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第二章
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しおりを挟む二
座敷に上がると、茶の匂いがした。
塗の机の下に足をつっこむと、タイマはにこにこと笑っていた。由紀は、目の見えないことが自然なようで、慣れた手つきで茶を淹れ、配っていた。向いに座る東堂が、湯呑を受け取ると同時に、苦笑を浮かべた。
「旦那、そんなにじっと、見てたら穴が開いてまうで」
「なに、穴など、そうそう開くもんじゃないよ。美しい娘さんを見るな、と言うほうが酷な話だ」
「本人の前で、よう言いますね」
「本人以外の前で言って、どうする。それでは、ただの変態だよ」
例の心底わからない、と言う風に東堂の方を向いて、首をかしげた。わしは、黙ってふせてはいたが、聞き慣れない美辞麗句の乱舞に、耐えきれず鼻を鳴らした。後足で張本人の背中を蹴ったが、あまり効果はないようだった。東堂は、頬づえをついて、ため息をついた。
「言い過ぎると、信憑性にかけます、言うてんですよ。男は寡黙なぐらいが、丁度ええですって」
「駄目だな。わかっちゃいないね」
ずずず、と茶をすすると、由紀に向かって「うまいです」と、笑ってみせた。わしは密かに舌打ちをする。こいつ、本当に頭がおかしくなったのではないだろうか。何を、しかも人間の娘にへらへらこびを売っているのか。暇つぶしにしたって、無様な姿だ。由紀は、やわらかく微笑み「そうですか」と、軽く頭を垂れると、立ち上がろうとしたが、タイマが不機嫌そうな声をあげて止めた。
「どこへ行くんです。座ってください」と、微笑を浮かべて上座を指した。それには、東堂も舌を巻いた。由紀もとまどい、中腰のまま「そんな」と、つぶやいたぎり黙りこんだ。盆を片手に、ゆっくりとしゃがみこんだ。勝手気ままな馬鹿天狗は、二人の様子を気にもかけず、平生通り飄々としていた。
「いいから、俺のそばにいてください。お互いをわかりあうために、来たんだから。東堂が帰るんなら、道理だが、あなたが座敷を出たら意味がないじゃないか。それとも、ここは落ち着きませんか?そんなら、あなたの部屋へ行きましょう」と言って、立ち上がろうとした。
それにはさしもの由紀も、強く止めた。眉間に皺をよせて、ぐっと、奥歯をかみしめている。
「からかわないでください。仮にも一家の主が、女の寝室に入るなんて」と、つぶやき、もう一度だまる。タイマは、立ち上がりかけた膝を立てたまま、なぜ?と、笑った。「別に、卑しいことじゃないでしょう。夫婦が同じように居間でくつろいで、それの一体なにが悪いんです」と、言って由紀を見つめた。
「女が男と肩を並べるのは、お嫌でしょう」
「嫌でもない。じゃあ、あなたは男が女のようになるのは嫌ですか?」
「わたしは、わかりません」
「そんなら構わないでしょう」
瞼を閉じたまま、困惑した表情を浮かべてはいたが、きちんと裾を巻き込み、正座をすると、背を伸ばして、まっすぐタイマの方に顔を向けた。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
「こっちへいらっしゃい」
「わたしの良いようにしてください」
由紀は、今度はきっぱり断った。これが最大の譲歩なのだろうが、勝手な天狗にそれはあまり、伝わっていないようだった。そもそも、奥に座るか座らないかで、何をそんなにごちゃごちゃ騒いでいるのか、わしにはさっぱりわからなかった。
東堂は、茶色い角刈りをぽんぽんと、叩きながら「由紀さん、お話していた通り、この人に世間一般で言う常識は通じやしませんから。お気にするだけ、時間がもったいないですよ」と、言って苦笑を浮かべた。
それはまったくその通りだった。常識云々はよくわからんが、タイマの言動にいちいち気をもむのは、時間の無駄だ。水の流れが突然、激しくなったことに不安を覚えるのと、同じことである。
由紀は瞼を閉じたまま、「はあ」と、曖昧に笑った。しかし、先ほどよりも、ひどく穏やかな笑みを浮かべている。それに気を良くしたのか、タイマは東堂の言葉に、おどけたように言った。
「君だって大概、非常識じゃないか」
「僕のことはええのや。それより」と、東堂は足を崩した。「大殿さまのお話しじゃあ、かどわかしなんか、企てたんですってね?さっきまで、その話で盛り上がっとったんですわ」
からかっているつもりなのか、にやにやしながら、タイマのことを見つめた。それに、快活な笑みを返して、裾から団扇を取り出すと、前髪をゆらした。
「そんなことの厳罰で、こんな愛らしい方と結婚できるんだから、なかなか悪者も、捨てたものではなかったね」
「半ば追い出されたようなヤクザがよう言いますね」
「不用者だからこそ言えるのさ。ヴァカボンドと、呼んでくれても構わん」
「漂浪者は、所帯なんか持ちゃあしませんよ。まったくいい加減や」
「つまらないことを気にするなあ。相変わらず生真面目な男だ」
タイマは、ああ、そうだ。と、言って由紀の方を見て、にこにこと笑った。わしは、薄眼でそのやりとりを眺めながら、なにやら心臓が重たくなる感覚を覚えた。否、タイマが人に好意をよせるたび、わしはどうにもならない、怒りだか苛立ちだか、そのようなものを内に抱え込んだ。
「由紀さん。この大きな黒犬は、友人なのです。八枯れと言います」
驚いて、その言葉に目を開けると、タイマはわしの方を見ながら、薄く笑んでいた。ふん、と鼻を鳴らして、尻尾を一度、ぱたり、と動かした。気を使ったつもりなのだろうが、大きな世話である。
由紀は、おだやかに笑んで、「八枯れは、どうしてしゃべらないのですか?」と、言った。一瞬、何を言われたのか、理解できなかった。わしは驚き、勢いよく起き上がると、その青白い顔を凝視した。しかし、由紀は瞼を閉じたまま、静かな笑みを浮かべているだけだった。やはり、微動だにしない。タイマも動じることなく、団扇で前髪をゆらして、笑っているだけだった。
「一応、気を使っているのです」
「なぜ」
「そりゃあ、突然、犬がしゃべったら、驚きますからね。これでなかなか気のつく、良い奴なのです」
小首をかしげ「そうですか」と、笑った由紀に、わしは今度こそ目を丸くした。起き上がったまま、呆然としていると、タイマはそれを片手で留めて「うん」と、つぶやいた。しばらく黙りこんで、虚空を見据えていた。そうして東堂と由紀を交互に見つめて、にっこりと笑う。わしだけ、状況が飲み込めず、困惑していた。
「こりゃあ、すごいね。はじめて会った」
「何がです?」と言って、東堂は微笑を浮かべている。
「何がって、由紀さんは予知か何かやるんだろう?でなくちゃ、八枯れのことなんか、わかりゃしないよ」
「そこからどうして予知って発想にいくんですか」
「君は大概、頭は良いが馬鹿だね。八枯れが話すことを知っているのは、俺だけだ。それを知っている人間が目の前にいるなら、何らかの能力を疑うのは道理だ」
タイマの言葉に、東堂は灰色の目を細め「無茶苦茶な人や」と、つぶやいた。由紀を見ると、タイマの言葉にうなずいて、「夢で、断片的に見えるだけなので、はっきりとはわかりません。でも東堂さんからも少しは聞いていたので、おおよそのことは」と、やわらかく微笑んだ。
「なんだ、君も人が悪いね。知っていたのか」
「知りゃしませんよ。僕が話していたのは、旦那が普通じゃないってことだけです。由紀さんが、どんな夢を見たかなんて知りませんよって。予知者と当てたのは旦那でしょう」
タイマは眉間に皺をよせて、ううんそうか、とうなずいていた。この時になって、はじめてこの女にやさしくした訳も、好きだと、言った意味も、わかったような気がした。思い到った瞬間、人間の忌々しさや、醜悪さに当たって目眩を覚える。
坂島のじじい同様、金持ちの陰謀がここにもある。無用な物を合わせ置いて、遠くに追いやり、しかし家名だけは守り、土地と名だけを広げるつもりだろう。女の親も、坂島の後ろ盾を得て、体裁も守れ、かつ邪魔者を片づけられる。互いに、金や権力のやりとりをし、見たくないものを隠し、蓋をし、無かったことにする。
薄汚い、じじいどもの体臭が、あの暗い廊下を伝ってこの家の中にまで、迫ってきているようだった。あの時タイマが静かに笑んだ背後で、焼きついて見えた座敷のだいだいの灯が、未だまとわりついて離れない。どこに行っても、不可視にすぎない扱いを受ける。そんなら、こいつらはいったい何なのだ。髪が白く、目が見えないと、人ではないのか?人と違う能力があると、化け物か?馬鹿を言え。わしはそうだが、こいつらは人の形をしてるじゃないか。なぜ、それだけでは駄目なのだ。
わしは舌打ちをして、くるりと踵を返すと、縁側から庭に降りた。気づいたタイマが、わしを呼びとめたが、それを無視して東堂の方を見つめた。ついに、口を訊いた。
「貴様に、聞きたいことがある」
そう言って、顎で外に出てくるよう示すと、東堂はくちびるを曲げて、笑みを浮かべた。思った通り、喰えない男である。
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