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聖なる歌姫は喉を潰され、人間をやめてしまいました。
しおりを挟む王は言った。
「アイリーンよ、すばらしい歌声であった。そなたこそが当代歌姫にふさわしい」
「……光栄に存じます!」
震えながら待っていたアイリーンは、愛らしい顔をぱっとあげて笑った。
そのさまに王は満足そうに眉尻を下げ、ニ度頷いてから、面倒そうにアイリーンの隣を見る。
「それに比べ、ロレーナ。そなたの歌声はどうにも不快だ。なぜ、アイリーンのようにできぬのだ?」
ロレーナは苦笑し、頭を下げたままでいた。
「生来の才にあぐらをかき、努力を怠ったのではないか? なるほど確かに技術はあるのかもしれぬ。だがそなたの歌には誰も喜ばぬ。独りよがりの、怠け者の歌よ」
「……陛下、ロレーナ様はお忙しいのですから」
「アイリーン」
否定の言葉で割り込んだ無礼にも触れず、王のアイリーンに向ける言葉はぬるりと甘い。
「そなたは優しい子だ。だが、正しい評価は下さねばならん。そなたがいかに努力しているか、わしは誰より知っている」
「陛下……」
毎夜、王の寝室から歌が聞こえるという噂をロレーナは思い出した。自分には関係のないことだと思ってきた。
教会の定める聖なる歌い手は、王の権力下にはない。
そうと信じてきたことが、打ち壊されようとしている。
「ロレーナ。歌姫の仕事は歌うことだろう。他に大事な仕事があるか?」
「……いいえ」
それは王にこそ告げたかった。
聖なる歌姫の仕事は、精霊に歌を捧げることだ。権力者を喜ばせることではない。
「その歌の研鑽を怠けるとは……教会も何をしているのだ。歌姫だからと甘やかし、贅沢をさせているとも聞いたぞ」
「恐れながら、陛下、釈明をお許しください」
神官ロベルトがロレーナの隣に進み出た。
王は鬱陶しそうに「許す」と言った。
「先も申し上げ、偉大なる陛下にはご理解いただけているものと思っておりました。精霊へ捧げる歌は、人に捧げるものではありません。人の耳にはご不快に感じることもございます」
ロベルトの言葉は慇懃であるが、苛立ちがこもっている。
教会の歌姫ロレーナと、城の歌姫アイリーン。その歌を競わせようという話を断るため、何度も伝えたはずだった。
それでもこの場は設けられた。
教会は権力に屈せず。
その力が脆いことが、明らかになってしまっている。
「そのような言い訳が通ると思うな。姿が見えず、声が聞こえぬからと、精霊に不快な歌を聞かせてよいはずがないだろう」
「いいえ、精霊は、人のごとき耳を持ちません」
「はは、これはおかしなことだ。ではなぜ歌うのだ?」
「歌うもの、聞くもの、それぞれの心に響く旋律が、精霊に届くのです」
「ふん。どうとでも言える話よ。ようは貴様らは、よりよくあろうという意思がない。古びた化石の集まりよ」
あまりのことに神官ロベルトが拳を握ったが、ロレーナはそれを視線で制した。
ここは王城である。教会のごとき護りはなく、周囲は王に従う貴族で埋め尽くされている。
無礼があれば斬り捨てられても不思議はない。
とにかくこの場は受け流すしかなかった。
「……まあよい。歌姫の名にふさわしいのがアイリーンだということがわかった。皆、讃えよ!」
わあっと声が上がった。
「歌姫アイリーン!」
「アイリーン!」
「アイリーンこそ歌姫にふさわしい!」
「ロレーナと入れ替えよ!」
「ロレーナに資格はない!」
「歌の下手なロレーナ!」
「怠け者ロレーナ!」
「教会は不正を正せ!」
「みんな……」
お優しいはずの歌姫アイリーンは、自らを讃える中に混ざるロレーヌへの罵倒にさえ微笑んだ。
「ありがとう」
その一言を聞くために、王も貴族も、しんと静まった。
なんという茶番。
ロレーナはただ頭を下げて耐えた。ともかく教会へ戻り、これからの対応を考えなければならない。
自分が歌姫を降ろされても構いはしない。だが新たな歌い手を、教会の中で育てなければならなかった。
この国を守る精霊は、本来、そう優しい性質ではない。
歌姫が歌を捧げ、宥め続けなければならないのだ。歌を途切れさせてはならない。
彼らの姿は見えず声も聞こえないが、そこに確かにいるものだ。信じないのは彼らの勝手だが、だといって現実が変わるわけもなかった。
「よい! 静まれ。では本日はこれで解散とする。アイリーンとロレーナ、双方を讃え、マルディアの雫を与える。……いっそう励め」
「はい!」
「……は」
アイリーンが元気よく答え、ロレーナは戸惑った。
教会に歌姫の変更を強制するのかと思っていたが、それはないようだ。マルディアの雫とは、この国の最高の畑で取れた葡萄で作る、最高級のワイン。王家にのみ献上されている。
(なぜ、私も?)
嫌な予感はしたのだ。
けれどまさか。
それに、褒美として与えられたものを、飲まないわけにもいかなかった。王の目が、貴族達の目が、渡されたグラスに注目している。
アイリーンが先に口にする。
ロレーナもそれを飲んだ。
一口。
恐れが先に立って、わずかにだけ喉に流した。
「うっ……!?」
その瞬間、喉に強い痛みが走った。
「ぐっ、げほっ……!」
「ロレーナ! こ、これは……」
吐き出したワインよりも赤い血が、王城の美しい絨毯に散った。
「さすがは善きものにしか与えられぬという、マルディアの雫。醜きものには不要の喉を奪ったようだな」
「……」
ロレーナは青ざめ、口を開いた。
「……、……」
声は出ない。
喉はただ痛むばかりで、うめき声すら発せなかった。
(なんてこと)
およそ考えられる中で最悪のことだ。
(なんて、こと)
いっそすべてのワインを飲み干し、死んでしまえば良かったのだ。
(でも、)
きっとそれも恐ろしくてできなかっただろう。人々を愛し、この国を愛するロレーナとて、まだ若い娘だ。すべてを捧げることはできない。
(ああ……)
歌うことはロレーナの喜びだ。
親に捨てられ、教会に拾われ、それでもいつも歌が自分を支えてくれた。
(……歌いたい)
彼女の心にあるのはそれだけだった。
旋律はいつでも心にあるのに、喉を通って出てこない。
「ロレーナ……!」
ごめんなさい、と神官ロベルトに告げる言葉も声にならない。
歌わずにいられない。
ロレーナの喉が潰されたことに気づいた精霊が、歌え、歌えと囁いている。喚いている。かき口説いている。
いくつも心に溢れる旋律を、ロレーナは口にすることができない。
引き込まれる。
歌え、歌え、歌え。
精霊は歌で繋がっている。
口に出して歌うことができたなら、それは歪み、人の歌になる。人から精霊に与える歌になる。
けれど外に出せなかったのなら。
「うおっ!?」
ふいに突風がふいた。
「な、なんだ」
室内にこれほど強い風が吹き荒れるはずがない。それも王の周囲にだけ吹くので、彼は玉座に座っていることができなかった。
「ぎゃっ!」
みっともなく床に尻もちをついた。
「陛下!」
それを助けようとした騎士もまた、その場に倒れた。立っていられないほどの風だ。
「きゃあっ!?」
アイリーンの美しい衣装から火が上がった。
「なに!?」
慌てて彼女は衣装を叩き、火を消した。その程度の小さな火だ。しかしいったいどこから生まれたのか、アイリーンは怯えて自分の全身を見る。
「ね、ねえ、燃えてない? もう、ねえ、なんで、燃えていたの?」
「わ、わかりません!」
アイリーンにつけられた侍女も、まったく理解ができない。どこから火種が飛んできたのだろう。
「あっ、そこに」
「やだ! 消して、消して!」
「は、はい……いえ」
「早く!」
「……申し訳ありません!」
侍女は慌てて火を叩いた。
アイリーンの尻を叩いた。なかなか消えなかったので、何度も。
「きゃあっ、なに、なんなの!?」
「火が、火が……」
「あっ!?」
かと思えば次の瞬間、ばしゃりと水がかかった。
「な……なん、なの……?」
その騒ぎは貴族の間にも広がっていた。
風が足をすくい転ばせ、小さな火が飛び、水が降る。
ちょっとした騒ぎですんでいる貴族達とは違い、王とアイリーンは謁見の間の床をごろごろと転がっていた。
「ぐああああ!」
「いやあああ!」
絨毯を巻き込んで転がる。
周囲が助けようとしても、彼らも転がされるばかりだ。
「なんなのだ、これは……!」
ようやく絨毯から這い出した王が叫ぶ。
「神官ロベルト!」
ひとり何一つ害なく立っている彼に声をあげる。
「なんなのだ、なんなのだ……!」
「精霊ですよ」
ロベルトは苦い声で言った。
それからわずかにだけ笑う。
「……ロレーナは、やはり優しい人だった。あなたの首を飛ばすでも、丸焼きにしてしまうでもないのだから」
「ロレーナ……?」
気づけば彼女の姿がない。
どこに消えたのか?
「精霊と心を通じさせ、歌を外に出せない歌い手は、精霊に取り込まれてしまう。その心を持ったまま」
「……何……?」
しばらくのちに理解したのか、王はがたがたと震え始めた。
「そうですよ。まあ今はこの程度の遊びで満足しているようですが」
「こ、この程度の……」
「ロレーナの優しさに感謝することです」
「貴様……! なんとか……なんとかしろ! この騒ぎを鎮めよ!」
「嫌ですよ」
「……おい!」
「私に危害を加えると、ロレーナはいっそう怒ると思いますが。……試してみますか?」
もしそうだったらいいな、とロベルトは少し思った。
ほのかな思いも、しかし永遠に届かなくなった。精霊となった彼女の姿は見えない。ロベルトの声も届かない。
「……」
ロベルトは息を吐いた。
やるべきことをやらねばならない。
「……精霊の怒りをなだめるために、新たな歌姫を育てなければなりません」
「あっ、あたしが……!」
歌姫という言葉に反応したのか、ぼろぼろの衣装をまとうアイリーンが声をあげた。
「できると思いますか?」
「……」
「いいですよ。やりたいなら、やってみても。精霊の怒りを徹底的に発散させるというのも、新たな試みかもしれません。……誰が死んでも、国がどうなっても、私は責任を取りませんが」
そうして彼らは黙った。あるいはまた床を端から端まで転がされ始めたので、何も言えなかったのかもしれない。
騒動に背を向け、ロベルトはとぼとぼと歩き出した。
(ロレーナ)
本当に、優しい人だ。
もし自分なら、愚にもつかない者たちなど殺し、いちからきれいな国を作るだろう。
しかし、ロレーナはそれを望まなかった。きっと王城を荒らしながらも、彼女の愛する人々へは強い加護を与えるだろう。
精霊に取り込まれた歌い手は、良くも悪くも国を変える。どんなに穏やかな人間も、奥底に強い炎が燃えている。精霊は自由だ。その心は偽れない。
もしもあのアイリーンのような女が取り込まれていたのなら、想像するだに恐ろしい。
(あなたでよかったのかもしれない。……だが)
ロベルトは首を振り、己のすべきことのため、教会へ急ぐのだった。
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