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1巻
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しおりを挟む第一章 偽りの幸せは終わりを告げる
──とある公爵令嬢がボルビアン国から国外追放されてから、五年の月日が流れていた。
山々に囲まれたボルビアン国は一年のうち三分の一が雪で覆われ、貿易が盛んな他国と比べると閉鎖的であった。周辺諸国のように後世へ伝えられるような伝説もなければ、魔法や魔術は遥か昔に廃れ、その存在は文献で残っているだけだ。その一方で独自の文化が発展し、様々な職人が生まれた。特に武器や家具の装飾技術は、他国の職人がいくら真似しようとしても真似できない代物だ。
他国が羨む文化を持ちつつも、ボルビアン国は交易を最小限に留めていた。著しく繁栄することもなければ、衰退することもなく……。世襲君主制によって国王が国を統治し、貴族は与えられた領地を守り、平民は不自由なく暮らしていた。
至って平凡で穏やかな国だ。
そんな国に衝撃が走ったのは今から五年前の事だった。
当時、とある公爵令嬢が、第一王子の婚約者でありながら恋に溺れ、嫉妬に狂い、自らの婚約者と仲良くする下級貴族である男爵令嬢を虐げ、さらには殺害まで企てた。
それら全ては白日の下に晒され、彼女は国外追放となった。
次期皇太子妃となる筈だった公爵令嬢の悪行は、貴族だけでなく多くの民に衝撃を与え、大きな混乱を招いたが、近頃は少しずつ落ち着きを取り戻しつつあった。
国を揺るがす大スキャンダルは今も尚、社交界で話題になる。
その度に誰もが公爵令嬢を非難し、嘲笑い、消えてくれたことに感謝していた。話される内容はどれも似たり寄ったりで、彼女を擁護する声は聞こえてこなかった。
彼女は稀代の悪女として、ボルビアン国の歴史にその名を刻んだ。
──一方、国を混乱と恐怖に陥れた公爵令嬢のスキャンダルの裏で、もう一つ語り継がれる物語があった。ボルビアン国唯一の王子と男爵令嬢の、身分違いのロマンスだ。
ボルビアン国には十五歳から十八歳までの貴族の子供が通う学園があった。
しっかりとした教養を身に付け、社交界に出ても恥じない礼儀作法とダンスを学ぶ。同時に、貴族の一員として顔や名を売るのだ。生徒たちの中には横の繋がりを広げる者もいれば、将来の伴侶を探す者もいた。
まさに社会の縮図だ。
学園は、身分に関係なく誰でも自由に学ぶことを方針に掲げていた。
しかし、彼らは当初から他の生徒たちと違っていた。
国王の一人息子である王子を筆頭に、彼の婚約者である公爵令嬢。
宰相の息子である侯爵子息と、王国騎士団総長の息子である伯爵子息と、その婚約者である伯爵令嬢。彼らはいずれこの国の頂点に立ち、王城から群衆を見下ろす存在だった。
他の生徒にとっては近づくことすら恐れ多い彼らだったが、その均衡が崩れたのはいつからだろう。
とある男爵令嬢が、王子と親しげに喋っている姿がしばしば目撃されていた頃からか。
二人は人目も憚らず一緒に過ごしており、妙な噂が流れるのは時間の問題だった。
けれど、事態は思わぬ方向に動いた。
王子の婚約者である公爵令嬢が、自らが持つ権力を行使して男爵令嬢に酷い仕打ちを繰り返したのだ。
王子や、他の者はこぞって公爵令嬢を批難した。幼い頃から仲が良かった王子と公爵令嬢の間には亀裂が走り、二人の距離はどんどん離れていった。
加えて、遅れて入学してきた公爵令嬢の弟ですら彼女を見限り、王子と共に男爵令嬢を守った。
王子と男爵令嬢は誰の目から見ても相思相愛で、身分違いのロマンスがさらに周囲を沸かせた。
そして、事件は起こった。
男爵令嬢が暴漢に襲われたのだ。犯人はその場で捕らえられ、取り押さえられながらこう口走った。
「公爵令嬢に頼まれてやった」、と。
公爵令嬢は知らないと言い張ったが、彼女の味方をする者は誰もいなかった。
家族や兄弟、長年一緒にいた婚約者からも見放され、公爵令嬢は国外追放となった。
国を出ていく彼女の姿はどこか潔く、その姿勢は最後の最後まで崩れることはなかったという。
――それから五年が経った。
まさか、悪女と呼ばれた公爵令嬢の起こした事件の結末が、隣国からやって来た一人の天才魔導師によって覆ることになるとは誰も思わなかっただろう。
とある一つの魔道具で、物語は急展開を迎えることになった。
◇ ◇ ◇
王宮の一角。
男は隣国の使節団と謁見を済ませ、仕事が溜まった執務室に戻ってきた。父親が病に臥してから処理しきれない仕事が回ってきている。
襟や袖口に繊細な刺繍の入った青い上着と白いトラウザーズの組み合わせは着る者を選ぶが、男は堂々と着こなしていた。肩から斜めに掛かった赤いサッシュと金糸の飾緒の輝きから、男の立場が窺える。美しく整った美貌もまた血筋だろう。
従者が部屋の扉を開けると、ワインレッドカラーの上品な絨毯の上を小さな男児が走り回っている様子が見えた。傍らでは一人の女がお茶を嗜んでいる。何とも優雅な光景だ。
「ご機嫌よう、エリオット」
「ちちうえー!」
女はソファーから立ち上がり、男に声をかけた。その脇から、男児が飛び出して男の足元に抱きつく。
男は男児を抱き上げ、ふっくらと膨らんだ頬に口付けた。両者とも黄金色に輝く髪に、宝石のようなエメラルドグリーン色の瞳。絵になる父子だった。
「もう、リオルったら」
女はクスクスと笑いながら、男に近づいてその頬にキスをした。だが、いつもなら返ってくる口付けはなく。女は不思議に思って首を傾げた。
すると、男は男児――息子であるリオルに向かって口を開いた。
「執務室は遊び場じゃないぞ、リオル」
「いいじゃないですか。最近、食事も一緒にとれてませんし」
冷たくされたことに機嫌を損ねた女は、愛らしい頬をぷくーっと膨らませた。男は息子を抱いたままソファーに腰を下ろす。女はその隣に我が物顔で座った。
男は息子を咎めつつ、様々なことを呑み込んで女に向き合った。女――自らの妻に伝えるべきもっと重要な話があったからだ。
「隣国のネオシィスト王国から使節団が来た」
「そうですか。それは大変でしたね」
夫を労う妻としては申し分ない。
だが、彼女の持つ肩書きはごく普通の、どこにでもいる妻とは訳が違った。
男の名は、エリオット・シャル・ロイヤット・ボルビアン──ボルビアン国の王太子である。
そして女は、ジュリエナ・ロイヤット・ボルビアン──エリオットの妻で、王太子妃だった。
話を戻せば、なぜ隣国から使節団がやって来たのか。
その原因はジュリエナにあった。
閉鎖的なボルビアン国だが、隣国であるネオシィスト王国とは年に数回、数少ない交流を続けてきた。大国であるが故に無視することができなかったのだ。
それに、各国の代表が多く集まるネオシィスト王国の祝宴に参加すれば、わざわざ他の国に足を運ばなくとも一堂に挨拶ができる。
──そういえば彼女とも一度だけ訪れたことが……
エリットは一瞬だけ浮かんできた光景にハッとし、薄い唇を噛んだ。
エリオットが立太子するまで、他国との公務は国王と王妃が担っており、隣国を訪れた回数はそれ程多くはなかった。
だからだろう、記憶として残っている思い出は少なく、一つひとつが今でも鮮やかだ。
そして昨年、エリオットは初めてジュリエナを連れてネオシィスト王国を訪問した。妻であり、王太子妃であるジュリエナを紹介する為だ。
しかし、こともあろうかジュリエナは、ネオシィスト王国の特産品に難癖をつけるという失態を犯してしまったのだ。
ジュリエナには思ったことをそのまま口にする癖があった。自国なら許されたかもしれないが、他国ではそうとは限らない。それにあの時は品物を見せてくれた相手が悪かった。特産品を運んできたのはネオシィスト王国の王太子妃だった。
隣国との間に摩擦が生じてはいけないと、エリオットは帰国してからすぐに謝罪の手紙とお詫びの品を贈った。そして、今回訪問してきた使節団はその返答を持ってきたのだ。今後とも良好な関係を続けていこう、と。
その場に居合わせた者たちはホッと胸を撫で下ろしたことだろう。ネオシィスト王国だけには睨まれたくない。
「君は王太子妃として良くやってくれている。だが、他国との外交はとても気を遣わなければならない。何気ない失言で大きな争いを生み兼ねないんだ」
「私には難しいですわ」
「……そうか、分かった。これから外交の公務は私とハルミンで行うことにしよう」
エリオットは有能な右腕の名を出し、溜め息混じりに答えた。
ジュリエナの失態が大事にならなかったのは、優秀な側近が同行していたからだ。彼がジュリエナの代わりに謝罪し、隣国の王太子に掛け合ってくれたおかげだ。女性同士の交流と思って目を離すべきではなかった。
元々、男爵令嬢だったジュリエナは、王族であるエリオットと婚約する為にとある公爵家の養女となった。幼い頃から王妃となる為に教育を受けてきた前婚約者とは異なる。
──なぜ、今頃になって彼女の顔が浮かんでくるんだ。
エリオットはぐっと堪え、息子の髪を撫でた。柔らかい金色の髪が指の間をすり抜けていく。疲れているせいか、今日はいつもより苛立っていた。愛する妻の態度や言葉の一つひとつが癇に障った。
その時、ジュリエナが突然恥ずかしそうに笑いながら体を寄せてきた。甘い香りが鼻孔をくすぐる。明るい茶色の髪に、黒曜石の瞳。豊満な胸の乗った女性らしい体躯。
学園に通っていた頃、男爵令嬢でありながら自由奔放な彼女に誰もが夢中だった。くるくる変わる表情に、庇護欲をそそる声と仕草。あの頃と変わりない。
王太子妃になってもジュリエナは、ジュリエナだった。
「ねぇ、エリオット。そんなことより、王太子妃として肝心なことはもっと他にあるじゃないですか?」
言葉遣いも、学園の頃のままだ。
婚約してから未来の王妃として教育が始まったものの、数ヵ月もしない内に投げ出した。
なのに、誰も彼女を咎めなかった。皆、ジュリエナに甘かった。
「リオルが、弟や妹が欲しいと毎日のようにせがんでくるの」
赤い紅のついた唇を持ち上げて、ジュリエナはエリオットの腕に自らの腕を絡ませてきた。いつもだったら嬉しいそれも、ドレスや行動がまるで娼婦のようだと興醒めする。
姿も、声も、笑顔も、昨日までと変わらない妻なのに。
ジュリエナとは学園で出会った。二人は同じ学年で、クラスメイトだった。
とはいえ、男爵令嬢のジュリエナと王子であるエリオットの間には明確な身分の差があり、最初は挨拶を交わす程度の関係だった。
だが、エリオットの親友がジュリエナと親しくなったことをきっかけに、彼女の存在を認識するようになった。
それからだ。教室以外で、ジュリエナと偶然鉢合わせすることが増えた。そうやって何度も繰り返し会っている内に、次第に二人の距離は近づいていった。
婚約者がいる身でいけないと分かっていても、下級貴族とはいえ自身を軽んじることなく、自由でひたむきに頑張るジュリエナに心を奪われるのは時間の問題だった。
いつしか、彼女に深い愛情を抱くようになった。
だが、この恋は諦めなければいけない。この国唯一の王位継承者として。幼い頃から共に歩いてきた婚約者はもちろん、国を更に良くしていこうと誓った仲間の為に。
けれど、それらはジュリエナの告発で一転した。
「実は……殿下の婚約者に、虐められているのです」
ジュリエナは泣きながら訴えてきたが、エリオットは最初その言葉を信じることができなかった。
婚約者である公爵令嬢のことは、幼い頃から共に過ごしてきた自分が一番よく知っている。そんなことをする女性ではない。
けれど、もしジュリエナの言葉が本当なら、彼女が酷い目に遭っていることに激しい怒りを覚えた。エリオットは直ちに彼女の近辺を調べさせた。
すると、複数人からの聞き込みから、ジュリエナの言葉は真実であると分かった。
エリットは報告を受けたその日に公爵令嬢の元を訪れ、ジュリエナに対する虐めをやめるよう忠告した。公爵令嬢は否定したが、エリオットはジュリエナを信じた。
結局、その後も公爵令嬢は虐めを止めず、最後には平民の男にジュリエナを襲わせた。万が一の為、ジュリエナの側に騎士を張り付けておいて良かった。
その場で取り押さえられた暴漢の証言により、公爵令嬢は国王や多くの貴族が出席する学園の卒業パーティーで断罪された。
エリオットの母親である王妃は実の娘のように可愛がっていた公爵令嬢を最後まで庇ったが、国王は頑として聞き入れず彼女を国外追放にした。王妃は嘆き悲しみ、心労で倒れて今から三年前に亡くなった。
愛する妻を失い、王妃の分まで公務を行っていた国王も数週間前に倒れ、今では寝たきりの状態だ。稀代の悪女となった彼女は、一体どこまで国の者たちを苦しめれば気が済むのか。
──あれほど一緒に過ごしてきたのに……
エリオットは唇を噛んで悔しさを滲ませた。一体いつから公爵令嬢は人を傷つける性格になってしまったのか。どうしてその本性に気づかなかったのか。
しかし、今となっては良かったと思っている。彼女が王太子妃となり、後に国母になっていたら大変だった。
こうして、悪魔に魂を売った前婚約者は追放され、エリオットは愛しい女性と可愛い息子を手に入れた。これ以上の幸福はない。
──そう思うことで、現実から目を逸らしてきたのかもしれない。
エリオットは左手首に焼けるような熱を感じて我に返った。
「……?」
反射的に視線を落とすと、左手首にある銀のブレスレットが青く光っていた。
これは先ほどネオシィスト王国の魔導師が献上してきた品物だ。どんな毒や呪いも無効化できる魔道具だと聞かされた。
例えば毒に侵された時は毒の文字がブレスレットに書かれ、体を巡る前に毒の効果がなくなるという。隣国では王族や貴族なら誰でも身につけていると教えられた。
そして、今。
ブレスレットに浮かんできた文字に、エリオットは血の気が引いた。
「エリオット……?」
ジュリエナが声をあげる。
──なぜだ。
どうして、よりにもよって『それ』なんだ。
エリオットはリオルを床に下ろし、その場で立ち上がってジュリエナを見下ろした。
「どういうことだ。君は一体……?」
そんな筈はない。
違う、違う、と自分自身に言い聞かせた。
けれど、どこかで納得している自分がいた。
すでに心と体のバランスが取れなくなってきたのだろう。ブレスレットがなくてもエリオットの心はとっくに悲鳴を上げていたのだ。
「──っ、王太子妃を部屋に連れていけ!」
エリオットが執務室に控えていた護衛の騎士に命じると、騎士は戸惑いながらも命令に従った。突然のことにジュリエナは目を見開いてエリオットを見上げたが、彼の目は氷のように冷たかった。
「ちょ、なにっ!? どうして、エリオット、エリッ……!」
二人の騎士に両腕をとられ、引き摺られるようにして執務室を出ていくジュリエナを見送る。エリオットの足元には、それを不安そうに見つめる幼い緑色の瞳があった。
◇ ◇ ◇
遡ること数時間前。
ネオシィスト王国の魔導師を名乗った男は、紺色のフードを深く被り、王太子であるエリオットの前に銀色のブレスレットを差し出した。
こちらに差し出された男の手は、革の手袋によって指先まで隠され、年齢どころか肌の色さえ分からない。声から察するに、まだ若い男のようだが、魔導師というだけあって性別も定かではなかった。
声帯だって自在に変えられるチョーカーを見せられたばかりだ。何を信用すればいいか分からない。
ただ、男が差し出してきた魔道具には興味が湧いた。ボルビアン国では、椅子職人によって新しい形の椅子は生まれても、見たこともない品物が生まれることはなかった。
そうして受け取った魔道具は画期的なもので、エリオットは王国を訪問した時にも感じた時代の遅れに再び気づかされた。使節団から要求された貿易の拡大も視野に入れるべきだろうか。
大きな事件から数年、国は落ち着きを取り戻してきた。この国の王太子として何が最良か、選択を求められている気がした。
様々なことに考えを巡らせながら執務室に戻ると、妻と息子がいた。
この二人の為に。
そう思っていた矢先だった……
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