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筆の森
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しおりを挟む七
人には、それぞれ事情があると言ったのは、誰だったか。ずいぶん、前に読んだある有名な詩人の言葉だ。それを読んだとき、俺はまったくその通りなのだろう、とうなずいた。
奇異だと思われることにも、さまざまな事情があり、それが、一人出にふわふわと浮かんでいる。日常の中で。あたりまえのように。しかし、それは事情を知らない人が見たら、ずいぶんおかしなことばかりだ。だけど、突然ものごとが起こるのには、個人的な訳がある。裕次郎が刺されたのにも、それなりの訳があり、俺がそのことについて、言及しないのも訳がある。
起こした側にか、起こされた側にか、いずれにせよ、誰かにとっての何か重要な、意味と理由がある。事情がある。それも、くんずほぐれず、ぐちゃぐちゃにからまりあったコードのように。どこから解けば終わりになるのか、わからない。そんな、彼らの事情がある。
幸い、裕次郎の怪我は大したものではなかった。あんなにも悠長に転がっていられたのは、傷の浅さのためか。それとも、何らか得体の知れない感情の激しさに、神経が麻痺していただけなのか。いずれにせよ、裕次郎は入院することもなく、手当だけを受けて、その日のうちに自宅に帰された。
しかし、坂を上がりきったところで「泊まって行ってほしい」と、懇願された。なぜ、とは聞けなかった。裕次郎が、その日だけ一人になることを、恐れているように見えたからだ。無理もない。自分でやったのでなければ、あの傷は誰かがつけたものだ。その誰かは、明らかに裕次郎へ殺意を抱いている。
裕次郎の家は、大学からそう遠くない。二つ駅を行った先にある大きな街のはずれにある。小さな古いアパートに、一人で暮らしている。いまどき珍しい、木造建築で壁が薄く、天井も低い。そのため、虫は入りたい放題、男はやりたい放題。隣のセックスしている時の、女の声がうるせえんだ、アンアンアンアン、よく鳴くぜ。と、愚痴をこぼしていた。
こんな家じゃ、鍵をかけていたって、簡単に侵入されそうだな、と冗談で笑って見せたが、裕次郎は曖昧にくちびるを動かしただけだった。いまはあまりにひどいか、と黙りこんだ。
「いつからあそこに居たんだ」
傾きかけている太陽の陽が、街を橙に染めていた。とぼとぼと歩く、二人の影を長くのばして、沈もうとしている。坂道を上がりながら、街路樹に止まる蝉が数匹、ジジ、と鳴いて飛び立っていった。
「あそこ?」
「学校の前だよ。暑かったろう」
「いや、そんなに長くはなかったよ」
「そうか」
腹を押えながらいつもの倍はゆっくりと、歩いていた。その歩幅にあわせられる自信がなかったので、裕次郎の後ろを歩くことにした。
「なあ」
「うん」
「俺さ、刺されたんだ」
「そうらしいな」
「同じ大学のやつ。彼女なんだ」
決して「だった」とは言わないところに、裕次郎の優しさなのか、自棄なのか、ある種の頼りない響きがあった。女に刺されるなんて、あまりにも陳腐で、いっそ笑ってしまいそうだった。だけど、笑いごとなんかではなかった。少なくとも、心と体を一度通わせあった相手に、殺意を向けられるってのは、いったいどんな気持ちなんだろうか。
「お前が倒れているのを見つけた時、ある先生の言葉を思い出したよ」
なぜか、は聞かなかった。自然黙り込んだ。会話の空白に不安を覚え、裕次郎を見つけたときに、最初に考えていたことを話した。すると、裕次郎は愉快そうに笑いだして、「お前は、本当に情の薄い奴だよな」と、言って振り返ってきた。
えくぼに影がさしていた。だけど、裕次郎は少しホッとしたように微笑んでいた。それに肩をすくめて「わざとじゃない。過失だ」と、言って微笑を返した。そうだ。人の思考の原初ってのは、そんなに温かなものじゃない。
ある衝撃の前で、人はいつも一瞬の空白に捕らえられてしまう。その白からは、誰だって、逃げ出すことはできない。だから、あとから津波のように襲いかかってくる情動とは、なにより抗い難い、恐ろしいものなのだろう。
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