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第一章
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五
夜になって戻ってみると、タイマは縁側に腰かけたまま「やあ、おかえり」と、言ってわしを出迎えた。それを無視して、障子を開けて中に入ろうとすると、「心の痛みを、知ってほしかったんだ」と、突然そんなことを言った。驚いてふりかえった。
「顎が砕けるところだ」
「それ以上、曲がる骨もないだろう」
「あの打撃差は何だ」
「ちょっと、力の加減ができんかったのは、悪かったと思うよ。京也も驚かせてしまったし」
「答えになっとらん」
タイマはゆるく団扇を動かしながら、前髪をゆらせていた。わしはふん、と鼻を鳴らすと「あの弟を、貴様は溺愛しすぎじゃないのか。天狗のくせに愛だと?ちゃんちゃらおかしくて、へそで茶がわける」
「それだ、八枯れ。俺には良いが、あの子には駄目だ。いけない」
「いけない、って、貴様」
子供を叱るようなタイマの声に脱力し、わしは縁側で前足をおって、座り込んだ。タイマはそれに対して、愉快そうに眼を細め「なんだか、飼い犬のようで、愛着が持てそうだ」などと、気味の悪いことを言った。
本当に嫌な男だと思う。考えているように見えて、まったく考えていないと思えば、考えていないように見えて、考えている。昔からそうだったが、人間に生まれてからと言うもの、わしはこの馬鹿な天狗のことが、もっとわからなくなった。
「俺たちは、簡単には傷がつかない。心身ともにそうだ。それに長生きだろう」
「今さらだな」
「今だからだ。より弱い生き物のことを、考えてやらなくちゃ」
「偽善だな。強いものが弱いものを喰うのは、自然の理だ。わしらは、そういうものじゃ。そんなこと動物だって知っとることじゃないか」
「俺はおかしいか」
「ああ、おかしいな」
はは、と声をもらして笑ったタイマを見上げ、目を細めた。
「うん、おかしいかもしれん。だけど、見てしまったのだから、仕様がない。それを見てしまったら、力の加減ができなかった」
「何の話だ」わしは、訝しそうに眉間に皺をよせた。タイマはそれに笑みを浮かべて、するどい目を細めた。
「京也が、傷ついた顔をした。一瞬だったけどね。とても、とても、悲しそうに顔を歪めたんだよ」
タイマは、白い前髪をかきあげて、空を見上げる。かすかにゆらす、団扇にのって、天狗の風が宙を舞った。人でも、化け物でもないくせに、こいつはわしより、生きることを楽しんでいる。
「あの子は、聡明だ。お前だってよく知ってるだろう」
時折、言葉遊びのように曖昧にしか話さない。その抽象的な内容を、理解してやろうとするほど、わしは親切ではない。だから尻尾を振って鼻息を荒くすると、タイマを睨み上げる。
「まどろっこしいな。はっきりしろ」
「京也はね。俺が、京也が生まれたために、この家を継げないことをわかっているんだ。あの母親の、この家の溺愛ぶりは異常だ。俺の後に、あんな立派な子が生まれたんだ。当然さ」
目を細めて、ちら、とその表情をうかがう。タイマは相変わらず、快活な笑顔を浮かべている。
「知っていたか?坂島恭一郎と言う人物は、まだ戸籍に入っていないんだ。ここのじいさんは、政界の人だからね。それぐらい造作もないことだ。それで京也が生まれ、登録を済ませた。さて困ったものだよ」
わしは怪訝そうに眉をよせた。
「何が問題なのかよくわからん。半分以上、貴様が言っていることは呪文にしか聞こえんぞ」
そう言って真剣なまなざしをやると、タイマは一度、目を大きく見開いてから、盛大に笑いだした。しばらく腹を抱えて、両肩を震わせている。よくわからないが、おそらく馬鹿にされている。
「お前も、少しはこっちのことを勉強したらどうだ。これが、なかなか、面白いんだ。特にいまのこの国は、外来のものと、自国のものが行き来して、混在しはじめていてね。どこに向かって行きゃ良いのか、わからない。わからないが、表ではそれをそれとして出さない。へらへら笑うものでもないが、身軽な様を演じてみせる。だが、その実は重いものだ。矛盾している」
タイマは目尻にたまった涙をぬぐいながら、書棚の方を指さした。その指の先をたどって見ると、赤や、黄の布に巻かれた本がいくつか、並んでいる。一度、じっと眺めてから、鼻を鳴らした。
「くだらん」と、低くうなる。「最近、夜ふかしだったのは、そういうことか。貴様は一応、人間のことを学ばねば振舞えまい。だが、わしは違う。鬼だからな」
「犬に見えるがね。まったく、お前のおかげで、深刻な話しが台無しじゃないか。緊張感のない奴だな」
「貴様にだけは、言われたくないな。なんでもかんでも、楽しむ癖をどうにかしろ。迷惑じゃ」
「生きている限り、迷惑はなくならない。良いことじゃないか」
「無駄なことじゃ」
「無駄が大事なのさ」
「言ってろ」
「だから、京也に木偶だとか、人形だなんて、言っちゃいけないよ。それはこの家じゃ、本当のことなんだから。本当と言うのは大事だが、時として激しく人を傷つけるんだから。厄介なものだ」
タイマの鋭い目をのぞきこみ、首をかしげて眉間に皺をよせた。
「さっぱりわからん」
「勉強しろって」
タイマは、苦笑を浮かべて頬づえをついていたが、それに鼻を鳴らして、尻尾を振った。知ろうとしたところで、どうにかなるものでもなし、なにより種族の違いなど、活字を通して越えられるとは到底、思えない。喰っても、生まれ変わっても、所詮、化け物は化け物でしかない。そこに来て、人間の考えをいくつ紐といたところで、同じことだ。
「さて、そろそろ一杯やろうか」
立ち上がって伸びをすると、愉快そうに笑ってそう言った。わしとタイマが、開け放なしだった障子を越えて、部屋に入った時だった。慌ただしい足音が、近づいてきた。
夜になって戻ってみると、タイマは縁側に腰かけたまま「やあ、おかえり」と、言ってわしを出迎えた。それを無視して、障子を開けて中に入ろうとすると、「心の痛みを、知ってほしかったんだ」と、突然そんなことを言った。驚いてふりかえった。
「顎が砕けるところだ」
「それ以上、曲がる骨もないだろう」
「あの打撃差は何だ」
「ちょっと、力の加減ができんかったのは、悪かったと思うよ。京也も驚かせてしまったし」
「答えになっとらん」
タイマはゆるく団扇を動かしながら、前髪をゆらせていた。わしはふん、と鼻を鳴らすと「あの弟を、貴様は溺愛しすぎじゃないのか。天狗のくせに愛だと?ちゃんちゃらおかしくて、へそで茶がわける」
「それだ、八枯れ。俺には良いが、あの子には駄目だ。いけない」
「いけない、って、貴様」
子供を叱るようなタイマの声に脱力し、わしは縁側で前足をおって、座り込んだ。タイマはそれに対して、愉快そうに眼を細め「なんだか、飼い犬のようで、愛着が持てそうだ」などと、気味の悪いことを言った。
本当に嫌な男だと思う。考えているように見えて、まったく考えていないと思えば、考えていないように見えて、考えている。昔からそうだったが、人間に生まれてからと言うもの、わしはこの馬鹿な天狗のことが、もっとわからなくなった。
「俺たちは、簡単には傷がつかない。心身ともにそうだ。それに長生きだろう」
「今さらだな」
「今だからだ。より弱い生き物のことを、考えてやらなくちゃ」
「偽善だな。強いものが弱いものを喰うのは、自然の理だ。わしらは、そういうものじゃ。そんなこと動物だって知っとることじゃないか」
「俺はおかしいか」
「ああ、おかしいな」
はは、と声をもらして笑ったタイマを見上げ、目を細めた。
「うん、おかしいかもしれん。だけど、見てしまったのだから、仕様がない。それを見てしまったら、力の加減ができなかった」
「何の話だ」わしは、訝しそうに眉間に皺をよせた。タイマはそれに笑みを浮かべて、するどい目を細めた。
「京也が、傷ついた顔をした。一瞬だったけどね。とても、とても、悲しそうに顔を歪めたんだよ」
タイマは、白い前髪をかきあげて、空を見上げる。かすかにゆらす、団扇にのって、天狗の風が宙を舞った。人でも、化け物でもないくせに、こいつはわしより、生きることを楽しんでいる。
「あの子は、聡明だ。お前だってよく知ってるだろう」
時折、言葉遊びのように曖昧にしか話さない。その抽象的な内容を、理解してやろうとするほど、わしは親切ではない。だから尻尾を振って鼻息を荒くすると、タイマを睨み上げる。
「まどろっこしいな。はっきりしろ」
「京也はね。俺が、京也が生まれたために、この家を継げないことをわかっているんだ。あの母親の、この家の溺愛ぶりは異常だ。俺の後に、あんな立派な子が生まれたんだ。当然さ」
目を細めて、ちら、とその表情をうかがう。タイマは相変わらず、快活な笑顔を浮かべている。
「知っていたか?坂島恭一郎と言う人物は、まだ戸籍に入っていないんだ。ここのじいさんは、政界の人だからね。それぐらい造作もないことだ。それで京也が生まれ、登録を済ませた。さて困ったものだよ」
わしは怪訝そうに眉をよせた。
「何が問題なのかよくわからん。半分以上、貴様が言っていることは呪文にしか聞こえんぞ」
そう言って真剣なまなざしをやると、タイマは一度、目を大きく見開いてから、盛大に笑いだした。しばらく腹を抱えて、両肩を震わせている。よくわからないが、おそらく馬鹿にされている。
「お前も、少しはこっちのことを勉強したらどうだ。これが、なかなか、面白いんだ。特にいまのこの国は、外来のものと、自国のものが行き来して、混在しはじめていてね。どこに向かって行きゃ良いのか、わからない。わからないが、表ではそれをそれとして出さない。へらへら笑うものでもないが、身軽な様を演じてみせる。だが、その実は重いものだ。矛盾している」
タイマは目尻にたまった涙をぬぐいながら、書棚の方を指さした。その指の先をたどって見ると、赤や、黄の布に巻かれた本がいくつか、並んでいる。一度、じっと眺めてから、鼻を鳴らした。
「くだらん」と、低くうなる。「最近、夜ふかしだったのは、そういうことか。貴様は一応、人間のことを学ばねば振舞えまい。だが、わしは違う。鬼だからな」
「犬に見えるがね。まったく、お前のおかげで、深刻な話しが台無しじゃないか。緊張感のない奴だな」
「貴様にだけは、言われたくないな。なんでもかんでも、楽しむ癖をどうにかしろ。迷惑じゃ」
「生きている限り、迷惑はなくならない。良いことじゃないか」
「無駄なことじゃ」
「無駄が大事なのさ」
「言ってろ」
「だから、京也に木偶だとか、人形だなんて、言っちゃいけないよ。それはこの家じゃ、本当のことなんだから。本当と言うのは大事だが、時として激しく人を傷つけるんだから。厄介なものだ」
タイマの鋭い目をのぞきこみ、首をかしげて眉間に皺をよせた。
「さっぱりわからん」
「勉強しろって」
タイマは、苦笑を浮かべて頬づえをついていたが、それに鼻を鳴らして、尻尾を振った。知ろうとしたところで、どうにかなるものでもなし、なにより種族の違いなど、活字を通して越えられるとは到底、思えない。喰っても、生まれ変わっても、所詮、化け物は化け物でしかない。そこに来て、人間の考えをいくつ紐といたところで、同じことだ。
「さて、そろそろ一杯やろうか」
立ち上がって伸びをすると、愉快そうに笑ってそう言った。わしとタイマが、開け放なしだった障子を越えて、部屋に入った時だった。慌ただしい足音が、近づいてきた。
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