シンデレラ・マリアージュ

佐倉 紫

文字の大きさ
2 / 26
1巻

1-2

しおりを挟む

「な、なにを……」

 崩れ落ちそうになったマリエンヌはとっさに彼の肩に手をつく。
 そんな彼女を一度上目遣いに見上げ、ロークスは彼女のドレスのすそに、そっと手をかけた。

「いやっ、なに……? あ、いやぁっ!」

 マリエンヌは驚愕きょうがくのあまり目を見開く。
 風が無慈悲むじひに足下を撫でる。ロークスはあろうことか、足下をおおっていたドレスのスカートを大胆にまくり上げてしまったのだ。
 ペチコートと、下着として着ていた丈の長いシュミーズをまとめて持ち上げられ、絹の靴下に包まれた細い足が日の光にさらされてしまう。マリエンヌはドロワーズを身に着けていなかった。さらにその上の腰回りには、靴下を留めるガーターベルトしか身に着けていない。
 女性として隠すべき秘密の場所が、ロークスの手によってたちまち露わにされてしまった。

「やめてっ。お、お願い、離して……!」

 羞恥しゅうちのあまり涙を浮かべながら、マリエンヌは必死に裾を下ろそうとする。
 そんな努力もむなしく、ロークスは彼女の足のあいだを見上げて小さな笑みをこぼした。

「なるほど。夜のように薄暗く隠された場所は、やはり奔放ほんぽうというわけか」
「いやぁ!」

 足のあいだをなにかがかすめ、マリエンヌは柱に頭を押しつける形でのけぞった。
 撫でるようにふれてくるのが彼の指だとわかって、マリエンヌの中に初めて恐怖がきざした。
 これは許してはいけないことだ――知識はなくても、本能的にそう悟り、全身が小刻みに震えてしまう。

「だめ、見ないで……、お願い……っ」
「本当にそう思っているのか?」
「ひっ!」

 指先が再び足のあいだを撫でていく。そのとき、ぴちゃりというかすかな水音が響いて、マリエンヌはわけがわからぬまま真っ赤になった。

「は、ぁ……っ!」
「わかるか? 口づけただけで、これほど濡れる女など見たことがない。やはり噂通り、淫乱いんらんな娘のようだ」
「うっ……」

 マリエンヌは、くしゃりと顔を歪める。そんなふうに言われるなんて……!

「そう泣くな。よくしてやる。美しい庭園を案内してくれた礼だ――」
「えっ……? あっ、い、いや! やめて! やめてぇええ!」

 ロークスの身体が伸び上がるように秘所に近づき、マリエンヌは首をうち振って懇願こんがんする。
 弾みで帽子が落ち、結わえていた髪もほどけてしまうが、もはやそんなことを気にする余裕もなかった。

「いやぁああ……!」

 太腿の裏に手がかけられ、力強く持ち上げられる。片膝が胸につくほど折り曲げられ、マリエンヌは男の目に、秘められた箇所をすべてさらしてしまっていた。
 マリエンヌからは見えなかったが、そこは朝露を含んだ薔薇ばらのようにしっとりと濡れ、日の光を浴びて輝いている。
 呼吸のたびに蜜口が震えるのがたとえようもなく淫靡いんびなのだが、マリエンヌ自身は恥ずかしさのあまり、まともに息もできなかった。

「美しいな」

 不意に、ロークスがささやくようにつぶやいた。
 唇を噛みしめうつむいていたマリエンヌは、場違いな言葉にわずかに顔を上げる。
 彼の視線は変わらずマリエンヌの秘所に注がれたままだ。
 彼の言う「美しい」というのがその部分を指していることに気づき、マリエンヌは大きく息を呑む。
 するとどうしたことか――恐怖に支配されていた心がたちまち緩み、顔が徐々に火照ほてってくる。動悸どうきが速くなり、口内に唾液だえきが溜まって、マリエンヌはごくりと喉を鳴らしてしまった。
 様子が変わったことに気づいてか、ロークスもわずかに目を上げる。
 灰色の瞳がかすかに細められたとき、マリエンヌの心臓はどくんと大きな音を立てて、全身の血をカッと熱く燃え上がらせた。

「あっ……」

 その瞬間、マリエンヌは足のあいだにとろりとした感触を覚える。
 割れ目からあふれたそれが、つう……と太腿へしたたるのを感じ、目の前が真っ赤に染まったような気がした。

「ほう。見られて感じたのか」

 ロークスの笑みが深くなる。
 再び涙ぐんだマリエンヌは、身をよじって彼の手から逃れようとした。

「いやっ、もう離して……、もうやめて……っ!」
「やめられるものか」

 ロークスは持ち上げたマリエンヌの足を自分の肩にかけ、ドレスのすそごと、両手で彼女の腰を掴む。
 がっちりと固定されたマリエンヌは動くに動けない。だがロークスの顔が徐々に秘所に近づいていくのを目の当たりにしては、大人しくしていろと言うほうが無理だった。

「いや! 離して。なにを……っ、……あ、ぁぁあああっ!」

 突如立ちのぼった甘い愉悦ゆえつに、マリエンヌは喉を反らして悲鳴を上げた。
 熱い吐息が、蜜まみれの秘所にかかる。
 同じくらいに熱い舌が、割れ目の少し上のほう――快楽の芽をねっとりと舐め上げてくるのを感じ、マリエンヌはがくがくと全身を震わせた。

「い、いやっ。それ、だめ……、あっ、あぁっ、……いやぁぁあ……っ!」

 ぴちゃぴちゃと音がするほど舐め上げられ、マリエンヌは声を上げる。
 信じられないほどの愉悦がふれたところから立ち上り、下腹の奧を熱く震わせ、全身をびくびくと引きらせた。
 こんな感覚は知らない。
 今にも崩れ落ちそうなのに、どこかに飛んでいきそうになるなんて――

「いやぁ、だめ……っ! あっ、ひぁっ! あぁぁあ……っ!」

 続けざまに舐められ、吸われ、撫で回される。
 痛みはないが、代わりにうねるような快感が全身を這い回り、思考を鈍らせ、身体を熱く震わせた。
 気持ち悪いのに、気持ちいい。下手をすればもっと強くと叫びそうになってしまう。
 マリエンヌはすがりつくものを求めて、気づけば彼の頭を抱え込んでいた。
 柱に背を押しつけ、胸を反らしてのけぞりながら、ぎゅっと彼の髪を掴んでしまう。
 それを抵抗と見てか、ロークスはさらに激しく舌をうごめかせてきた。片方の指を腰から滑らせ、割れ目の入り口をくすぐるように撫でてくる。

「いやぁあ、だ、め……! で、でちゃうっ、お願い、でちゃうのぉ……っ!」

 尿意に似たうずきが快感とともにせり上がってきて、マリエンヌは首をうち振って懇願こんがんする。
 しかし、すがりつく両手はますます彼の頭を引き寄せ、もっともっとと暗に伝えていた。

(あぁ、だめ! 早く離さなくちゃ……でも、もう少しで……!)

 理性とは裏腹に、身体は貪欲どんよくに求めてしまう。
 こんなところで粗相そそうしてしまうわけにはいかないのに。まして彼がそこに顔を埋めている中で……!

「ひっ、ひぅ……、あっ、あぁぁ、だめぇええ……!」
(もうだめ。我慢……できない……!)

 涙に濡れた視界に、柱に絡まる蔓薔薇つたばらがぼんやり映り込んでくる。
 もし今、あの柱の陰から誰かがのぞいてきたら。
 薔薇の陰に隠れて、ふたりの痴態ちたい驚愕きょうがくの表情を浮かべていたなら……
 恐ろしい想像に、背徳感がせり上がってくる。
 なのに、その思いは恐怖ではなく、身体中に渦巻くうずきをさらに加速させてしまった。
 快感が限界まで高まっていく。
 次の瞬間、ロークスの唇が快楽の芽を挟み込み、じゅっと音がするほど強く強く吸い上げてきた。
 頭の中が真っ白になり、意識も理性もはじけ飛ぶ。

「い、や……っ、あぁぁぁああ……っ!!」

 快感のうねりが下腹を震わせ、脳髄のうずいまでをも溶かしていく。
 全身が強ばり、ロークスの肩にかけられた足先がきゅうっときつく丸まった。
 視界がちかちかと明滅していく。
 蔓薔薇つたばらのひとつひとつがまるでこちらを注視しているような気がして、マリエンヌは見られているという感覚を覚えると同時に、さらなる蜜を秘所からあふれさせていた……


 ――気づいたときにはもう夜で、メイド頭のローラが心配そうに枕元をのぞき込んでいた。

「よかったですわ、お気づきになって。今お食事をお持ちしますからね」

 マリエンヌが横にさせられていたのは、屋根裏ではなく客間のひとつだった。
 どうも薔薇園で気を失ったマリエンヌを、ロークスがここまで運んでくれたらしい。

『暖かい日なのに長く日なたにいたものですから、目眩めまいを起こされたのでしょう。こちらの不注意でお嬢様を倒れさせたようで申し訳ない』

 薔薇に魅了されたあまり、つい時間を忘れて……と謝罪したロークスに対し、父リード伯爵は何度も何度も頭を下げて、娘の不作法を謝ったという。

(平然とそんな嘘を言うなんて……わたしが倒れたのはあの方のせいなのに)

 東屋あずまやでのふれあいを思い出し、マリエンヌはたちまち真っ赤になる。
 ふれあい、などという可愛いものではなかった。まだ日も高いうちから、あんなところであんなことをするなんて信じられない。
 マリエンヌには同世代の友人というのがほぼ皆無だ。そのため思春期を迎えても男女の秘め事について知る機会はほとんどなかった。使用人たちの日常の会話から、深い仲になった男女が抱き合うという認識くらいはあったが、その具体的なことなどまるで知らなかったのだ。
 だがもっと信じられないのは、彼のそんな無礼に、自分が快感すら覚えてしまったという事実だ。
 あんな感覚ははじめてだったというのに、限界まで昇りつめてしまうなんて。
 本来なら嫌悪するべきところなのに、なぜか彼の息づかいや舌先を思い出すだけで、身体の奥がむずむずと熱く震えて仕方がない。

「お嬢様? どうかなさったのですか?」
「えっ。い、いいえっ。なんでもないのよ」

 マリエンヌは慌ててローラから食事のトレイを受け取る。
 母親代わりでもある彼女を安心させるべく、食欲はなかったがパンを頬張った。

「お嬢様、決してご無理はなさらないでくださいね。つらいことがあったらすぐにこのローラに言うんですよ?」
「ええ、わかっているわ。食事をありがとう。もう部屋に戻って休むわ」

 屋根裏にある自分の部屋に戻ると、マリエンヌはため息をついてベッドに倒れ込む。
 薄暗く肌寒い屋根裏部屋だというのに、身体に渦巻く熱はちっとも引いていかない。
 彼がふれた唇を無意識のうちに撫でながら、マリエンヌはアルフレッド・ロークスのシニカルな笑顔を思い返していた。
 結局、彼はマリエンヌが身代わりであることに気づかず帰っていったようだ。もし気づかれていたなら、こんな時間まで客間で休むことなどできなかったに違いない。
 ということは、彼はこのまま結婚話を進めてしまうだろう。

(一応、わたしはやるべきことをやり遂げることができたのよね……?)

 マリエンヌの心中はとてもおだやかとは言えなかったが、少なくとも伯爵家が破産に追い込まれる危機からは脱出できたようだ。

(よかった、と喜ぶべきなのに……)

 実際に結婚するのは自分ではなく、マーガレットだと思うと、胸がじくじくとうずくような、苦しい気持ちに駆られてしまう。
 頭の中に、マーガレットとロークスが舌を絡ませ合う図が浮かんできて、すっと手足が冷えた。
 あまりのことに息をのみ、思わず暗闇の中で目を見開いて硬直してしまうが――

(……だ、だからどうだというの。あの方と結婚するのはマーガレットよ。最初からわかっていたはずでしょう?)

 第一、会っていきなり口づけてくるばかりか、それ以上のことにまで及ぶような無礼なひとに、どうしてこんなに心をき乱されなければならないのか。
 彼が別の女性とそういうことをするのを想像して、どうして胸を痛めなければならないのか……
 わからない。
 なのに、気づけばぽろぽろと涙がこぼれてきて、マリエンヌはそんな自分にひどく戸惑った。

(どうして……っ)

 慌てて目元をぬぐうが、涙はひっきりなしにあふれてきて、枕を熱く濡らしてしまう。
 まぶたを閉じるといやでもロークスの顔が浮かんで、息をするのも苦しいほどに胸の奧が痛くなった。

(……考えてはだめよ、マリエンヌ。もう寝るの。明日からはまたメイドとしての仕事が待ってる。泣いている暇なんてないのだから……)

 明日になれば変わらない日常が待っている。
 なんの楽しみもない、労働をするばかりの毎日。
 つらい代わりに、こんなふうに心を痛める出来事もないのだ。
 それが無性に悲しくて、マリエンヌは枕に顔を埋め、小さく嗚咽おえつを漏らした。


    †


 しかし、事態はまたしても思いがけぬ方向へ転がった。
 当初のロークスの申し出は、結婚式は三ヶ月後――結婚の申請がきちんと受理されてから、というものだった。
 しかし彼は教会に申し出、結婚の特別許可証をすでに発行させてしまったらしい。
 そのため結婚式は一週間後となり、準備のためすぐにでもマーガレットを寄越よこすようにと、ロークスから使いがやってきた。しかし突然だったこともあり、使者は数刻後に出直してくることになった。
 当然の如く、マーガレットは全身全霊でこれを拒絶した。

「いやよ! いや、いや、いやっ! どうしてわたしがあんな成金に嫁がなくてはいけないの! お父様はわたしを成金に売り払うつもりなの!?」
「まったくです! なぜ唯々諾々いいだくだくと使いの者に輿こし入れの返事をしてしまったのですか!?」

 やはり伯爵は、ロークスに借金があることを妻と娘に話していないようだ。
 原因の半分は妻と娘の浪費とはいえ、それを正直に言えば伯爵自身が責められることは目に見えている。もとはといえば伯爵に甲斐性がないから、という具合にだ。
 しかし伯爵も引くには引けない。とうとう涙まで流し始めた伯爵に、夫人とマーガレットは気圧けおされたように後ずさった。

「頼む。マーガレット、後生ごしょうだ。頼むから、ロークスのところへ嫁いでおくれ……っ」
「いやったらいや! ――そうよ、またマリエンヌに身代わりをさせればいいのよ!」

 マーガレットが、はらはらしながらやりとりを見ていたマリエンヌに指を突きつけた。

「この前はそれでうまくいったんでしょ? そうよ、結婚が早まったのは、きっとこの女が立場もわきまえずに成金を誘惑したからなんだわ。そうなんでしょうっ?」
「そ、そんな」

 マリエンヌは首を横に振るが、マーガレットの主張にバーバラ夫人は大きくうなずいた。

「確かにその通りね! 成金に愛人の娘――ほほほっ! きっといやしい者同士、話が合ったのでしょうね。なんてお似合いだこと!」

 痛烈に言い放つバーバラ夫人に、マリエンヌの胸はひどく痛む。
 だがそれは自分が愛人の娘と呼ばれたからではなかった。

(ロークス様は他の貴族たちからも、こんなふうに悪く言われているのかしら……)

 確かによくない噂ばかりの成金かもしれないが、実際のアルフレッド・ロークスは美しい容姿をした紳士だった。
 最終的に紳士らしからぬことを仕掛けてはきたが、熱心に薔薇ばらを見つめていた視線はマリエンヌの胸を絡め取って離さない。とげでできた傷を舐めてくれたときの優しい仕草など、未だに夢に出てくるくらいである。
 間違っても、そんなふうにおとしめられていい人間ではないはず。

(彼のもとに、マーガレットの身代わりとして、わたしが嫁ぐ――?)

 とっさに想像をふくらませたマリエンヌは、例のぞくぞくするようなうずきを身体の奥底に感じて戸惑ってしまう。あんな恥ずかしい思いは二度としたくない。なのにこの数日、彼のあのシニカルな笑みを思い出すたび、マリエンヌはなぜか同じ症状に悩まされていた。

「さあさあ、そうと決まったら早く支度をするのです! ローラ! さっさとこの娘を連れてお行き!」
「し、しかし奥様っ」
「バーバラ、待て。マリエンヌは……っ」
「ああもう、言うとおりにしてくださいな!! これ以上この件であたくしたちをわずらわせるのは、やめてくださいまし!」

 バーバラ夫人はきっぱりと言い捨て、自分の部屋に向かって歩き出した。
 マーガレットもそのあとを追いかけていくが、部屋を出る際、マリエンヌにあざけりの笑みを向けることは忘れなかった。

「ま、待てっ、バーバラ……っ」

 伯爵もおたおたしながらふたりのあとを追いかける。
 取り残されたマリエンヌとローラ、それに禿げ頭の家令は、一様に重苦しいため息を漏らしてしまった。

「……お嬢様……」

 どうしたものかと振り返る家令に、マリエンヌは暗い顔のまま口を開いた。

「とにかく……ドレスを用意しましょう。ローラ、手伝ってちょうだい」
「お嬢様、まさかご自分が成金のもとへ嫁ぐおつもりではないでしょうね?」

 ローラも家令も驚いた顔を向けてくる。
 部屋を出ながら、マリエンヌは小さく首を振った。

「用意するのはマーガレットが着ていくドレスよ。荷造りもしないと……使いの方が戻ってくるまでには、お父様もマーガレットを説得なさるはずだわ」

 マリエンヌはローラと協力し、手早くマーガレットの旅装を整えていく。
 隣の部屋からはマーガレットの泣きわめく声と、バーバラ夫人の金切り声がひっきりなしに響いていた。


 結局マーガレットを説き伏せる前にロークス邸から使者が再びやってきてしまい、マリエンヌは大急ぎでドレスに着替えることになった。

「すまない……マリエンヌ、本当にすまない……」
「もう泣かないで、お父様。わたしは大丈夫だから」

 年甲斐もなくすすり泣く父の肩をそっと撫で、マーガレットのドレスに身を包んだマリエンヌは微笑んで見せた。
 部屋に再び戻ってきたバーバラ夫人が、マリエンヌを射殺すような目で見つめながら口を酸っぱくして言う。

「いいこと? もし身代わりがばれて戻ってくるようなことになったら……ここの使用人をひとり残らず馘首クビにして、路頭に迷わせてやるからね!」

 幼い頃から使用人として働いていたマリエンヌにとっては、ローラたちこそ大切にすべき家族だった。
 その家族がみすみす職を失うようなことはさせたくない。
 そうでなくても、身代わりのことが知られれば、この伯爵家は一巻の終わりだ。
 マリエンヌは幸か不幸か、そのことを重々承知していた。

「必ず、必ず、結婚式の日までにはマーガレットをそちらに行かせる。それまで……」
「わかっているわ、お父様。わたしは大丈夫だから」

 式の日までは一週間ある。やしきで必要なのは式の準備であり、仕事の鬼と言われているロークス様と接触することもそうないだろう。なんとかばれないように努めなくては……そう思いながらマリエンヌは何度も「大丈夫」と繰り返し、古い鞄を手に邸の外へ出た。
 鞄はローラからもらったお下がりで、中には替えの下着と簡素なワンピースだけが入っている。先方に身ひとつで構わないと言われていたので、それに甘えることにしたのだ。
 マーガレットだったら、たとえそう言われてもお気に入りのドレスや靴をごっそり持っていくだろう。だがマリエンヌにはそもそも荷物などほとんどなかった。
 そうして本当に身ひとつで邸を出るマリエンヌを、使用人たちは涙を流して見送ってくれた。

「ああ、お嬢様。なんとお気の毒な……」
「泣かないでローラ。ほんの数日のことよ。すぐに戻ってくるわ」

 使用人たちを心配させないため、マリエンヌはあえて明るく笑って見せる。
 ロークス商会の紋章が入った馬車に乗り込み、邸が見えなくなるまで、マリエンヌは笑って見送りの人々に手を振り続けた。
 だが、馬車が曲がり、馥郁ふくいくたる薔薇ばらの香りが遠ざかったとき、こらえていた涙がこぼれそうになり唇を噛みしめる。

(悲しむことなんてなにもないわ。数日すればまた戻ってくるのだから……)

 そう自らに言い聞かせていると、向かいに座ったロークスの使者が、にっこり微笑みかけてきた。

「マーガレット様は、邸の使用人に大変慕われていたようですね」

 慌てて目元をこすりながら、マリエンヌは小さくうなずいた。

「その……みんなとてもよくしてくれたから」
「違いますね」

 マリエンヌは驚いて顔を上げる。
 すると使者の少年は悪戯いたずらっぽく片目をつむって見せた。

「逆ですよ、マーガレット様。あなたがみなによくしてあげたから、使用人たちもあなたとの別れを惜しんでいるんです。どうやらあなたは噂と違い、寛大で思いやり深い方のようですね」
「……」

 マリエンヌは、じっと相手の顔を見つめてしまった。

「これは失礼。僕はロークス氏の従者でリチャードと申します。どうぞお見知りおきを」
「……従者?」

 それにしてはずいぶん若い。
 おまけに異国の血も混ざっているようで、その肌の色はいくぶん浅黒かった。

「母が南方の生まれなもので。もっとも、両親はとうに死んでいますが」
「まあ……」
「旦那様からも注意されるんですが、遠慮のない性格はもう矯正しようがないので、お気に障ったときは遠慮なくおっしゃってください。言い方は気をつけますので」

 あっけらかんと言い放つ少年に、マリエンヌは不覚にも笑ってしまった。

「馬車はこれからロークス邸へと向かいます。マーガレット様のご実家からは少し離れたところにございまして、到着するのと日が落ちるの、どちらが早いかは微妙でございます」
「郊外にあるの?」
「はい。けれど少し下れば街もあって、なかなか過ごしやすい場所ですから」

 リード伯爵邸は他の貴族たちの家同様、高級住宅街の一角に設けられていたが、ロークスが普段生活を送る家はそことは離れたところにあるらしい。
 人嫌いだったり、第一線を退いたりして隠遁いんとん生活を送る貴族は、あえてそういったところに家を構えるものだと聞いたことがある。ロークスも都会の喧噪けんそうを避け、空気のよい郊外に自宅を構えることを選んだのだろうか。

「ちょっと慌ただしいんですが、やしきに着いたらすぐに着替えていただきます。少し遅い時間になりますが、旦那様も今日は邸に戻ってきますので、晩餐ばんさんをご一緒なさってください」
「旦那様……」

 ロークスの笑みが頭に浮かぶと、マリエンヌはたちまち落ち着かない気持ちになってしまった。

「その、ロークス様は、おうちに戻らない日も多いのかしら?」
「むしろそういう日がほとんどですね。会社にも寝床はありますし。あのひとは仕事の虫というか、鬼というか、とにかくそういうひとなんで、常に自分が現場にいないと落ち着かないきらいがあるんですよ」
「まあ、そうなの……」
(それでは休暇を取る暇もないのかしら? 身体を壊してしまわないか心配だわ)

 家に戻ることが少ない、というのは今のマリエンヌにとっては幸いなことだ。そのぶん身代わりが発覚する可能性が減ることに繋がるのだから。だがその相手が仕事ばかりの毎日を送っていると思うと、やはり無関心ではいられなかった。
 その後も馬車は休むことなく走り続けた。
 リチャードの気取らない話しぶりに聞き入ったおかげか、たいした疲れを感じることもなく目的地に到着する。

「さ、長時間お疲れ様でした。ここがロークス氏のお邸です」

 ここが、と言いながら馬車はまだ止まらない。リチャードは窓をおおっていたカーテンをさっと開けた。
 夕暮れに染まる丘が視界いっぱいに広がる。
 マリエンヌは「まあ!」と大きな声をあげた。
 ロークス邸は丘の上に建てられていた。なだらかな丘には多くの木々が生い茂り、たくさんの花が咲いている。邸はそんな木々に埋もれていてもはっきりわかるほど大きく、夕日の照り返しできらきらと橙色だいだいいろに輝いていた。
 馬車は入り口までの一本道を軽快に走っていき、やがて噴水が備えられた門のところでゆっくりと停車する。


しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

愛された側妃と、愛されなかった正妃

編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。 夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。 連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。 正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。 ※カクヨムさんにも掲載中 ※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります ※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?

冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。 オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。 だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。 その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・ 「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」 「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

娼館で元夫と再会しました

無味無臭(不定期更新)
恋愛
公爵家に嫁いですぐ、寡黙な夫と厳格な義父母との関係に悩みホームシックにもなった私は、ついに耐えきれず離縁状を机に置いて嫁ぎ先から逃げ出した。 しかし実家に帰っても、そこに私の居場所はない。 連れ戻されてしまうと危惧した私は、自らの体を売って生計を立てることにした。 「シーク様…」 どうして貴方がここに? 元夫と娼館で再会してしまうなんて、なんという不運なの!

離婚する両親のどちらと暮らすか……娘が選んだのは夫の方だった。

しゃーりん
恋愛
夫の愛人に子供ができた。夫は私と離婚して愛人と再婚したいという。 私たち夫婦には娘が1人。 愛人との再婚に娘は邪魔になるかもしれないと思い、自分と一緒に連れ出すつもりだった。 だけど娘が選んだのは夫の方だった。 失意のまま実家に戻り、再婚した私が数年後に耳にしたのは、娘が冷遇されているのではないかという話。 事実ならば娘を引き取りたいと思い、元夫の家を訪れた。 再び娘が選ぶのは父か母か?というお話です。

妻を蔑ろにしていた結果。

下菊みこと
恋愛
愚かな夫が自業自得で後悔するだけ。妻は結果に満足しています。 主人公は愛人を囲っていた。愛人曰く妻は彼女に嫌がらせをしているらしい。そんな性悪な妻が、屋敷の最上階から身投げしようとしていると報告されて急いで妻のもとへ行く。 小説家になろう様でも投稿しています。

〖完結〗もうあなたを愛する事はありません。

藍川みいな
恋愛
愛していた旦那様が、妹と口付けをしていました…。 「……旦那様、何をしているのですか?」 その光景を見ている事が出来ず、部屋の中へと入り問いかけていた。 そして妹は、 「あら、お姉様は何か勘違いをなさってますよ? 私とは口づけしかしていません。お義兄様は他の方とはもっと凄いことをなさっています。」と… 旦那様には愛人がいて、その愛人には子供が出来たようです。しかも、旦那様は愛人の子を私達2人の子として育てようとおっしゃいました。 信じていた旦那様に裏切られ、もう旦那様を信じる事が出来なくなった私は、離縁を決意し、実家に帰ります。 設定ゆるゆるの、架空の世界のお話です。 全8話で完結になります。

【R18】純粋無垢なプリンセスは、婚礼した冷徹と噂される美麗国王に三日三晩の初夜で蕩かされるほど溺愛される

奏音 美都
恋愛
数々の困難を乗り越えて、ようやく誓約の儀を交わしたグレートブルタン国のプリンセスであるルチアとシュタート王国、国王のクロード。 けれど、それぞれの執務に追われ、誓約の儀から二ヶ月経っても夫婦の時間を過ごせずにいた。 そんなある日、ルチアの元にクロードから別邸への招待状が届けられる。そこで三日三晩の甘い蕩かされるような初夜を過ごしながら、クロードの過去を知ることになる。 2人の出会いを描いた作品はこちら 「純粋無垢なプリンセスを野盗から助け出したのは、冷徹と噂される美麗国王でした」https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/443443630 2人の誓約の儀を描いた作品はこちら 「純粋無垢なプリンセスは、冷徹と噂される美麗国王と誓約の儀を結ぶ」 https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/183445041

お嬢様はお亡くなりになりました。

豆狸
恋愛
「お嬢様は……十日前にお亡くなりになりました」 「な……なにを言っている?」

処理中です...
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
番外編を閲覧することが出来ません。
過去1ヶ月以内にノーチェの小説・漫画を1話以上レンタルしている と、ノーチェのすべての番外編を読むことができます。

このユーザをミュートしますか?

※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。