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筆の森
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それから、一週間ほどは「筆の森」のことも、タチバナのこともすっかり忘れて過ごしていた。裕次郎や他の友人とも、たまに会って、図書館へ行ったり、夏期講習を受けたり、海へ行ったりして過ごしていた。
そうして、ある講習の日のことだ。だらだらと続く大学への道のりを歩いていると、坂にさしかかるほんの少し手前で、誰かが倒れているようだった。
あまりの日差しの強さに、幻覚を見たのだと思ったが、そうではなかった。その倒れている男には、見覚えがあった。
「裕次郎」
叫ぶのと同時に、駆けだしていた。そうして、つん、と鼻をついた生臭い匂いに、眉をしかめて、立ち止まった。裕次郎は、うつぶせになったまま、荒い呼吸をくりかえしていた。全身から、だらだらと流れている脂汗が、アスファルトに染み込んで、にじんでいた。腹をおおう手のひらの間から、ちらと見えたのは、赤黒い液体だった。その右手も、鮮血に染まっていた。
ほんの少し前、「うちの大学の学生は、いつか人を刺すんじゃねえかって、それだけが怖いよ」と、口にしていた教授の言葉を、ふと思いだした。なぜ、そんなことを言っていたのか、前後の文脈を思い出せない。そのあまりに場違いで、ふさわしい思考の純粋さを振り払って、ゆっくりと、その場にしゃがみこんだ。こんなときでも、脳というものは感情とはまったく違うことを、考えるものだ。
この時期の大学周辺は、異常なほど気温は上昇するし、おまけに湿気が多く、全身で、水を浴びたようにびしょびしょになる。おまけに人通りも少なく、講習は、もう三十分も前に始まっていた。そんなところで、いったいどれだけの時間、たった一人、太陽に焼かれたアスファルトの上で、倒れていたのだろうか。痛む腹を押さえて、迫りくる死の予感に、耐えていたのだろうか。裕次郎の苦痛を思うと、自然表情が歪んだ。
「裕次郎、」
焼けた石の上で、炒められている野菜のように、裕次郎はうずくまった。それは、呼びかけへの返答なんだろうか。うめき声すらもらさない、彼の荒い呼吸だけが、耳に残る。そうして、俺はいま自分が冷静なのか、そうじゃないのか、わからなくなった。
「人を呼んでくるから、動くなよ」と、耳元でつぶやくと、裕次郎はようやく小さな声で「悪いな」と、応えた。その声の案外、ふてぶてしいのにホッとして、自分の判断は正しかったのだ、と立ち上がった。
なぜだかわからないが、いまの裕次郎を、多くの人に見せてはいけないのだろう、と思った。彼は腹の痛みよりも、虫のようにアスファルトの上で転がって、動けないでいることのほうを、恥じている。そうして、それは当たっていた。
なぜって。顔をのぞきこんだ時の裕次郎の眼は、驚くほど冷静で、しかしそれ以上に、一種の狂気を帯びていたからだ。決していまの苦しみから、救ってもらおう、などとは考えていないように見えた。そんな弱々しさはなかった。人にすがりつこうとしていない。乾いた視線は、じっと空を見据えていた。
助かるなら助かるでも良いが、駄目なら駄目でも良い。そんな風に、まるで人ごとのように、自分のいまの状態を傍観していたのだ。この時の裕次郎のなかにあるのは、腹の痛みと、アスファルトの暑さと、何かへの激しい感情だけだった。
当人があまりに冷静だと、こちらも自然と白けてくる。裕次郎の苦しみは想像できた。だけど、決して俺は同情できない。できるだけの材料を、体験を持っていないからだ。彼の両目の奥にくすぶっている、ある種の暗いかがやきは、俺の知ることのできない闇なのだった。あの狂気の先にあるのは、おそらく「死」だ。そうして、裕次郎にとっては他人事だが、俺にとっては目も当てられないような、現実としての「死」を見ることになる。それだけは、御免だ。
しばらくして、救急車が来た。裕次郎の望みに反して、多くの人が裕次郎の情けない姿を見てしまった。だけど、裕次郎はもう平気そうだった。素直に、抱え上げてくれた救急隊の人に「すみません」と、つぶやいていた。担架に乗せられたとき、ちら、とこちらを見た。裕次郎の視線に誘われて、口元に耳をよせた。
「ありがとう」
見られたのが、お前で良かった。最後のほうは、ずいぶん聞き取り辛かった。だけど、俺は首を横に振って、それ以上先を言わせなかった。裕次郎はふっと、笑みをもらして、救急車の奥へと入ってゆく。誰か一緒に乗ってくれませんか、と声をかけられ、すぐに手を上げた。
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