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第四章
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恭一郎がいなくなったと、聞いた時、そんな瞬間はもうとっくに過ぎた。そう思った。あれは、いまも確かに生きている。生きているのに。白髪をかきあげて、快活に笑い、「八枯れ」と呼ぶ、恭一郎のその声に、振り返る訳にはいかない。では、生きているのか?と、問われてわしはおそらく、うなずくことができないのだ。タイマは死んだ。生あるものは、必ず死ぬ。
だが、なぜ恭一郎は姿を消したのか。そこに一縷の希望を抱いたのも確かだ。姿がないことが重要だった。化け物は、闇にまぎれる。この破壊の波の中で、タイマはもう一度、化け物として姿を現すのではないか。なぜだろう。いったい、何を待っているのか?
細かな風が、じょじょに砂塵を崩していった。ザアザアザア、意識のない狸の頬をなでる。天狗の風は激しさを増してゆく。ゴオゴオゴオと渦をつくり、砂塵を巻き上げ、黄色い埃が宙を舞い、木々の向こうへと飛ばされていった。まさかとも思う。ありえない。生物は一度死んだら、よみがえらない。
「八枯れ」
背後に立った、聞き慣れた声が、わしの名を呼んだ。白い、小さな団扇を手にした登紀子が、微かに表情を歪めて立っていた。赤茶色の長髪を風になびかせて、煤で黒く汚れた頬を、着物の裾でこすりながら、涙をこぼしている。
「良かった、良かった。生きてたのね」そう言って、わしに抱きつこうとしたが、そのまますり抜けて、狸を抱いていた。間の抜けた姿に、表情が緩む。
「簡単には死なん。言ったろう」
「だって、お父さんだってそうだったわ」
登紀子は、狸を腕に抱いたまま起き上がる。この娘の胸を引き裂いているのは、わしと同じものなのか。手に持っている、使い古された団扇をちら、と見て微笑を浮かべた。
「死んだのか?」
「わからない。いまも探していたのよ」
「探すことはない」
苦笑を浮かべると、登紀子は怪訝そうな表情をして「どうして?」と、つぶやいた。
「なに、消えただけだ」
「意味のわからないことを言わないでよ。どうしていまなの?」と、癇癪を起した。それに微笑を落として「なに、いまだからだ」とつぶやいて、着物の裾に腕をつっこんだ。
ゆらゆらとただよう口調に苛立ったのか、ついに登紀子は眉をつりあげて、立ち上がった。人差し指を眼前につきだして、迫ってくる。本当に気の強い、恐ろしい娘だ。
「何か知っているのね」
「明白なことだろう」肩をすくめて、にやにやとした。登紀子は片眉を持ち上げて、腕を組む。
「どういう意味?」
「あいつは一人ぼっちだったんじゃ。ずっとな」
「ふざけないで」
「本気だよ」
「八枯れ」
街へと続く、山道の向こうから、鍬や、焼け残った荷物を持って、歩いてくる人の群が見えた。着物はどろだらけで、怪我をしている。目は血走っており、とても正常とは思えない。おそらくいまなら何に対しても、怒りをぶつけてくるだろう。切りつけ、殴り、死にまで追いつめる。そうすることでしか、奴らの不安や喪失は、ぬぐえない。
わしは、気を失っている狸の体を借りようと、中へと入り込んだ。黒い双眸を細め、登紀子を見上げると「意味のないことをしたがるのが、人間だろう」と、言って快活に笑った。
「だから、貴様は生きろ」
登紀子はようやく、近づいてきた民衆の足音に気がついて、とっさにわしに背を向けた。隠そうとしたのだろうが、もう遅い。
「庇うな。行け」と、つぶやいて前へと飛び出した。
鋭い牙をのぞかせて、高い声で咆哮した。狸の鳴き声は、あまり迫力がないのでつまらない。だが、登紀子だけは、動揺していた。苦悶の表情を浮かべて、固まっている。そんな登紀子を追い越して、数人の男たちが、枯れ果てた声で叫んだ。
「化け物がいるぞ、あいつだ、殺せ」
駆けだした黒い群は、もう止まらない。押しては返す波のように。地をゆらす足音が、なつかしい。まるで、闇の谷をうごめく影のようではないか。それなら、慣れたものだ。わしはついに声を上げて、笑い出した。
「捕まえてみせろ。わしは、最恐の鬼だからな」
踵を返すと、登紀子を置いて走り出した。八枯れ、と叫ぶ声は、もう聞こえない。ちらとふり向くと、人間どもが血眼になって、追いついてきた。わしを、睨む。叫ぶ。暴徒。必死に、走り続ける。赤々と燃える炎の渦を蹴散らし、闇を駆け抜けてゆく。
そうだ。生きた志だけは、消えはしない。どんなに小さく、くすぶるような火であったとしても、強靭な「信」が、そこを貫いているのなら、絶対に消せない、「真」となる。いまここに、生がある。浄も不浄も抱いて、土を蹴る。生きた「志」を残し、いま死を渡る。
「ははは」
落ちた橋を飛び越えて、炎につつまれ、それを吹き飛ばす。照りつけるまぶしさは、火の粉か、太陽か。胸が熱いのは、なぜなのか。
心が焼けている。また、ここからはじまるのだ。
タイマの手紙。(未開封)
きっと、お前は納得しないだろうな。お前のような弱い者が、あんな荒れ果てた地で、死を喰らってでも、必死に生きようとしていた。俺は、なんだか、うれしくなったんだ。お前は、生きたがっていた。登紀子も同じだ。そうして、俺のような化け物を信じ、連れて来てくれた。騒々しいほどの、鮮やかな世界へ。感謝してるんだ。これでもな。
だから俺は、狂いでも構わない。重要なのは、誰と居て、どう生きたかではないからだ。そこに切実があり、誠実を貫いたかどうかにしか、「生」は脈々と宿りはしない。
理解になにがあるのか?感じたままにふるまう美しさを、そのまぶしさを、いまでも信じているんだ。
なんてことはない。人の振る舞いや、言葉が価値観をつくりあげているだけで、「生きる」に上がるも下がるもない。プラスはプラスとして、そこに横たわり、マイナスはマイナスとしてやはり、そこに在るだけだ。
だから、俺はすべてを肯定できる。微かに指を動かしただけでも、重たい荷を持ち上げても、文字を書いても、文を読んでも、泣いても、笑っても、すべて同じことだからだ。(以下、火事により焼失)
親愛なる友よ。どうか生きてくれ。きれいごとでは済まない現実を前に、磊楽な笑いを湛え、不敵にどこまでも、迷わず走り抜けるんだ。
愛することをあきらめなければ、きっと世界はお前のそばにある。絶望を抜けた先には、必ず太陽が昇るんだ。
だって、そうだろう?
生物の孤独は、何かのせいではないのだから。
(以下、火事により焼失)
了
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