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第三章
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しおりを挟む二
あの黒猫の中身は、黄泉を生きる大鬼だ。名を「八枯れ」と言う。ひょんなことから式神になってはいるが、無料ではない。死後、心臓を渡すことが条件で、なんでも言うことを聞いているのだ。だから、ピンチの時には是が非でも僕を守らなくてはならないのに、こいつはぐうたらだから、すぐサボる。
わざとやっているんじゃないか、と聞いたことがあったが、「それができたら、律儀に貴様など守らん」と、舌を出された。じゃあ、できたらやっぱりやるんじゃないか、と鬼の薄情さに眉をしかめた。
「あ、おはようございます」
台所に入ってすぐ、眠そうな細い両目をもっと細くして会釈してきた。黒い長髪を一つにまとめ、黒い着流しを簡易に着こなす優男は、へらへら笑いながらガスの火を止めた。僕は、ひょい、とフライパンの中身をのぞきこんで、軽くうなずいた。
「だし巻きか。いいね」
「あと、寒ブリの煮付けに、味噌汁と、きんぴらっす」
「お弁当にでもする気かい」
「今日は、ちょっと出かけるところがあるんすわ」
「研究会か。よく続くね」
「今度、赤也さんも来てくださいよ。みんな待ってます」
「みんなってな、誰だ?」
僕は、だし巻きを一つつまみながら、目を細めた。邪植はそれに視線を合わせながら、へらへらと笑う。
「魑魅魍魎の群れです」
「鬼がいて、化け物がいて、悪霊のいるところか」
「ええ、鬼がいて化け物がいて、赤也さんを喰いたがっている連中がひしめきあって、罵倒しあっている陰鬱なところです」
「それのどこが研究なんだよ」
嫌そうに顔を歪めて、踵を返すと冷蔵庫の中から、ペットボトルのお茶を取り出した。邪植はくく、と高い笑いをもらして、着流しの袖に腕をつっこんだ。
「俺にとっては研究ですよ。良い実験材料ですからねえ」
「モルモットだろう」
「大丈夫。ちゃんと、赤也さんの役に立ってみせますから」と、言って軽く肩を叩かれたが、すぐにそれを払った。いま肩に植えられかけたものを、ほじくり返す。楕円形の黄色い種だ。それを指の間にはさんで、邪植の目の前にかかげて見せる。眉をひそめて笑みを浮かべた。
「お前の手口を、僕が知らないとでも?」
「思いませんよ。それはあいさつ代わりです」
「毎朝、毎朝、妙なもんばかり植えようとしやがって」
「心外だなあ。それは、まだ試作品ですよ」
「そんなことは聞いていない」
「冗談ですって」
にやにやと、笑みを浮かべる邪植の額に、怪しい種をぶつけた。こいつは、人に種を植えて、咲いた花を養分にしている妖怪だ。八枯れ同様、契約を結んでいるが、普通の鴉が化けただけの低級なので、交換条件などは必要なく、血を飲ませるだけで式神にできた。
しかし、隙を見せると先ほどのように、厄介な「種」を植えようとしてくる。この種は、人の生命力を養分にして咲くため、開いた花はこの世のものとは、思えないほどの美しさを放つ。しかし、それをむしり取られると、その人間は昏倒するか、最悪の場合は死に至る。邪植は一見、弱々しく優しい男に見えるが、その実は誰よりも、冷酷で計算高い。
「まあ、ほどほどにしとけよ」
ため息をついて、ペットボトルのふたを開ける。麦茶を一口飲みながら、台所の引き戸を足で開けた。振り返って、いー、と歯を見せて出て行く。廊下を数メートル、歩いたところで邪植の大きな笑い声が聞こえてきた。赤也さん、昼飯も置いて行くんで、みんなで食ってくださいね。と、言われ今度は振り向かずに、片手をひらひらさせて応えた。
まだらな陽の落ちる廊下を歩きながら、相変わらず縁側で丸くなったままの八枯れを、遠目で眺めて息をついた。まだ寝ていやがるのか、ぐうたらめ。内心で悪態をついてから、今度は少し乱暴な動作でお茶を飲み込んだ。そうして、すぐに不安になった。今回ばかりは、本当に見捨てられやしないだろうか。そう思うと、背中がひんやりとした。心持ち、あの猫にも優しくしてやろうか、と打算した己の弱さに、年を取ったものだな、と自嘲した。優しくしようがしまいが、鬼に情など通じやしない。あそこにあるのは、力による上下関係だけである。わかってはいるが、時折やりきれない想いがする。それは、八枯れの言うところの「人間臭さ」と、言うものかもしれない。
ふと、視線を横にずらして立ち止まる。中庭の楓の木々が、風にゆられて、赤い葉を落とす。遅咲きの梅の花に、郭公や、鶯がとまり、中には文鳥もまざって、ちよちよと鳴いていた。縁石のそばに散った桃色の花びらを追うと、蓮の花の浮かぶ池に波紋が広がった。
そのゆれた水面を見つめて、僕は思わず微笑をこぼした。今朝、尾長たちの話題にものぼった、清らかな錦の龍が、こちらを見つめて会釈してきたのだ。
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