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第三章
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一
由紀が、登紀子を生んだ夜のことはいまでもよく覚えている。
月のない夜だ。その日はやけに、空が荒れていた。すでに秋支度を済ませた枯れ木を、右へ左へとゆさぶり、横倒しにするのではないかと思うほどの強い風が、激しく戸を叩いていた。
座敷の奥で産婆を迎え、いまかいまかと赤ん坊の誕生を待ち望んでいる時だった。わしはいつものとおり縁側で丸くなり、厚い雲に覆われた空を見上げていた。
「八枯れ」
わしの名を呼んだタイマの声に振り向くと、なんと猪口などを持って、立っていた。心底からその姿に呆れ、ため息をついた。由紀はこの男で、本当に良かったのだろうか。こんな時、しばしばそのようなことを思う。
「やあ、めでたい。ついに生まれる」
そう言って、隣に腰かけたタイマは、白い猪口を置いて、酒をそそいだ。米の醗酵された香りに目を細め、快活に笑っている。わしはそれに舌先をつけて、すすると鼻を鳴らした。
「いい加減で節度を持て。少しは、自分の妻を心配したらどうだ」
出し抜けに説教などするなよ、と言ってタイマは猪口を傾けた。
「なに、男なんかあそこに居たって、なんの役にも立たんよ。そんなら、はらはらして待っているより、こうして酒でも飲んでいる方が、由紀も、登紀子も安心だろう」
「もう名前を決めているのか」わしは、驚いて目を見開いた。「しかし、女子とは限らんだろう」
「わかるさ。だって、俺は一度、あの赤ん坊をこの腕に抱いたことがあるのだから」
平然と言ったタイマの言葉は、強い風の音に乗って、はっきりとわしの耳の鼓膜を震わせた。
「なんだと?」
目を丸くして、タイマの横顔をじっと見つめる。白い顔が、闇の中でぼお、と浮かんでいる。うれしそうに細められた双眸は、あの頃と変わらずに鋭いものだった。
「由紀とはじめて会った時から、俺はこの日を、待ち望んでいたような気がする。否、それこそ、もっと前からだろうか。いまさら、慌てるなんてことはしないさ。心底から嬉しいんだから」
タイマの横顔を眺めながら、双眸を細めた。「貴様、まさか」と言いかけた時、けたたましい、赤ん坊の泣き声が、屋敷中に響き渡った。弾けたようなその鳴き声に、わしは言葉を無くして、顔を上げた。
「生まれたんだ!」
タイマは破顔して、わしと目をあわせると、猪口などを放って駆けだして行った。その後ろ姿を見送りながら、ため息をつく。慌てないと言った矢先にこれじゃあ、世話ないな。のろのろと立ち上がると、すぐに後を追いかけた。
座敷の奥では、白い着流しを羽織ったまま、由紀が生まれたばかりの赤ん坊を、布にくるんで胸に抱いていた。産湯も済ませた後なのだろうか、赤ん坊は落ち着いているようだった。由紀は心なしか、ほんの少し頬がこけているように見えた。明かない瞼を閉じたまま、微笑を浮かべ、タイマの方に顔を向けた。
「女の子です」
そう言った由紀の頭をそっと撫で、タイマは「うん、そうだね」と言って笑った。気のせいだろうか。その横顔も、若干青白く見える。ろうそくの明かりが、頼りないせいだろうか。わしは座敷には上がらず、廊下でしゃがみこんだ。
「お抱きになってください。八枯れにも見せてやって」
由紀は笑みを崩さずに赤ん坊を、そっと渡した。タイマは、慣れない手つきで、布にくるまれた赤ん坊を抱くと、ゆっくりと立ち上がり、わしのほうへ近づいてきた。
「八枯れ、この子が登紀子だ。先々はお前が、守るんだぜ」
そう言って、目の前にしゃがみこんできたタイマは、鼻先に赤ん坊をつきつけてきた。驚いて、目を見開いたが、すぐに鼻を鳴らして「何を言うかと思えば、ふざけたことを」とつぶやき、赤ん坊の顔をのぞきこんだ。黒い双眸がわしの顔をとらえ、かがやいていた。何も知らない無垢な瞳の奥で、不機嫌そうな犬の顔が二つ、浮かんでいた。
赤ん坊は笑っていた。鼻筋が通り、色のないくちびるが、うっすらと開いている。そこからは、乳の香りがした。面だちは、由紀に似ていたが、言いようの知れない妙な雰囲気は、まさしくタイマの血筋に他ならない。だが、それだけではない、曖昧な既視感を抱いた。しかし、それを振り払うように首を振ると、牙をのぞかせて笑う。
「化け物が増えたな」
「失礼な奴だ」と、眉間に皺をよせたタイマに、頭を小突かれた。わしは首をすくめて見せたが、本当のことだろう、とくちびるをとがらせた。
こうして、一九○二年十一月、坂島恭一郎と由紀の間に、はじめての子供が生まれた。名を、登紀子と言う。
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