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第三章
3-16
しおりを挟む十六
「これは、まだ開けていないの。直接、八枯れに渡そうと思ったから」
そう言って、手渡してきたのは、白い封筒だった。わしは、怪訝な表情を浮かべて「何じゃ」と、力なくつぶやいた。
「お父さんから、あずかっていた手紙よ。文字くらい、読めるでしょう」
「ああ、そうか」
封筒を口にくわえて、畳の上に置いた。なぜか、いまはそれを読む気になれないでいた。否、手紙など開いてしまったら、本当に最後になってしまうような気がするからだ。
「どうして、私を呼ばなかったの?」
登紀子は部屋の襖を閉めると同時に、そんなことを口にした。わしは、眉間に皺をよせ、「そんな暇はなかった」と、つぶやいた。登紀子は、座卓の前にしゃがみこむと、震えを押し殺すように肩を抱く。
「馬鹿ね。あんたは馬鹿だよ。こんなこと、平気でいられる訳ないじゃない」
「そうでもない」
「本当にどうしようもないわ。あんたも、お父さんも」
「わかっている」
登紀子の双眸は、重たい怒りを内に秘め、かすかに燃えているようだった。しかし、何にそんな憤懣を抱いているのか、わからない。耳の後をかきながら、苦笑を浮かべた。
「わからぬことも、増えただけじゃ」
「どうして?」
「わしの記憶を見たのだろう?」
「それとこれとは別よ」
じっと、見据えてくる黒い双眸を眺める。
「生物は死んだら、二度と会えぬ。どこに行こうと、どこにいようとな。残りの生は、坂島恭一郎のものじゃ」
「どうして?」
「何がじゃ」
微かに開けた障子の隙間から、つめたい風が吹きこむ。それは、赤茶色の前髪をゆらし、わしの尻尾をなでて、廊下へと消えて行った。登紀子はうすいくちびるを開いて、声を震わせている。
「どうして、そこまでして私を守るのよ。そんなこと、して欲しくなんか、なかったわ。ちゃんと生きてほしかった。置いて行かれたら、どうすればいいのよ。あんたも、私も」
見ると、登紀子は苦しそうに表情を歪めていた。八の字に下がった眉の下で、黒い瞳が瞬いた。はらはら、と雫が落ちる。その透明さのなかには、タイマの快活な笑みが浮かんでいる。わしは目を細め、小さく鼻を鳴らした。
馬鹿なやつだ。「登紀子を守れ」と、言った本人が一番に娘を泣かしているのだから。面ざしを、雰囲気を、匂いを、天狗のまとう風を残したまま、どうしてお前はここにいないんだ。馬鹿め。
「人の心って何かわかるか?……そういう、ふざけたことを真顔で言う男じゃ。わしにもわからん」
自嘲した笑みを浮かべながら、うつむいた。それと同時に、畳の上に置いていた白い封筒に、黒い染みができた。ぼたぼたと落ちる雫が、封筒をまだらに染め、濡らしてゆく。おかしなこともあるものだ。
「タイマがお前の生を望んだ。だからわしは、この先ずっとお前のそばにいる。あいつは生きることを大切に想っていた。それだけは本当だ」
「八枯れ、」
「あいつを責め抜いたのは、他の誰でもない。わしだ。お前にまで追いつめられたら、それこそあいつは、どこにも行けなくなる」
「もういいよ、八枯れ」
そう言った、登紀子の声は震えていた。顔を上げて見ると、なぜか表情がにじんで、歪んでいた。視界がぼやけているのか。まだ脳が混乱し、ゆれているのだろうか。そんな馬鹿な話があるのか。
「化け物のくせにな。あいつは心を、持っていたんだ。狂気の沙汰だ。だが、あいつはそれに、最後まで気づけなかった。それだけが惜しい」
「もういいよ、もういい」
「もう人だと言って良いんだ。あいつは」
「わかったよ。ごめん、ごめん八枯れ、ごめんね」
何が、もういいんだ。わしが眉をしかめて見せると、登紀子はぼろぼろと、次から次へと涙をこぼす。ぐしゃぐしゃに濡れた頬で、わしの体にしがみついてきた。顔をうずめて、すすりあげながら、わんわん泣いた。ぎゅうぎゅうと、しめつけてくる力の強さに、少し咳こんだ。虚勢を張っていても、やはりまだ小娘だな。そう思い、苦笑を浮かべた。
「私が、みんなを守ってあげるから。だから大丈夫よ」
登紀子は泣いて赤くなった鼻をこすりながら、顔を上げると、はっきり言った。それを見てわしはたまらず、吹き出した。
「馬鹿め。守るのは、わしの役目だろう」
最強の鬼だからな。牙を見せると、登紀子はようやく泣きやんだ。
「その前に、顔をふいて」と言って、わしの鼻先に自分の着物の裾を、おしつけてきた。何を言っているんだ、とその腕をどかそうとしたが「最強の鬼は、泣いてちゃ駄目よ」と言われ一瞬、体が動かなくなった。
なるほど、わしは泣いていたのか。だから、視界がぼやけているのだ。そのことに、ようやく気がついた。目尻をこすりながら、「鬼が泣く訳ないだろう、馬鹿め」と、虚勢を張った。
「なに笑ってるのよ」
苦笑した登紀子に向かって、「さあな」と、会心の笑みを浮かべる。生意気ねと言って、わしの鼻をこすりはじめたので、首を振って難を逃れる。見下げた先で乾いた封筒がこちらをじっと、見つめているようだった。
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