天地伝(てんちでん)

当麻あい

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第四章

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    四



 闇の谷が、なぜ怖かったのか。簡単な話だ。暗いからだ。そして、臭い。だが、わしは死肉を喰って生きながらえた。暗くて臭い場所で、臭いものを喰って、生きてきた。
 そんなら怖いものなどないはずだ。だから何度も口にする。
 「最強の鬼。最強の鬼じゃ」その通りだ。わしは最強じゃ。それを疑うものがどこにいる?わし自身でさえ、疑う余地のない事実をまとっていてなお、なぜ人はそんなにも不安そうに、わしを見るのだろう。
生に限りがあるからか?すぐに傷がつくからか?死なない生物などいないが、わしはもう生と死の間を生き抜いたのだ。どれほど、姿形が醜悪であろうと、鬼を捕まえることなど、もはや死にもできまい。
 海底を目指し、沈むたび、暗い波音が遠ざかってゆく。灯台の火は、もう届くまい。宇宙を見たことはないが、おそらく、こんなものではないのだろうか。息もできず、目も効かず、自分がどこにいるのかもわからないほどの、闇だ。しかし、とわしは苦笑を浮かべた。
 どこにいるのかわからないほどの闇など、人はいつも胸に持って、宿しているではないか。それなら、あいつらだって最強じゃないか。何をいまさら、恐ろしがる必要があるのだろうか。それをタイマは「心」と言うが、わしにもあいつにも「闇」はある。心とは、闇だ。
 「怖がるのは、闇ではなく、光が射すことなんじゃないの?」
 夢魔の一つが、気やすく思考に割って入って来た。細長い影が、わしの体にまとわりついて離れない。腕のようにしがみつき、背や腹を引っかいてくる。深海に棲む、こいつもわしと同じ、ただの魔物か。
 「光のまぶしさに耐えきれん雑魚が、ほざくな」
 「違うね。失うことが怖いからさ。黒はすべてを飲み込むだけだ。失うものなどない」
 「常套句じゃな。あまり響かん。泣かせてみろ」
 「あんた生意気だね。頭にくるね」
 「ほう、知らなかったな。貴様に頭があるのか」
 腕はわしの腰にしがみつくと、締め上げてきた。肉体を捨てても、魔だけはどうにもならない。一番、生に貪欲な奴らなのかもしれん。侮蔑の視線を投げると、腕はますます怒りだす。
 四方八方に黒い影を飛散させ、わしの顔、首、胸、腰、足を、拘束しようと締めつけてくる。だが、さほど痛くもないので、好きにさせて、さらに海底を目指した。腕は相手にされなかったことが、よほど気に喰わないのか、次は意識に響いてくるほどの、甲高い声でわめきはじめた。
 「あんたって、不敵だね。ばっかみたい」
 「罵倒が賢いとは、思えんがな」
 「人間なんかのために走るなんてさ、格好悪い。英雄気取りかよ」
 「英雄などと言う言葉がわかるのか。向上心があるのか?いずれ、登れるぞ。天に」
 「助けようとなんてするなよ。落ちつかないって。みんな言ってる。あんたが余計なことをすればするほど、境界が危うくなるんだ」
 境界?そんなもの、はじめからあるものか。わしらは現に、動きまわっている。「生」とは、止まらないものを言う。あらゆるものは、止まることなど無い。そこに時間と空間がある限り、どんなものでも枯れてゆくんだ。
 顔を覆った腕の影に歯を見せて、笑った。
 「気が向いたら、伝えておいてくれ」
 「何だよ」
 「放っとけって」
 「馬鹿にしやがって、知らねえぞ」
 「まるでねこじゃらしだな。遊んでくれるのはありがたいが、いまは忙しい」と言ってのど奥を鳴らすと、腕は体中をかけめぐる。だが、ついに途中で、からかうのを諦めてはがれると、尻尾のようにうねりながら、泳ぎ去ってゆく。巻く尾も隠す尻もないのだ。
 闇の向こうへと消えかけた影を眺めながら「みんなに、よろしくな」と、声を上げて笑った。
 そうして、しばらく降下してゆくと、陥没しそうな海底の岩の上に降り立った。足裏からでも伝わる熱源の脈動は、すぐにでも爆発しそうだ。
 こいつも生の一つじゃ。わしはにやつきながら、足裏をかいた。時間のないところを降りて来たのだ。今が朝か夜かさえもわからない。だが、大地の熱具合から見て、破裂も間もなく、と言うところか。
 「さて、どの程度あがけるか」
 わしは、その場にしゃがみこむと、両手で土をなで、耳をあてた。マグマの流れは、出口を求めて、いまにも噴出しそうだ。まるで、壊れかけの船の下にくっついた時限爆弾のようだ。三つの眼を閉じて、血脈の流れと振動を、海底の大地の熱源と振幅とは、逆の周波を送り出す。タイマが登紀子へ、生命エネルギーを渡したように、わしの残りのエネルギーを注ぎ込むのだ。
 脳を直接ゆらすような轟音と共に大地が動き出す。だが、半分程度の共振で大地はついに崩れ果てた。砂煙を上げて、わしを巻き込むように陥没した。岩の合間から闇の宙空を見上げて、苦笑を浮かべる。やはり、すべての揺れを抑えるには、少し時間が足りなかったようだ。心臓をゆさぶるほどの轟音に、これだけ深く地盤が落ちたのだ。おそらく、地上は大きく揺れたことだろう。
 「まるで、船底を直しそこなった大工じゃ」
 腹に手を置いて、ため息をついた。問題は、一日かけて降りてきた、海をまた上がらなければならないことだった。それがなにより、億劫だった。


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