天地伝(てんちでん)

当麻あい

文字の大きさ
上 下
17 / 53
第二章

2-5

しおりを挟む

    五

 由紀と出会ってから、五年後の一八八五年一月某日。坂島恭一郎は、二十歳を迎えると共に、旧姓、嶋田改め坂島由紀と結婚した。
由紀はこの時、十六を迎えるところだったと聞いた時、タイマもわしも、しばらく絶句した。出会った当初が、まだ十になったばかりだと言うのだから、女は恐ろしいものだと、思う。同時に、そのような子供が、あれだけの作法を振るまえたと、言うことに、由紀のそれまでの生活は想像に絶すると、タイマは嘆いていたが、知ったことではない。
最初の会見以来、頻繁に屋敷の方へ通っていたうえ、結婚をする三年前からすでに共に暮らしていたのだが、タイマはそのことを、じじい共に報告することもなかった。
もちろん、と言っては妙だが、結婚の儀式は行われず、入籍だけで済ませた簡易なものだったが、タイマも由紀も、そうしたことには、頓着していないようだった。
むしろ、東堂だの、京也だの、周りのほうが、そのことに関しては不満を垂れていたが、例の如くタイマの快活な笑いに丸めこまれた。由紀も、タイマと一緒になることを、大げさにしたくないようで、このままで良い、と頻りに訴えていたことも、あったのだろう。
わしはあまり、由紀を好いてはいなかったが、由紀はよく、縁側で眠っていたわしのそばで、ぼそぼそとタイマのことや、自分のことや、わしのことや、ともかくいろいろのことについて、話したがった。穏やかなだけではない、芯の通った、しっかりとした意見を持つ娘だった。そのうえ、タイマとは、また少しちがった風に、変だった。否、妙だった。
いつかはあまり記憶していないが、タイマが席を外していた時だ。縁側で横になって、ぼんやりしていると、いつの間にか、由紀がそばに座っていた。縫物をしながら、「自然なのが、好きなんです」と、例の透明な声でおだやかにつぶやいた。わしは瞼を閉じたまま、犬のように鳴いた。
由紀はそれに、ふふ、と声をもらして笑うと、「かまとと」とつぶやいて、尻尾に触れてきた。ムッとして、尾を振ると「触るな」と、低くつぶやいた。
「言葉を忘れてしまったのかと思いました」
「黙れ。話したくない」
「そうですか。でも、私は八枯れとお話しするの、好きですよ」
「気安く呼ぶな。喰い殺すぞ」
「できないのに?」
 わしは荒々しく起き上がると、目を細めて由紀を睨む。牙をのぞかせて、「試してやろうか?」と、言った。しかし、由紀は相変わらず、にっこりと微笑んでいる。震えも、おびえもせずに、縫物の手を止めなかった。調子の狂う娘である。
 「わかっているのですね。私を傷つけたら、きっと許されないって」
 「何だと?」
怪訝な表情をして、由紀の透明な微笑を見つめる。わしと話す時だけ、閉じていた瞼を開き、どことも焦点のつかない眼で、まっすぐに見つめてくる。その双眸につかまると、なぜだろうか、何も言えなくなる。それが忌々しくて、わしはこの女が、苦手だった。
 「いくら優しくて、大らかな恭一郎さんでも、きっと、許さない。そう思うから、私のことを嫌うのに、手を出せないのでしょう」
 「馬鹿を言うな。わしは恐くなどない」
 「そうでしょうね。でも、恐いからやらない訳じゃあ、ないのでしょう」
 わしは眉間に皺をよせて、ぐう、とうなった。由紀の言っていることは、だいたいが、呪文よりも難しいのだ。わしのそんな様子を感じ、愉快そうに笑った。
 「それを自然のことのように振舞う八枯れが、とても好きですよ」
 「いい加減にしろ。勝手なことをぺらぺらと」
低くうなって、由紀の顔を見上げた。焦点のはっきりしない眼で、わしを見つめながら、その白い頬にえくぼを刻み、おだやかに笑んだ。
「見える、と言うことがすべてのようですが、私はそうじゃありません」
「何を言っているんだ」
「私にとって、八枯れは耳だったり、尻尾だったりするんですよ。だから、触るんです」
「なんだと?」
 由紀は、ふふ、と声を上げて笑った。
「でも、どうしてかしら。先のことばかり、視えてしまう。望んでいるのは、いまここなのに」
 わしは、眉間に皺をよせて、ああ、予知夢のことか、と思い至り、しばらく黙りこむ。タイマが言うには、はっきりとした未来が見える訳ではないが、中心点のようなものが、勝手に入り込んでくるのだそうだ。あいつは、説明があまりうまくないから、何分、要領を得ない。
 わしは、鼻を鳴らして「不満があるのか?」と、聞いた。由紀はしばらく、考えこみ、ふふ、と小さく笑った。よくわからない女である。
 「八枯れは、先のことを知れたら、どうします?」
 「どうもせん。どうせ、体験しとらんのだ。それは、知らぬことと同じだろう。当たることが多いからと言って、真実とは限るまい」
 「でも、だからって、それを黙って見ているのは、それこそ、良心と言うものが、痛みます」
苦笑を浮かべた由紀を見つめ、鼻で笑った。良心?笑わせてくれる。
「わかっているからと言って、何が変わる?人にできることなど、高が知れているんだ。分と言うものがある。他人のことを憂うより、自分の心配をしていたほうが、よっぽど迷惑じゃない。綺麗ごとは恭一郎だけにしてくれ」
「あら、ひどい」
「できる奴にできることは、任せたら良いと言っているんだ。馬鹿め」
 厭味たらしく言ったつもりだったが、由紀は何がおかしかったのか、盛大に吹きだして、笑いはじめた。
「やっぱり、八枯れは良いですね」と、言って口元を押さえて、しばらく愉快そうに笑い続けていた。やはり、よくわからない女である。
わしが気味悪そうにその様子を眺めていると、玄関の方からタイマの帰宅を告げる声が、聞こえてくる。由紀は笑い過ぎて溜まった、目尻の涙をぬぐいながら元気よく「はあい」と、応えて迎えに行った。その足音が遠ざかるのを聞きながら、縁側でやれやれと横になった。
 しかし、その平穏も長くは続かない。騒がしく駆けて来たタイマの足音に、眉間の皺をよせながら、「やかましい、阿呆天狗」とうなり、振り返った。タイマは深い緑色の着物を着つけ、快活な笑みを浮かべ、白髪をゆらした。手には黒い帽子を持って、それを机の上に投げると、わしの隣に腰かけた。
 「きちんと、二人でお留守番していたんだな。えらい」
 タイマは本気なのか、冗談なのか、どちらともつかないことを言って、わしの頭をなでた。先ほどのことも重なり、苛立っていたわしは、頭を振ってそれを払い落すが、気にもせず快活に笑っていた。
しおりを挟む

処理中です...