驚異的時間

yoshimax

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倫敦

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 最初に長期滞在した海外の都市はロンドンだった。そのニューカマーとして、ワンダータイムを過ごした。
 ある日のことだった。
 私は前月入学したロンドン大学に属するアート・ギャラリーへと、歩を進めていた。そのギャラリーでは、日本人アーティストのタケゾーという人物が新作の個展を開催している最中だったのだ。そのとき私は単なる、大都会ロンドンのニューカマーであり、右も左も分からなかった。
 ロンドンでは、ビリアード、スヌーカー、そしてピンボールに熱中するようになった。
 昨日もエルダー・スチューデントらとプールバーに居た・・・。
 
 私は気付くと、ロンドン大学の学生達で夜な夜な賑わうパブの、正面ドアの前を通り過ぎようとしていた。この大学には、ギリシャ人、イタリア人、フランス人、アメリカ人、中国人、日本人、タイ人、シンガポール人、韓国人、というように多くの国々から留学生が集まっていた。私達は英語を共通語として互いに意思疎通していた。
 そう、それは香港がまだ英国から中国へ返還される少し前だった。その頃ロンドンで出会う多くの中国人は香港人だった。彼らの中には中国当局に対する非難活動をしている者も居た。ロンドン大学はそのように、世界の多くの地域からやって来る者達で、そのスチューデントが構成されていたから私も居心地が良かった。

 友人がいた。彼女はイタリアの田舎のワイナリー出身の二十歳だった。彼女にとっても、ロンドンは大都会だった。そう、彼女はイタリアの首都であるローマさえ、それほど知らなかったのだから。
 多くの英国人は、彼女がイタリア人だと分かると、「イタリアはファッションセンスが最高だ、すばらしい、車のデザインも個性的でクールだ」と言った。しかし彼女はミラノ出身ではなかったから、そういった言葉に上手く返事出来なかった。
 とはいえ、のちに私がイタリアへと向かうのは、この友人の記憶があったからだろう。

 私は画家の家に育ったが、しかしながら現代芸術が身近になったのは、実はロンドンに住み始めた時からだったのだ。それは一種の、知的で洒落た体験だった。ロンドンには、ICAという現代芸術ギャラリーが在る。ロンドンという古い街の中心に、こうした新しい物を置くところは英国人らしい一面だ。ここでは新しい物と古い物がうまく同居し、機能し合っている。
 ロンドン下町に住み始めて程なく、ICAは私のフェイバリット・プレイスとなったのだ。
 私の美術鑑賞の経緯は、そのようなものだが、・・・まあ、その日は大学付属ギャラリーでタケゾーの個展がある事を、朝、ちょっと前に買ったのに読まずにTVの上に放っておいたTIME・OUT誌で思い出したのだった。タケゾーは時々、ICAに作品を展示していたので、そのアーティストの名は知っていたのだが彼自身に会ったことはなかった。そもそも私は日本の事もあまり知らないのかもしれない。

 前述のイタリアの友人、モニカは日本という国に興味はあった。だが、正直に言えば日本と韓国と中国の区別も出来ない。兵馬俑は中国にあったか、日本だったか、・・・その程度もはっきりしない知識だ。彼女の祖父が日本人の友人からもらった、という芸者の人形が彼女のイタリアの生家に一体あるという。彼女の日本人のイメージはそこから来たものぐらいだ。真っ黒な髪の毛を不思議な形に結った人形・・・。

 パブを通り過ぎると赤煉瓦の三階建があった。そこは学生の私書箱がある建物だ。私はまだロンドン滞在二ヶ月、・・・住所が転々としていた。当初アバディーンホールという学生寮に居たが、その後ロンドン大学まで徒歩で行けるマクミランホールに移動した。
 それで大学の学生私書箱をとりあえずの郵便用住所としていた。
 私は二日に一回、私書箱をチェックした。
 赤煉瓦の三階建は付属ギャラリーに近かったので、タケゾー展に入場する前、私書箱を見にいった。予想通り何もなかった。それはそれでいいのだ。私はマクミランホールから出て下町を歩き、パブを通り、赤煉瓦の三階建を過ぎ、付属ギャラリーへと行く道のりが好きだったのだ。ギャラリーから七十メートル離れた所に私が個人的に間借りした倉庫があった。私はそこで文学研究を始めた。文学、それは人間の心の地図だ。我々は自分の人生しか生きられない。しかし文学は、・・・別の人生を疑似体験させる機能がある。読書とは、今現在我々が置かれているのとは違う状況に自分を送り込むことだ。その状況でどう考えるべきか、何を選ぶべきか、どういう可能性があるのか、それらを仮想する世界だ。多くの文学者または小説家達は様々な状況下の人間の態度、その抗い得ない感情を作品の中に描き出してきた。「善」とは何か「悪」とは何か、それらは状況によって変動さえする。人間が知覚し得る「善悪」とは宇宙のバランスから見ると非常に狭いようだ。「良き」と思ってした事が、後にそうではなかったと分かり、また深く考えずに取った行動を反省したり、・・・我々人間の思考等は感情に支配されやすく、多くの勘違いがある。そんな僕らは経験から次の行動の指針を見つけていく事が多いかもしれない。ロンドンでは、そのような事を文学に於いて研究していたのだ。そして多数の文学作品が聖書をその基点に持っている。
 聖書はフェアリーテールではなく人間の心の地図なのだ。聖書が示す知恵は人間が人間である限り大切だ。人間を人間たらしめ共同生活を可能にする心の取り扱い説明書。聖書は人間が神より授かりし書であると確信する。
 文学者達はよく、人間と言葉は密接な関係がある、と言う。人間は言葉によって支配され得る故、言葉は大切なのだ。
 それでは私が「言葉」というものに長けていたか、といえば全くそうではなかった。どちらかといえば上手く喋れない人間だった。もちろん時によって、人は喋らない方が良い時もあるのだ。聖書に出てくる人物が時々、一時的に神の力によって、言葉を発することが出来なくなってしまうのには何か理由があるのだ。また十戒というものも人間の心の地図のコンパスだ。
 私は「言葉」について考え、又それが蔑ろにされる事があることを此れ迄の人生で体験し、又見てきた。エゴと嘘との関連性、それが言葉を不審な物にもする。
 私はその時、言葉の重さ、インポータンスに疲れてしまっていた時でもあったのだ。そんな時、すでにクラシックだがパブロ・ピカソの美術は心地よい。私がタケゾーの個展を見たくなった理由は彼のアートがピカソに捧げられた物だったからだ。私はロンドンに着いてから、文学のクラスと同時に宗教やアートヒストリーのクラスでも学び始めた。ピカソは現代芸術の扉を開いたアーティストだった。彼は論理より感覚に訴えた。
 言葉イコール論理と、多くの人が受け取るだろうが言葉は感覚の面もある。二十世紀は言葉の感覚的側面が軽視されていた。そう思う。
 タケゾーの個展は良かった。彼は日本で長い間培われたシンプリシティ(この言葉は芸術誌からの受売りでしかない)と、ピカソの持つジョイフルネス、キュリオシティ、イノベーションとを、うまく融合し東西一致を試みていた。ロンドンは「融合」の場でもある。私はその事実を認識する。

 やがて、私はイタリアを放浪するようになった。
 その土地の雰囲気が好きだった。私は長い間イタリアに住んでいた。最後に居たイタリアの地はロンバルディア州の田舎町モンザンバーノ。非常に小さい町だ。心落ち着く教会があった。

 そしてゴッドウィンへ戻って来た。

 私は長く記憶の大部分を失っていた。
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