
「…すごい、ですね」
「でしょ、俺も最初聞いた時はそんな人実際にいるんだって思った」
でも、そういう経歴とかじゃなくてね、と片倉は続けた。莉子はまっすぐ片倉の方を見つめて聞く。ああ暖房、切らなければ良かった。足元から冷えていくみたいだ。
「自分の意見がはっきりあって、それをしっかり伝えて、それに向かってまっすぐ行動して、自立して、人生をすごく楽しんでいるように見えて、眩しくて。それにすごく惹かれたんだ」
「…」
「初めてで、そういう人」
「…はい」
「だから、そんな人が俺を良いって思ってくれてるって分かって、こんなこと、もう二度とないんじゃないかなって、思ったんだけどな…」
「…そうなんですね」
片倉は、もう付き合って半年になる。莉子は今でも、片倉の彼女が出来たと知った時のことを忘れていない。
「…なんか語っちゃったね、恥ずかしい。忘れてね」
「…ふふ、忘れられないです。素敵で」
素敵な先輩の彼女さんは、素敵な方ですね。
心から思った。いつの間にか口からそのまま出ていた。
「…南は、いつも素直でいいね」
「え、そうですか?」
「うん、ずっと素直で、ずっと、」
可愛いよ。
片倉の口がそう動いたことも、その言葉が発されたことも、莉子にはしっかり伝わっていた。莉子は思わず目が泳ぐ。聞き間違いかと、でも何となく、片倉の方は見られない。
「…っや、ごめん、先、戻るね」
片倉も息を飲んだ。続きの言葉は、滑るように喉から出た。言うつもりではなかった言葉が滑り落ちたことに自分でも驚いた。
莉子の方は見れなかった。
そのまま、目の前のパソコンを折りたたんで会議室から出た。
莉子も、片倉の方は見れなかった。
バタン、とドアが閉まる音だけが、やけに大きく響いた。切るんじゃなかった、と後悔した暖房の音が、今は遠くの地鳴りのように聞こえる。
「え…」
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