天地伝(てんちでん)

当麻あい

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第二章

2-16

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    十六


 「もう少しですよって。我慢してください」
 「何を言っているんだ、貴様は」
 こんな時でさえも、飄々とした態度を崩さない東堂に、苛立ちは募ってゆく。低くうなり、体をばたつかせるが、案外と奴の押さえる腕の力は強い。わしの頭を押さえて、ため息をついた。
 「冷静になりや。下手なことしたら、君もやられてまう。僕は凡夫やさかい、君がつかまってもすぐには助けられんよって」
 「ふざけるなよ」
 東堂の手を振り払い、毛を逆立ててうなった。
 「良いか。何を勘違いしているのか知らんが、わしは鬼じゃ。いくら人間が束になろうと、本物の化け物の前では赤子も同然ぞ。ましてあんな屑ども、わしの体にすら、触れることはできまい」
 「せやから冷静になりや、言うとんのや。あの狸には気の毒やけど、しばらく我慢してもらいます。あれもあれでずいぶんなことしてきたんや、ちょっとくらいは仕様ないわ」
 「何だと?」眉間に皺をよせ牙を見せると、東堂は灰色の双眸を細め、鳥居のほうを親指でさした。
「死体の山を見たやろ。あいつは人間も喰うとんのや。あれはもう、ただの狸やない。化け物や。僕かて依頼者には駆除を頼まれとんのや。でも、殺生が趣味な訳やない。依頼者には交渉しますさかい。あの狸にとっても、悪いようにはせんつもりや」
 わしは激昂し、立ち上がった。
 「貴様に心はないのか!」
 自分でも、信じられないことを言った気がした。つい、口をついて出てしまったのだ。当惑しながらも、眉根をよせて東堂を睨みつける。
「良いか。それじゃ恭一郎の義に反するんだ」と、つぶやいた。しばらくの沈黙のあと、伐が悪くなり甍の上から飛び降りた。最後まで東堂は無言だった。
 木々の上に移動すると、息を吐きだした。黄色い酸の煙は、ゆるやかに、この辺りいったいをおおい隠してゆく。木々に止まっていた鳥も、藪の中に隠れていた他の獣も、酸の匂いにあてられ、地に伏した。毛や羽根が、じょじょに溶けてゆく。腐臭もたちこめる。
男たちは、まだ辺りの様子の変化に気がついていないようだった。わしは、男の一人が手にしていた松明の火を、吹き消した。「なんだ?」明かりが消え、視覚を闇がおおう。聴くことも、嗅ぐことも、触れることも叶わない、感覚の消えた暗闇の中へ、ひきずりこむ。
 ここでは、何かを感じることは許されない。痛みさえも消えさる、至福の時間だ。生死の境界を曖昧にして、死の世界へと誘う。この瞬間に死ねる人間を、わしは幸いな奴らだと思う。
 一人の男は、狸の上からどいて立ち上がると、辺りを見回していた。わしは闇に乗じて跳躍すると、腕を食いちぎった。一瞬、何が起こったのか理解できていないのか、どっと、流れ落ちた何かに顔を歪めて、腕をおさえていた。
 「うでが」と、言う短い悲鳴と共に、そばに立っていた男の耳を食いちぎる。カマイタチのように飛びまわりながら、生のまま食い千切っていった。腕、足、耳、鼻、口、目、最後に首を噛み切り、絶命させた。う、あ、お、う、と言う数々の短い悲鳴は、まるで歌っているようだった。松明を持っていた男だけを残し、先に狸を痛めつけていた男の体を解体し、引き裂き、咀嚼し、喰い殺した。
 久しぶりに味わった生きた肉は、張りがあり、爛熟して、実に美味だった。腐肉を食うと、途端、生きた肉が食いたくなる。それはいまも昔も変わっていない。
 「なぜわしに喰われるか、わかるな?」
 両足の千切れた男の前で、ようやく立ち止まると低くうなった。圧倒的な力、攻略不可能な怒り、貫くべき意志ゆえの行為。それがいま、わしを本物の鬼へと変えている。ちらと甍の上を見上げたが、もうそこに東堂の姿はない。
男は火の消えた松明を地面に転がして「助けてくれ、勘弁してくれ」と、弱弱しくうめいていた。果たして、こんな虫けらのような状態になってなお、生きたいと思うものだろうか。
 タイマは阿呆だから、こんな連中にさえも情けをかけるのだろう。だが、それは優しさではない。わしは同情さえもしない。牙を見せると、男の顔をのぞきこんで目を細め笑った。
 「そうか。最後はひと思いに殺してやろうと思ったが、それでは貴様もつまらぬか。そんならいますぐこの闇の空間から、出してやろう。外は痛いぞ。激痛が貴様を蝕み、意識を途切れさせ、死に至らしめるまでゆるやかに、生の最後を味わうが良い」
 男の双眸は絶望した。そして、恐怖と悔恨の念に包まれ、表情を歪ませる。瞳の奥から、光が消える。こいつはいま死んだ。心の炎が消えたのだ。わしは口元を歪め、舌を打った。思い通りにしたはずなのに、ぬぐえない何か濁ったものが残った。胸の中央を闇が侵食してゆく。こんなところにタイマと同じ、志があるのだろうか。否、あるのは目の前の男たちと同じ、暴力を快楽とする下卑た魂だけだ。
 だからと言って許すことはできなかった。絶対的な強者とは、必ずしも貴様らではない。人間すべてにそう言ってやりたかった。強いものが弱いものを喰う。それはまったくその通りだからだ。これで良い。貴様らはいつまでも闇を恐れていろ。化け物を、鬼を、わしを恐れ、そうして最後の瞬間に、絶望するんだ。
 ふん、と鼻を鳴らし、わしは横たわっていた狸を口にくわえ、高く跳躍した。社の甍を超え、鳥居を抜けるころ、男の悲痛な叫び声が、夜のしじまを微かにゆらした。

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