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第四章
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登紀子の努力の甲斐もむなしく、ついに、一九二三年八月三十一日の夜を迎えた。
その日は、やけに湿度が高く、空は重たくたれこめているようだった。風が出て来たのか、烈風がことごとく吹きあたり、古い門がぶつかりあっては、がんがん、とうるさく鳴いていた。わしは縁側で丸くなったまま、ぴりぴりと、鬚に浸透するしびれを感じて、目を開けた。
「来たな」
小さくつぶやき、起き上がって伸びをする。縁側から高く跳躍すると、家垣を飛び越えた。風を眼前に受けながら、闇の中を走る。こう、風が強いと匂いをたどるのも難儀だ。そう思いながら、舌打ちをして、強力な熱エネルギーを発する大地をめざす。
おそらく、明日にでも大きな振動となって、この地域一帯を襲うのだろう。下層から伝わってくる微弱な震動は、いまにも地盤を左右に揺らしはじめそうだった。
もちろん、登紀子は連れて来ていない。ここ連日の地盤探索の疲れが出てもいたし、なにより、これ以上深夜の徘徊を続けると、人間どもにますます疑いをかけられる。わしは化け物だから良いが、あいつは違う。群れの中で生きなければならず、傷つければ、すぐに死へと向かう。弱い、人の子なのだ。
「ずいぶん丸くなったものだな」
一人つぶやきながら、苦笑を浮かべた。まさか、巻き込まれているはずのわしが、登紀子を巻き込みたくないと、考えるようになるとは思ってもみなかった。白い両翼が、瞼の裏に焼きついて、離れない。まるでそれが、守り神のように、わしを見下ろす天狗の快活な笑みのように、魂を縛りつけて、同時に解放する。鬼を弱くしたのは、いったい何だったのか。
「まったく、面倒なことだ」
黒い渦のように、よせては返している大きな波を見据えて、牙を見せた。両耳の鼓膜を激しくゆさぶるように、打っては砕ける飛沫の音に乗って、海底の地盤がかすかに高い悲鳴をあげていた。今回は特に、地盤が深く落ちそうだ。そう思い、舌打ちをすると、邪魔な犬の肉体を脱いだ。
「私は邪魔なの?」
突然声をかけられ、ハッとした。わしは嫌な予感に顔を歪めながら、ゆっくりと振り返った。闇の中で赤茶色の長髪が、風になびいている。登紀子は不機嫌そうに表情を歪めて、腰に手をあてると、わしを睨みつけてきた。それにため息をついて、三つ目の一つをこりこりとかいた。
「なぜ、ここに居る」
重苦しいわしの声に対して、登紀子は両眼をつりあげ、口角を持ち上げた。
「不用心ね。私が追っていることくらい、とっくに気がついていると思ったのに」皮肉を言いながら、草履を引きずって近づいてくる。ごうごう、と打つ波の音に混ざって、その足音は聞こえない。
「相変わらずなのね、あんた」
登紀子は怒りを抑えた声で、つぶやいた。左手に持っていた、タイマの団扇を軽く仰ぎ、微かな風を起こした。それに腕を組んで、眉間に皺をよせた。
「何をそんなに怒ることがある」
「わからないの?」
「わかるはずがないだろう」
「あんたも、お父さんと同じよ」
「化け物だからな」
「いいの?もうあんた、戻れないわよ」
叫んだ登紀子の方が、苦しげに眉根をよせていた。わしは、それに苦笑を浮かべて「わしには、肉体への執着などない」と、つぶやいた。強風を受けて逆立った、黒い犬の毛の間から、白い肌がのぞいていた。ずず、と動く亡骸は、いまにも崖の下へと落ちそうだった。こんなものが、さっきまでは「わし」だったのだから、生物とは不思議なものだ。
悠長に構えて微笑を落とした。崖の先へと歩き出す。踏む土の感触はもうない。受ける風のつめたさも、温かさも、感じない。聞こえる登紀子の声は、悲痛な響きをしているが、それを受け取る鼓膜など、もうないのだ。
だからこそ、わしはこの深い闇の底へと、降りて行ける。登紀子も、恭一郎も行けないところへ、何よりも大地のそばで、その脈動を聴き、応えることができる。
「ずっとそばにいるって言ったじゃない」
「ああ、言った」
「八枯れ!」
「信じろ」
登紀子は団扇を放りだして、いまにも落ちそうになっていた犬の亡骸に、しがみついた。それを横目に「わしは簡単には死なん。早く東堂の店に行け。もうあまり時間がない」と、言って牙を見せた。返事を聞く前に、大きく跳躍すると、激しく打ちつけてくる波の中へと、飛びこんだ。
まっくらな闇のなかを、下へ下へと沈んでゆく。こんな時ばかりは肉体がないほうが便利で良いな、と苦笑を浮かべた。
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