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第三章
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しおりを挟む三
「起こしたか?」
縁側から中庭に下りると、下駄を転がして縁石の前まで歩いて行った。地面をこするような足音に驚いた鳥たちが、一斉に飛び立って行く。錦は、頭をもたげて起き上がると、透明な尾の先から水を滴らせながら、宙に浮いた。金と赤のうろこは陽に照らされて、きらきらと輝いている。白いひげを風になびかせながら、青く、透明な双眸を細めて微笑んだ。
「ご機嫌がすぐれませんか」
「まあね。朝から、厄介なストーカーにぬめぬめ触られ、猫には寝小便だと馬鹿にされ、鴉には種を植えられかけた。まったく、親切な奴らだよ」
「キュウ」と、鳴いた錦を見上げながら、苦笑を浮かべた。こいつは、ばあさんの飼っていた錦鯉だが、ばあさんの力が強くなるのと同時に、龍へと変化した。そのため、他の式神より霊力も強く(八枯れはかたくなに否定するが)、清らかな気を常に保っている。錦の護る蓮池は、どこよりも清らかな気で満ちており、その気が家全体を清潔にしている。
「何者でしょうか」
「お前にもわからないのか」
「はい。残念ながら、気配すらつかめず」
ふうん、と鼻を鳴らして頭をかいた。
「まあ、ともかく水に関わりのあることだけは確かなようだけど。裏山の尾長を知ってるか?」
「ええ。彼女たちはあの山に一番くわしいようで、世話になっています」
「どうやら、古い祠があるようだ」
「ああ、そう言えば手入れのされていない神社の跡地があるそうで」
「そばには、井戸もあるんだそうだ」
「まさか、その井戸」
「うん」
若干、声を落としてつぶやいた錦の声に、微かにうなずいて見せる。顎を指でなぞりながら、一際、大きく吹きぬけて行った風に、前髪を揺らした。右に左にゆれた楓の枝から、一枚葉が落ちる。蓮池に浮かんだその赤は、小さな波紋に呼応するように、くるくると回転しながら、池の真ん中へと流されて行った。
「どうやら、死者を生き返らせる水があるようだよ」
「それは、また」頓狂な声を上げて、青い双眸を瞬かせた。いつも冷静な錦が珍しいものだな、と苦笑を浮かべて、歩きだす。玄関の引き戸を引いて、靴箱の横に置いてある桶をつかむと、池の方まで引き返して来た。
「古い文献にはよくある話しだ。折口大先生によると、若返りの水、若水、變若水、オチミズと呼ばれている。その名の通り若返ることができる、とある。不老不死、生き返りの水ともされているが、まあ、正月の手水のことだな」
そう言って、池の前にしゃがみこむと、清められた水を桶の中へと移して行く。この水で門前を掃除するのも、わが家の日課だと思えば、若水の信仰も他人事として笑えない、一種の怖さはある。
「なんだか、意味合いに統一性がありませんね」
「そうでもないさ。若がえることも、死なないことも、生き返ることも、どれも前とは違うものに変化するってことだ。過去から未来へ、死から生へ、変化するための一つの媒体が、水なんだろう」
「古いものを捨てて、新しくなるためには、水できれいに洗い流さなくてはならない、と言うことでしょうか」
ふん、と鼻を鳴らして立ち上がる。桶を持ち上げようとしたが、錦の透明な尾が、それを横から引っ手繰った。「私が運びます」と言われたので、ひしゃくをくるくると回しながら、ありがとう、と微笑を浮かべた。
「まあ、所説はいろいろあるよ。清め祓いの儀式をくり返し行ってきたことで、暦がある。大祓の儀式は、六月と十二月の晦日に行われてきた。それはいまも同じだろう。盆と正月のことだ。春のしるしが、先祖のお帰りなんだそうだが、先祖返りが春に多いってのは、ここから来てるのかもしれないな」
「先祖返り、ですか」
「キツネ憑きの女のことだ。いまでも時々出るだろう」
「ただの狂いでしょう」
「昔はそう考えなかった」
「あの世とこの世の堺、と言うことですか」
「水や、あるいは巫女にはそういう意味もあるだろうね。桃太郎やかぐや姫なんかは、膜や殻の中から出てくる。水を介して、異界から現れるものを指している。殻の中の一時的な現実との断絶は死であり、その死から復活することによる誕生を示す。だから、八枯れも似たようなものだ」
「あのぐうたらな鬼もですか」そう言った錦は、少々不機嫌そうだった。それに苦笑を返して、自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
「あいつは、猫の死体に入っているじゃないか。肉体と魂がセットで母体から誕生した訳じゃない。鬼として現世に来て、僕と契約をして式神となり、代わりの肉体に住んでいるんだから。まあ、これも一つの儀式だよ」
しかし、と首をかしげて、門の錠を開けて外に出る。桶の中に浸していたひしゃくで水をすくい、打ちやった。ぱしゃん、とアスファルトの上で跳ね返った水滴が、ズボンの裾を濡らす。ばあさんの言いつけを守って、毎朝行ってきた、これも一つの儀式だろう。他の人間と違って、ただの儀式で済まないのは、「坂島家」の血の呪かもしれない。
それと言うのも、僕にとっては異常が日常だからだ。鬼や鴉や龍などの式神を従え、おかしなものを見聞きし、触れる。時には喰われかけ、殺されかける。札を貼るか、塩を盛って清め、夢で見た内容と現実の出来事が、交錯する。それを当たり前に受け入れて、うん十年生きてきた訳だが、それはやはり改めて考えてみると、人からは理解され辛い未知の世界なのだろう。
これまで、特になんの疑問も持たずに、やって来られたのは、実際に僕はおかしなものを見てしまうってことと、自分自身をとりまいていることに無知でいられたからだ。
しかし、大学を卒業したころになって、じいさんの書庫の中の蔵書を読みはじめた。そこには、さまざまの国の風俗や、哲学や、宗教について書かれた本が置いてある。主には日本の民俗学や、文学についてだが、それを読み進めるうちに、僕がいまここで生きていることは、非常に気色の悪いことなのだ、と自然思った。知ったと言うより、漠然とまた曖昧模湖としていたものの形が、ぼんやりと見えたような気がしたのだ。
それは、信仰によって成り立ってきた歴史にでもあり、盲目の薄暗くべたついた、何かよくわからない得体の知れないものへの恐怖でもある。そうして、薄暗く得体の知れないあらゆる出来事の中心に、僕は立っている。血の縛り、清め祓い、家を守る依り代、生まれながらにして「坂島」に縛られてしまった己の運命を、改めて見せつけられたような、嫌な心持ちがした。
(だから父さんは、僕がこの家を継ぐ時、どこか悲しそうだったのだろうか。父さんは、自分にばあさん並の力があれば、子供を巻き込まずに済んだとでも考えていたのだろうか)
血からは逃れられないものだ、なんて古臭い話しだ。しかし、その古臭い話しから、切り離して物事を考えることができないのだから、なんだかそっちのほうがよっぽど怖い。小さく息をついて、ひしゃくを桶につけると同時に、背中をバンと、叩かれた。「今度は何だ」と、不機嫌な声を上げて振り返り、言葉をなくした。
「死神よ」
大きな黒い包み紙を小脇に抱えて、毅然とした表情で立ち尽くす女がいた。東堂しのぶは、茶色いポニーテールをゆらせ、サングラスの向こうで笑っていた。生えそろった白い歯のかがやきに、また面倒事を抱えてやって来たに違いない、と大きなため息を吐いた。
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