静寂の歌(逢魔伝番外編)

当麻あい

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第一章

1-4

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    四



 鍋の中をのぞきこみながら、不意と夢のなかで聴いた歌を口ずさんだ。特に意図があった訳でもない。機嫌が良かった訳でもない。本当についと、口から出てしまったのだ。
 それがいけなかった。歌を耳元で聴いた邪植は、くるくると、回していたおたまを、一度ぴくりと震わせて止めた。しばらく沈黙していたかと思うと、勢いよく振り返ってきた。邪植の長い後ろ髪が、僕の頬に当たった。突然のことに、頭を引いて苦い顔をする。
 「何だよ、急に動くな」
 文句をつぶやきながら、細い双眸を見据えると、邪植は胡乱な表情をしたまま、硬直していた。口の中では「う」だとか「あ」だとか、何事かをつぶやいている。もごもごと口を動かして、じっとしている。
 変だ。そう思い、名を呼ぼうとしたが、途端だし汁がふきこぼれたので、鍋の火を止めると同時に邪植の顔をのぞきこんだ。からかっているのかと思い「何なんだ?」と、語気を強めた。
 「どうした?」
 不毛な言いあいを終えたのか、不機嫌そうな顔をした黒猫が、台所の戸を開けて中に入って来た。八枯れに向かって、両肩をすくめて見せると「わからない。邪植が、なんだか妙だ」と、言って首をかしげた。
 「様子がおかしいぞ」
 「だからそう言ってるじゃないか」
 「おい、赤也」
 八枯れの声に振り返ると、胡乱な黒い双眸が、じっと、僕を見据えていた。震える上くちびるを無理に閉じているのか、口の中でもごもごと、何か唱えているように見える。ようやく事態がなかなか深刻なことに気がついた。
 「どうやら、二日酔いではないようだな。平気か?」眉間に皺をよせて、そっと邪植に近づいた。眼前で手のひらを振って、様子をうかがう。
 「れっと、あろーん、れっと……」
 それは夢のなかである男の歌っていた、妙な歌詞の一節だった。近くで聞くと、ようやっと聞き取れる程度の発音だったので、さっきは「う」とか「あ」と言うような、うなり声に聞こえたのだ。
 「ひとまず、邪植を居間に運んでくれないか」
 天井板を通り抜けて入って来た錦にそう言うと、しっかりうなずいて「わかりました」と、言っていた。それを確認して、八枯れを連れて台所を出ようとした。その時、右肩に激痛がはしり、しばし動きが止まった。
 突然のことによろめきながら、食器棚にぶつかって、その場にしゃがみこんだ。右肩を押えながら、手のひらを震わせた。したたる血の量に従って、心臓の鼓動も速く、不規則になる。
 「ついに乱心したか。クソ蛇」
 八枯れの低いつぶやきに、ゆっくりとふり返った。ずきずきと痛む傷口をおさえながら、瞬きをくりかえす。最初に目に入ったのは、左右にゆれる八枯れの黒い尻尾だった。どうやら、攻撃を受けてすぐ僕をかばうように前へ出ていたようだ。毛を逆立てて、威嚇している。
 ゆれる尻尾の向こうで、金と赤のうろこが光っていた。錦の透明な尾ひれの先には、僕の血がこびりついている。それが、したたり落ちるたびに、台所の床が赤黒く汚れた。
 「ああ、刺されたのか。そりゃ痛いはずだ」
 苦笑を浮かべて力なくつぶやくと、入口までの距離を目で測る。八枯れの呆れた声が、後を追いかけてきた。
 「ふざけている場合か。どけ。邪魔だ」
 「うるさいやつだな。少しは労れよ」
 「ほう。なんならおぶってやろうか?」
 「遠慮したいね。皮膚が溶ける」
 八枯れは猫の体から飛び出ると、元の大鬼の姿に戻っていた。三つの角と、三つの黄色い目、黒い髪を中空にまとめ、うずまき模様の着流しを羽織り、三メートルもの巨体を、ぎしぎしと軋ませている。こいつの吐く息も、青い皮膚も人体には有害をもたらす。十秒も触れていたら、肉が溶けるだろう。だから普段は、猫の死骸の中につっこんでいるのだ。
 「ついでに、こいつも持って行け」
 膝に、重たいものが乗った。見ると、黒猫の死骸だった。これだって、もともとは、僕が用意した容れ物だ。もちろん、死んでいるんだから放っておけば腐ってしまう。「仕方がないな」と、猫を腹に抱えて、入口から縁側に出る。ああ、そうだ。機嫌良く腹の虫を鳴かせていた八枯れに、声をかけた。
 「喰うなよ」
 「約束できんな」
 嬉々とした返事に、ため息をついた。ただでさえ少ない式神が減ったら、それこそ面倒なことになる。
 「あと三十分もしたら生徒も来る。騒ぎにしたくない」
 「もう手遅れじゃ。また、炒めろ」
 「きのこのことじゃない」
 「うるさいやつだな」
 下駄を転がして庭に降りると、猫の死骸を降ろして、熱を持ってうずく右肩をおさえる。止血していると、僕の腹の虫も鳴いた。結局、雑煮を食い損ねてしまった。
 中から、黄色い煙がただよいはじめる。これは八枯れの体内でつくられている、酸の匂いだ。もちろん、人体だけではない、さまざまなものに多大な影響をおよぼす、有毒なガスだ。最初の一嗅ぎで、痛覚神経を麻痺させ、脳の働きを鈍くする。次第に、聴覚や視覚や味覚などの反応性も破壊し、触覚を消して、はじめて闇が完成する。
 酸性の膜に覆われた世界では、時間も空間も存在しない。「無」の領域となる。そのなかで、獲物をバラバラにして喰べることを、もっとも得意としている陰湿な鬼だ。
 茶色い戸口から、ただよう薄い糸のような煙が、空に向かって登ってゆく。黄色い煙は、くるくると円を描きながら、時折左右にゆれて、青ぞらに細い線を引いた。その先で、いわしの形をした雲が、裏山に向かって流れてゆく。
 そういえばもっと幼いころ、あの裏山でよく遊んでいたなあ。帰り道で妙な魔にとりつかれて、ばあさんに、助けてもらったんだ。そんなことを、ぼんやりと思いだす。考えてみると、昔から僕の日常のなかには、妙なことがいつもついて回っていた。何があっても、それほど衝撃を受けないのは、そのためか。八枯れが鬼でも、魔を喰っても、僕を喰おうとしても、たぶん驚かない。錦や邪植もそうだ。
 人にとっては当たり前ではないことが、僕にはすべてあたりまえだ。だから、僕のなかには、これと言って特別な「異常」と言うものがない。
 「赤也」
 呼ばれてふり返ると、戸口の前で腕を組んだ大きな青鬼が、黄色い三つ目を細めて、じっと僕を見つめていた。やれやれ、と足元に転がっていた黒猫の死骸を、八枯れに向かって放った。
 「中に入るなよ。死にたいなら止めんが」
 黒猫の中に入りながら、そんなことを言った八枯れの言葉に、つい吹き出してしまった。「何がおかしいんじゃ」と、牙を見せてうなりはじめたので、首を振ってごまかした。
 「さて、どうしたものかな」
 後ろ頭をぼりぼりとかきながら、空を仰いだ。ずきずきとうるさく痛む右肩を押えながら、ため息をついた。


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