静寂の歌(逢魔伝番外編)

当麻あい

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第三章

3-12

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    十二


 ひどく暗い、ホルマリン臭い部屋のなかで目を覚ました。黒い暗幕のようなカーテンの隙間から射す、陽光のかがやきに、いまが朝なのだと、わかる。
 気だるい体をどうにか起こして、手元を探りだした。触れたのは、つめたいプラスチック製の何かだった。手に取ると、それが、お面らしいことがわかった。なるほど、これは高橋つぐもの記憶にちがいない。
 「試験番号二番、来なさい。いつまで寝ているんですか」
 隣の部屋から抑揚のない声が、こちらへ呼びかけてきた。試験番号二番とは、おそらくつぐものことだ。つぐもは、内心でぐっと怒りと悲しみをこらえている。急かされたが、ぐずぐずと抵抗していると、部屋を開けて男二人が入ってきた。一人は、写真で見た覚えがある。左の脳だけを取り出されて捨てられていた男だろう。神経質そうな顔を歪めて、口鬚をなでている。その隣では、無機質な目でじっとつぐもの顔を眺める、白髪の老人が立っている。なるほど、年齢から言ってもこちらがつぐもの父親、高橋陽一かもしれない。では、先ほどから戦々恐々とした様子でこちらをうかがう、神経質そうな黒い鬚の男が、友人の都築隆なのか。
 都築は、つぐもの腕を引っ張って立たせると、隣の部屋へと無理やり押しこんだ。突如、明るくなったため、一瞬目眩を覚えたのか、つぐもはよろけながらも近くの椅子に座り込んだ。
 「おい、高橋」都築が怪訝そうな表情を浮かべて、口鬚をなでつけた。やはり、白髪の男は高橋陽一のようだ。「二番の意識がまだ、朦朧としているじゃないか。これじゃあ、今日の実験は無理だ」
 そう言って、都築は嫌がるつぐもを押えこみ、その面を剥いだ。一気に視界が開け、同時にずくずくと痛む顔面に、言葉を失った。上体を折り曲げて、痛みをこらえた。
よほどひどい容貌なのか、都築は一瞬だけ同情の色を示したが、陽一のほうはカルテを見つめたまま、淡々と「モルヒネでも打っておけばいい。痛みなど直、おさまる」とだけ言った。その無情で無機質な声の中には、一切の感情というものを排除しているようだった。つぐもの小さな両手を見つめて、おそらく幼少期の数少ない記憶なのだと、思う。

 途端、視界が回転した。一度、まばたきをしたように真っ暗になると、次は恐怖におびえる都築の顔が目の前にあった。都築は少し老けたのか、口鬚はそられてさっぱりとしていたが、頭の毛が薄くなっていた。
さきほどと同じ暗室で、椅子に座らされて、両腕と両足を縛られていた。少しだけ大きくなったつぐもの手は、ガムテープをはがして、都築の口元にはりつけようとしていた。しかし、都築は必死に抵抗し、首をぶん回し、逃げようともがいた。つぐもはそれでも、少しも動じずに、あの歌を「Let well alone……」と、口ずさみながら都築の顔面を二三発殴りつけ、大人しくさせた。
 「頼む、二番。許してくれ、俺は、高橋の研究のために、協力を、していただけで」
 都築は赤黒くつぶれた目を力いっぱい開いて、つばを飛ばした。その弱弱しい声は、掠れて、ちぎれてしまいそうだった。つぐもは、のど奥で一度、その姿を嘲笑しただけだった。
 「もしあなたが人体の細部を詳しく知りたいのなら、あなたの眼はさまざまな方向からそれを眺め」
 ガムテープを都築の口もとに貼りつけると、歌うように話しはじめた。都築は、恐怖からか、太ももを震わせて失禁していた。つぐもは首をかしげてそれを眺めると、その匂いを嗅いで、声を上げて笑った。
 「そう!それを眺め、上下左右並びに背後から観察し、さらにそれを回転させて各部を極めなければならない」
 あの歌を口ずさみながら、都築の腕にコカインの入った針を刺しこんだ。正確に血管の中に注入する。次は、解剖用のメスを取り出した。都築は、ガムテープの向こうで小さくうなるが、声となることはない。
「迷える子羊を集めよう」と、歌いながら、額に切り込みを入れてゆく。おそらく、頭蓋骨を外すための印づけのつもりなのだ。都築は、はち切れそうな声を上げながら、首をぐるぐると振り回す。まるで、狂人のように白眼を向いて、ふらつく頭を、余計に激しく振って、逃れようとする。
 「こういう方法でしか、あなたの知識は満足を得られないだろう」
 それでもつぐもは、冷静に行動を進める。医療用の電動ノコギリを取り出すと、それの電源を入れて、都築の白眼をじっと眺めた。
 「ねえ、お前みたいな馬鹿な牛でも知ってる?レオナルド・ダ・ヴィンチのこの言葉。良いよねえ、すごく好きなんだ」
 都築はすでに、意識を失いかけている。必死に何事かを応えようとしたが、右から左へ頭を振っただけだった。つぐもはそれに機嫌を悪くして、「何だ、やっぱり知らないんだ。残念だなあ」と、悲しそうにつぶやいた。

 そうして、またまばたきをした。真っ暗になって、視界が回転したかと思ったら、次は高橋陽一が、さきほどまで都築が座っていた椅子に腰かけていた。
陽一は、光の失われた双眸で、じっとつぐものことを見据えているだけだった。抵抗もしなければ、逃げようともしない。叫ばない。怖がらない。つぐもは、それを眺めていると、徐々に苛立ちが募っていった。
「ぼくが殺さないとでも、思っているのかよ」
 「思わん」陽一は、くたびれきった枯れ木がこすれるような声で、低くつぶやいた。「お前は、私を殺すよ。否、実験をするつもりなんだろう。道具と薬剤の匂いから推察して、おそらく最初に神経麻痺の薬を投与後、脳の状態を観察、その後、首と胴体を切断、手足も同様。腹部を切開後、臓器を摘出、ホルマリンの瓶のなかに保存、冷蔵。手足は、関節ごとに切断、同冷蔵」
 ふん、と鼻を鳴らして、つまらなさそうにくちびるをとがらせた。
「つまらないね。そこまでわかっているくせに、何で死ぬのが怖くないんだ」
 「さあな。死ぬ瞬間には恐いと思うかもしれないが、これでも私は科学者だ。さまざまな生死をこの目で見つめ、この手で解体し、観察し、実証をつみかさねてきた。二番。お前の顔もそうだ」
 「そうだよ。お前が、ぼくをこんな顔にしたんだ。いまじゃ、つくりものの面をつけていなければ、動くこともままならない」
 「なに、表情などあってもなくても同じことだ」陽一はこのときになって、はじめて愉快そうに笑いだした。「元来、お前には顔など無かったのだから、わたしが作ってやったのだ。それをお前がうまく使いこなせないだけのことだ。逆恨みは止すんだな」
 つぐもはついに言葉を失った。陽一はにごった黒眼をぎょろり、と動かして嬉々とした声を上げた。
「都築はどんな悲鳴を上げた?お前はそのとき、興奮したのか?都築の肉を食ったろう?冷蔵庫から、酸化しかけた肉の匂いがしていた。どこを食べた?胃か?肝臓か?心臓?背中、腹、肩、ふともも?すべてか?そのときは、満足できたのか?」
「うるさい、うるさい」
「お前の腹は満たされたのか?性欲は放散したか?いま、私を見てどうだ?感じているのか?憎い私の肉を切り刻み、食べて、侮蔑し、それでお前はようやく安眠できるようになるのか?なあ、二番。お前はすばらしいサンプルだったよ」
 陽一の耳障りな笑い声が、途端止んだ。つぐもが、持っていたナイフで、陽一の気管を切り裂いたのだった。首筋からあふれる、赤黒い液体が、ゆっくりと陽一の白衣をぬらしていった。
 「くそ」
つぐもはくぐもった声で、しゃくりあげる。涙が、崩れかけた皮膚に触れて、ずきずきとうずくのだ。それでも、自然泣きやむまで、ぬぐうことができず、流れてゆく涙の軌跡に、ますます痛みが増し、その痛みによってまた、涙が流れるのだった。
「おお、このわれわれ人間機械の探究者よ、君は他人の死によって知識を得るからといって悲しむな。われわれの創造者がかかる優秀な道具に智慧を据え付けて下さったことを悦びたまえ。」
つぐもはしゃくりあげながら、狂ったように、ダ・ヴィンチの「解剖学」の項目の引用を、しゃべり続けた。叫ぶように、またつぶやくように、いつまでも、訥々と語るその声は、抑揚のない無機質なものだった。
「どこから風邪を引くかを述べること、涙、瞬き、欠伸、身ぶるい、てんかん、発狂、睡眠、飢餓、色欲、体じゅうを激動させる憤怒!同じく恐怖、熱病、不快。何によって毒薬は害を働くか。なぜ電光は人間を殺戮するのに傷をあたえないのか。人間は鼻をひしゃがれてもなぜ死なぬのか。なぜそれは肝臓を害するか。魂とは何であるか述べよ。いかに必然性は自然性の伴侶であるか。涙はどこから湧くか……」
暗室には光がない。沈みかけの太陽が、橙色の射線を、カーテンの隙間から落として、陽一の赤黒く染まった身体を、より赤く染め上げていた。それはまるで、欲望の花が燃え上がっていた時のように、まぶしく光った。

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