静寂の歌(逢魔伝番外編)

当麻あい

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第一章

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   第一章



    一



   『A  song  of  the  stillness』


  迷える子羊を集めよう。迷える子牛を集めよう。
  俺は最後の牧歌をくちずさむ。
  耳を傾けたaloneが、またつかまった。
  一人、独り、ひとり。幸福なんか喰えないんだ。
  Let  well  alone.
  Let  well  alone.


  俺は不敵さ。泣きながら口ずさむ。
  鼻をすすった狼が、また荒野に逃げ込んだ。
  ここがお前の死に場所さ、ここが俺のはじまりさ。
  Let  well  alone.
  Let  well  alone.




 おそらくこれは夢だろう。白い髪の男が、もう一人の男に馬乗りになって、握っていたナイフを振り下ろしていた。そのまま何度も男の眉間に突き刺している。音も匂いもない暗闇のなかで、誰かが歌を口ずさんでいる。
 「つまらないな」
 何の歌だい?小さくつぶやいてみると、ナイフを握った白髪の男が、ようやくこちらをふり返った。死んだ男の上にしゃがみこんで、息をついている。手のひらについた血が、黒く光った。うえ、と舌を出して鼻をつまんだ。魚をさばいたって、こんな嫌な匂いはしない。
 「力んだのさ。だから、クソを垂らしているんだ」
静かな声が、匂いの出所を教えてくれた。月明かりが射しこんでいた。開いていたカーテンのそばで、ナイフの男はやはり、歌をうたっていた。ずるる、と鼻水をすすりあげながら、ソファーの上に座り込んで、じっと、僕を見据えていた。
 氷のような視線だった。だけど、その奥にはなんにも無かった。がらんどうで、からっぽで、まっくらだ。血のついたナイフを、手のひらの上で弄んでいる。まるで、そうすることが自然なように、血を舐めた。男の髪が、きらきらと白くかがやいた。
 「なあ、君は存在を失ったことはあるか?」
 不意に白髪の男が微笑んだ。僕は死体のそばまで歩いて行くと、笑みを浮かべる。ポケットに両手をつっこんで、胸をはった。
 「さあね。存在が何かわからない」
 「存在とは心だよ」
 「そうかな」
 白髪の男は興味深そうに眼を細めた。
 「なぜ」
 「医者ならそうは言わない」僕は肩をすくめて、くちびるをひん曲げた。
 「医者なら心がわかるのか?」
 「わかるのかもしれない。でなきゃ、あんなに薬ばっか飲まさないだろ」
 「おかしなやつだな」
 月明かりに照らされ、きらきらとかがやく白髪をゆらし、八重歯をのぞかせた。僕は前髪をかきあげて、足元の死体を見下ろした。
 「どうして殺したりしたんだ?」
 「何のことだ」
 「刺していたじゃないか」
 「さす?」
 「この男のことだよ」
 「男だって?どこにいる」
 ぐう、と男の双眸が細められる。長い指を折り曲げて、足元を指された。見下ろすと、死体がなくなっている。ぎょっとして、辺りを見回したがどこにもない。血だまりのなかには、枯れた柳が束になって転がっているだけだ。いまの短い会話のなかで、死体が枯草に変わったとでも言うのだろうか。眉間に皺をよせて、腕を組んだ。
 「どういうことだ?」
 白髪の男はまた「Let  well  alone……」と、歌をうたいはじめる。その声は、ずいぶんご機嫌だった。ナイフをポケットにつっこんで、肩をすくめた。
 「口にしてしまうと、本当に在ることになるが、目の前にしていても言葉にしなければ、それは無いことと同じなんだよ。赤也」
 僕は眉をひそめて顔を上げると、目を見張った。あわてて辺りを見回したが、白髪の男の姿はどこにもない。
 「何なんだ」
 ため息をついた途端、首筋に寒気が走った。いつの間に、後ろに回っていたのか、うなじを舐められた。ざら、と言う舌の感触に鳥肌が立ち、勢いよくふり返った。無駄だと思ったが足を出して、蹴ろうとした。やはり、避けられ距離をとられる。白髪の男は黄色い双眸を細めて、やわらかく微笑んだ。
 「緊張しているな。あるいは恐怖か?」
 僕は足元につばを吐いて、うなじをこする。
 「変態野郎め」
 「静寂が歌うって言うのは、もうないけど、あるってことなんだよ」
 「何だって?」
 眼を見開いた瞬間、暗闇から放りだされた。目の前がまっしろになる。まぶしい。光がまぶたを割って入ってきた。景色が歪み、ぐっと眼を閉じた。
 「なんだ、もう帰るのか」
 白髪の男は、闇の奥で手を振っていた。目覚める瞬間まで、その男の快活な笑い声が、耳の奥で響いていた。








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