静寂の歌(逢魔伝番外編)

当麻あい

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第一章

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    三


 肩をすくめて、歩きだそうとした時だった。足元に何か黒いものが、転がっていた。先に八枯れが鼻をよせると、眉間に皺をよせて「おい、これ」と、言って黙り込んだ。「何だよ?」眉をしかめてしゃがみこむと、上からその妙な黒いものがたくさん降ってきた。
 ぼとぼと、と目の前に転がったそれを手にとって、空を仰いだ。見ると、金と赤のかがやきが目に入る。その鮮やかな鱗のかがやきを、陽に反射させて、空中をただよう錦龍がいた。白い尾は長く、瓦屋根の向こうに消えている。長い鬚を風になびかせて、青く透き通るような双眸で、じっとこちらを見下ろしている。
 錦龍も、僕の飼う式神の一匹だ。もともとは、登紀子ばあさんが飼っていた錦鯉なのだが、ばあさんが死んだのと同時に龍になった。普段は池の中を泳いでいるが、用のある時はこうして姿を現す。なにより、清浄な気の中でしか生きられないので、僕以外の人間が錦を見ることは難しい。
 「お前が、採ってきたのか?これ」苦笑を浮かべて、いくつかの黒いものを手に持つと、錦に向かってかかげた。
 「そろそろ、昼餉のお時間かと思いましたので」
 「僕の食いたいものがわかるのか」
 「いえ。椎茸が食べたいと、おっしゃっていたので用意しました」
 「気が利くね。えらい」
 褒められて機嫌をよくした錦は、尾を巻きながら、次から次へと椎茸を落としはじめた。頭や肩にぶつかって、縁側や庭先に落ちたのを拾いながら「結構あるな」と、つぶやいた。頭にぶつかるたびに、八枯れの苛立ちは募っていった。
 「気が利くどころじゃない。ぼとぼと、ぼとぼと……、貴様は頭がおかしいのか?」
 落ちてくる椎茸を払いながら、八枯れはいらいらした口調でつぶやいた。それでも止まない椎茸の雨に、きつく錦のことを睨み上げ「このクソったれ鯉め」と、ののしった。
しかし、錦は意にも介していないのか「さあ、お早く支度をすませましょう。生徒たちが来てしまいます」と、笑って八枯れの挑発を無視した。それに鼻を鳴らすと、声を上げて笑った。
 「耳も遠くなったか?年寄り」
 相手にしなければいいものを、この言葉にはつい錦もふり返ってしまった。すき通るような青い双眸を細めて、じっと見下ろした。
 「無能な輩というのは、いつも文句だけは達者なようですね」
 「ほう。自覚があるのか。大したものだな」
 「赤也にひらがなの読みかたから、教えてもらったらどうです?」
 「生憎、読めなくとも苦労はせん。困るのは貴様らだけじゃ」
 「なるほど。頭が筋肉である自覚はあるのですね」
 「すまん。無能で筋肉なもんで、お上品な言葉はわからん。頭がいいんだろう?もっとわかりやすく話してくれ」
 庭先で、八枯れと錦が不毛な言い争いをはじめてしまった。それを無視して、ふところに集めた椎茸を抱えたまま、台所へと通じる戸を引いた。入ってすぐため息をついた。鍋の前で全身真っ黒い男が、鼻歌を歌いながら味見をしていたからだ。台所テーブルの上に椎茸を置くと、その男の後ろ頭を叩いた。
 「いきなり、なにすんですか。赤也さん」
 邪植は後ろ頭をおさえてふり返ると、情けない声でつぶやいた。こいつも、僕の飼っている式神の一匹である。「邪を植える」と言う名の通り、少々厄介な性質をもった鴉の妖怪だ。外にいる古株の二匹よりも、親近感が持てる言動は多いが、それも隙をうかがっているだけに過ぎないので注意がいる。
 僕はまな板を取り出しながら、蛇口をひねって手を水にぬらす。それを横目にしていた邪植は、腕まくりをはじめた。
 「電球は取りかえておいた」
 食材を洗いながら、そうつぶやくと、ようやく殴られた意味がわかったのか「あ」と、短く言葉をもらす。あわてて頭を下げると、邪植の長い黒髪が、だらん、と垂れる。
 「すみませんでした」
 「二日酔いじゃなかったら、お前にやらせているところだ。まったく主人を使うとは、いい度胸してるよ」
 「返す言葉もございません」
 「もう酒は控えろよ」
 苦笑を浮かべて、洗った椎茸をまな板の上に並べてゆく。邪植は細い眼を見開いて、あわてて手を洗うと、包丁を取り出した。
 「また、炒めるんすか?」
 「またって、八枯れにも言われたな」
 「きのこが好きなんですか?」
 「さあね。そういう訳でもない」
 「じゃあ献立を変えても?」
 邪植は鍋の蓋を開けて、微笑を浮かべた。こぶの風味がよく出ている。透明なだし汁を見つめながら「構わないよ」と、つぶやいた。どうやら雑煮を作ろうとして、下準備をしていたらしい。これを聞いたら、八枯れの機嫌も少しは良くなるかもしれない。
 「すっかり、料理がうまくなったな。助かるよ」
 僕は腕を組んで、感心したようにうなずいた。邪植は、細い眼をより細くして笑うと「切ったり、むいたりするのが、楽しいんですわ」と、うすら寒いことを、なんでもないことのように言った。


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