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1巻
1-2
しおりを挟む「な、なにを……」
崩れ落ちそうになったマリエンヌはとっさに彼の肩に手をつく。
そんな彼女を一度上目遣いに見上げ、ロークスは彼女のドレスの裾に、そっと手をかけた。
「いやっ、なに……? あ、いやぁっ!」
マリエンヌは驚愕のあまり目を見開く。
風が無慈悲に足下を撫でる。ロークスはあろうことか、足下を覆っていたドレスのスカートを大胆にまくり上げてしまったのだ。
ペチコートと、下着として着ていた丈の長いシュミーズをまとめて持ち上げられ、絹の靴下に包まれた細い足が日の光に晒されてしまう。マリエンヌはドロワーズを身に着けていなかった。さらにその上の腰回りには、靴下を留めるガーターベルトしか身に着けていない。
女性として隠すべき秘密の場所が、ロークスの手によってたちまち露わにされてしまった。
「やめてっ。お、お願い、離して……!」
羞恥のあまり涙を浮かべながら、マリエンヌは必死に裾を下ろそうとする。
そんな努力もむなしく、ロークスは彼女の足のあいだを見上げて小さな笑みをこぼした。
「なるほど。夜のように薄暗く隠された場所は、やはり奔放というわけか」
「いやぁ!」
足のあいだをなにかがかすめ、マリエンヌは柱に頭を押しつける形でのけぞった。
撫でるようにふれてくるのが彼の指だとわかって、マリエンヌの中に初めて恐怖が兆した。
これは許してはいけないことだ――知識はなくても、本能的にそう悟り、全身が小刻みに震えてしまう。
「だめ、見ないで……、お願い……っ」
「本当にそう思っているのか?」
「ひっ!」
指先が再び足のあいだを撫でていく。そのとき、ぴちゃりというかすかな水音が響いて、マリエンヌはわけがわからぬまま真っ赤になった。
「は、ぁ……っ!」
「わかるか? 口づけただけで、これほど濡れる女など見たことがない。やはり噂通り、淫乱な娘のようだ」
「うっ……」
マリエンヌは、くしゃりと顔を歪める。そんなふうに言われるなんて……!
「そう泣くな。よくしてやる。美しい庭園を案内してくれた礼だ――」
「えっ……? あっ、い、いや! やめて! やめてぇええ!」
ロークスの身体が伸び上がるように秘所に近づき、マリエンヌは首をうち振って懇願する。
弾みで帽子が落ち、結わえていた髪も解けてしまうが、もはやそんなことを気にする余裕もなかった。
「いやぁああ……!」
太腿の裏に手がかけられ、力強く持ち上げられる。片膝が胸につくほど折り曲げられ、マリエンヌは男の目に、秘められた箇所をすべて晒してしまっていた。
マリエンヌからは見えなかったが、そこは朝露を含んだ薔薇のようにしっとりと濡れ、日の光を浴びて輝いている。
呼吸のたびに蜜口が震えるのがたとえようもなく淫靡なのだが、マリエンヌ自身は恥ずかしさのあまり、まともに息もできなかった。
「美しいな」
不意に、ロークスが囁くように呟いた。
唇を噛みしめうつむいていたマリエンヌは、場違いな言葉にわずかに顔を上げる。
彼の視線は変わらずマリエンヌの秘所に注がれたままだ。
彼の言う「美しい」というのがその部分を指していることに気づき、マリエンヌは大きく息を呑む。
するとどうしたことか――恐怖に支配されていた心がたちまち緩み、顔が徐々に火照ってくる。動悸が速くなり、口内に唾液が溜まって、マリエンヌはごくりと喉を鳴らしてしまった。
様子が変わったことに気づいてか、ロークスもわずかに目を上げる。
灰色の瞳がかすかに細められたとき、マリエンヌの心臓はどくんと大きな音を立てて、全身の血をカッと熱く燃え上がらせた。
「あっ……」
その瞬間、マリエンヌは足のあいだにとろりとした感触を覚える。
割れ目から溢れたそれが、つう……と太腿へしたたるのを感じ、目の前が真っ赤に染まったような気がした。
「ほう。見られて感じたのか」
ロークスの笑みが深くなる。
再び涙ぐんだマリエンヌは、身をよじって彼の手から逃れようとした。
「いやっ、もう離して……、もうやめて……っ!」
「やめられるものか」
ロークスは持ち上げたマリエンヌの足を自分の肩にかけ、ドレスの裾ごと、両手で彼女の腰を掴む。
がっちりと固定されたマリエンヌは動くに動けない。だがロークスの顔が徐々に秘所に近づいていくのを目の当たりにしては、大人しくしていろと言うほうが無理だった。
「いや! 離して。なにを……っ、……あ、ぁぁあああっ!」
突如立ち上った甘い愉悦に、マリエンヌは喉を反らして悲鳴を上げた。
熱い吐息が、蜜まみれの秘所にかかる。
同じくらいに熱い舌が、割れ目の少し上のほう――快楽の芽をねっとりと舐め上げてくるのを感じ、マリエンヌはがくがくと全身を震わせた。
「い、いやっ。それ、だめ……、あっ、あぁっ、……いやぁぁあ……っ!」
ぴちゃぴちゃと音がするほど舐め上げられ、マリエンヌは声を上げる。
信じられないほどの愉悦がふれたところから立ち上り、下腹の奧を熱く震わせ、全身をびくびくと引き攣らせた。
こんな感覚は知らない。
今にも崩れ落ちそうなのに、どこかに飛んでいきそうになるなんて――
「いやぁ、だめ……っ! あっ、ひぁっ! あぁぁあ……っ!」
続けざまに舐められ、吸われ、撫で回される。
痛みはないが、代わりにうねるような快感が全身を這い回り、思考を鈍らせ、身体を熱く震わせた。
気持ち悪いのに、気持ちいい。下手をすればもっと強くと叫びそうになってしまう。
マリエンヌはすがりつくものを求めて、気づけば彼の頭を抱え込んでいた。
柱に背を押しつけ、胸を反らしてのけぞりながら、ぎゅっと彼の髪を掴んでしまう。
それを抵抗と見てか、ロークスはさらに激しく舌をうごめかせてきた。片方の指を腰から滑らせ、割れ目の入り口をくすぐるように撫でてくる。
「いやぁあ、だ、め……! で、でちゃうっ、お願い、でちゃうのぉ……っ!」
尿意に似た疼きが快感とともにせり上がってきて、マリエンヌは首をうち振って懇願する。
しかし、すがりつく両手はますます彼の頭を引き寄せ、もっともっとと暗に伝えていた。
(あぁ、だめ! 早く離さなくちゃ……でも、もう少しで……!)
理性とは裏腹に、身体は貪欲に求めてしまう。
こんなところで粗相してしまうわけにはいかないのに。まして彼がそこに顔を埋めている中で……!
「ひっ、ひぅ……、あっ、あぁぁ、だめぇええ……!」
(もうだめ。我慢……できない……!)
涙に濡れた視界に、柱に絡まる蔓薔薇がぼんやり映り込んでくる。
もし今、あの柱の陰から誰かがのぞいてきたら。
薔薇の陰に隠れて、ふたりの痴態に驚愕の表情を浮かべていたなら……
恐ろしい想像に、背徳感がせり上がってくる。
なのに、その思いは恐怖ではなく、身体中に渦巻く疼きをさらに加速させてしまった。
快感が限界まで高まっていく。
次の瞬間、ロークスの唇が快楽の芽を挟み込み、じゅっと音がするほど強く強く吸い上げてきた。
頭の中が真っ白になり、意識も理性も弾け飛ぶ。
「い、や……っ、あぁぁぁああ……っ!!」
快感のうねりが下腹を震わせ、脳髄までをも溶かしていく。
全身が強ばり、ロークスの肩にかけられた足先がきゅうっときつく丸まった。
視界がちかちかと明滅していく。
蔓薔薇のひとつひとつがまるでこちらを注視しているような気がして、マリエンヌは見られているという感覚を覚えると同時に、さらなる蜜を秘所から溢れさせていた……
――気づいたときにはもう夜で、メイド頭のローラが心配そうに枕元をのぞき込んでいた。
「よかったですわ、お気づきになって。今お食事をお持ちしますからね」
マリエンヌが横にさせられていたのは、屋根裏ではなく客間のひとつだった。
どうも薔薇園で気を失ったマリエンヌを、ロークスがここまで運んでくれたらしい。
『暖かい日なのに長く日なたにいたものですから、目眩を起こされたのでしょう。こちらの不注意でお嬢様を倒れさせたようで申し訳ない』
薔薇に魅了されたあまり、つい時間を忘れて……と謝罪したロークスに対し、父リード伯爵は何度も何度も頭を下げて、娘の不作法を謝ったという。
(平然とそんな嘘を言うなんて……わたしが倒れたのはあの方のせいなのに)
東屋でのふれあいを思い出し、マリエンヌはたちまち真っ赤になる。
ふれあい、などという可愛いものではなかった。まだ日も高いうちから、あんなところであんなことをするなんて信じられない。
マリエンヌには同世代の友人というのがほぼ皆無だ。そのため思春期を迎えても男女の秘め事について知る機会はほとんどなかった。使用人たちの日常の会話から、深い仲になった男女が抱き合うという認識くらいはあったが、その具体的なことなどまるで知らなかったのだ。
だがもっと信じられないのは、彼のそんな無礼に、自分が快感すら覚えてしまったという事実だ。
あんな感覚ははじめてだったというのに、限界まで昇りつめてしまうなんて。
本来なら嫌悪するべきところなのに、なぜか彼の息づかいや舌先を思い出すだけで、身体の奥がむずむずと熱く震えて仕方がない。
「お嬢様? どうかなさったのですか?」
「えっ。い、いいえっ。なんでもないのよ」
マリエンヌは慌ててローラから食事のトレイを受け取る。
母親代わりでもある彼女を安心させるべく、食欲はなかったがパンを頬張った。
「お嬢様、決してご無理はなさらないでくださいね。つらいことがあったらすぐにこのローラに言うんですよ?」
「ええ、わかっているわ。食事をありがとう。もう部屋に戻って休むわ」
屋根裏にある自分の部屋に戻ると、マリエンヌはため息をついてベッドに倒れ込む。
薄暗く肌寒い屋根裏部屋だというのに、身体に渦巻く熱はちっとも引いていかない。
彼がふれた唇を無意識のうちに撫でながら、マリエンヌはアルフレッド・ロークスのシニカルな笑顔を思い返していた。
結局、彼はマリエンヌが身代わりであることに気づかず帰っていったようだ。もし気づかれていたなら、こんな時間まで客間で休むことなどできなかったに違いない。
ということは、彼はこのまま結婚話を進めてしまうだろう。
(一応、わたしはやるべきことをやり遂げることができたのよね……?)
マリエンヌの心中はとても穏やかとは言えなかったが、少なくとも伯爵家が破産に追い込まれる危機からは脱出できたようだ。
(よかった、と喜ぶべきなのに……)
実際に結婚するのは自分ではなく、マーガレットだと思うと、胸がじくじくと疼くような、苦しい気持ちに駆られてしまう。
頭の中に、マーガレットとロークスが舌を絡ませ合う図が浮かんできて、すっと手足が冷えた。
あまりのことに息をのみ、思わず暗闇の中で目を見開いて硬直してしまうが――
(……だ、だからどうだというの。あの方と結婚するのはマーガレットよ。最初からわかっていたはずでしょう?)
第一、会っていきなり口づけてくるばかりか、それ以上のことにまで及ぶような無礼なひとに、どうしてこんなに心を掻き乱されなければならないのか。
彼が別の女性とそういうことをするのを想像して、どうして胸を痛めなければならないのか……
わからない。
なのに、気づけばぽろぽろと涙がこぼれてきて、マリエンヌはそんな自分にひどく戸惑った。
(どうして……っ)
慌てて目元をぬぐうが、涙はひっきりなしに溢れてきて、枕を熱く濡らしてしまう。
瞼を閉じるといやでもロークスの顔が浮かんで、息をするのも苦しいほどに胸の奧が痛くなった。
(……考えてはだめよ、マリエンヌ。もう寝るの。明日からはまたメイドとしての仕事が待ってる。泣いている暇なんてないのだから……)
明日になれば変わらない日常が待っている。
なんの楽しみもない、労働をするばかりの毎日。
つらい代わりに、こんなふうに心を痛める出来事もないのだ。
それが無性に悲しくて、マリエンヌは枕に顔を埋め、小さく嗚咽を漏らした。
†
しかし、事態はまたしても思いがけぬ方向へ転がった。
当初のロークスの申し出は、結婚式は三ヶ月後――結婚の申請がきちんと受理されてから、というものだった。
しかし彼は教会に申し出、結婚の特別許可証をすでに発行させてしまったらしい。
そのため結婚式は一週間後となり、準備のためすぐにでもマーガレットを寄越すようにと、ロークスから使いがやってきた。しかし突然だったこともあり、使者は数刻後に出直してくることになった。
当然の如く、マーガレットは全身全霊でこれを拒絶した。
「いやよ! いや、いや、いやっ! どうしてわたしがあんな成金に嫁がなくてはいけないの! お父様はわたしを成金に売り払うつもりなの!?」
「まったくです! なぜ唯々諾々と使いの者に輿入れの返事をしてしまったのですか!?」
やはり伯爵は、ロークスに借金があることを妻と娘に話していないようだ。
原因の半分は妻と娘の浪費とはいえ、それを正直に言えば伯爵自身が責められることは目に見えている。もとはといえば伯爵に甲斐性がないから、という具合にだ。
しかし伯爵も引くには引けない。とうとう涙まで流し始めた伯爵に、夫人とマーガレットは気圧されたように後ずさった。
「頼む。マーガレット、後生だ。頼むから、ロークスのところへ嫁いでおくれ……っ」
「いやったらいや! ――そうよ、またマリエンヌに身代わりをさせればいいのよ!」
マーガレットが、はらはらしながらやりとりを見ていたマリエンヌに指を突きつけた。
「この前はそれでうまくいったんでしょ? そうよ、結婚が早まったのは、きっとこの女が立場もわきまえずに成金を誘惑したからなんだわ。そうなんでしょうっ?」
「そ、そんな」
マリエンヌは首を横に振るが、マーガレットの主張にバーバラ夫人は大きく頷いた。
「確かにその通りね! 成金に愛人の娘――ほほほっ! きっと卑しい者同士、話が合ったのでしょうね。なんてお似合いだこと!」
痛烈に言い放つバーバラ夫人に、マリエンヌの胸はひどく痛む。
だがそれは自分が愛人の娘と呼ばれたからではなかった。
(ロークス様は他の貴族たちからも、こんなふうに悪く言われているのかしら……)
確かによくない噂ばかりの成金かもしれないが、実際のアルフレッド・ロークスは美しい容姿をした紳士だった。
最終的に紳士らしからぬことを仕掛けてはきたが、熱心に薔薇を見つめていた視線はマリエンヌの胸を絡め取って離さない。棘でできた傷を舐めてくれたときの優しい仕草など、未だに夢に出てくるくらいである。
間違っても、そんなふうに貶められていい人間ではないはず。
(彼のもとに、マーガレットの身代わりとして、わたしが嫁ぐ――?)
とっさに想像をふくらませたマリエンヌは、例のぞくぞくするような疼きを身体の奥底に感じて戸惑ってしまう。あんな恥ずかしい思いは二度としたくない。なのにこの数日、彼のあのシニカルな笑みを思い出すたび、マリエンヌはなぜか同じ症状に悩まされていた。
「さあさあ、そうと決まったら早く支度をするのです! ローラ! さっさとこの娘を連れてお行き!」
「し、しかし奥様っ」
「バーバラ、待て。マリエンヌは……っ」
「ああもう、言うとおりにしてくださいな!! これ以上この件であたくしたちを煩わせるのは、やめてくださいまし!」
バーバラ夫人はきっぱりと言い捨て、自分の部屋に向かって歩き出した。
マーガレットもそのあとを追いかけていくが、部屋を出る際、マリエンヌに嘲りの笑みを向けることは忘れなかった。
「ま、待てっ、バーバラ……っ」
伯爵もおたおたしながらふたりのあとを追いかける。
取り残されたマリエンヌとローラ、それに禿げ頭の家令は、一様に重苦しいため息を漏らしてしまった。
「……お嬢様……」
どうしたものかと振り返る家令に、マリエンヌは暗い顔のまま口を開いた。
「とにかく……ドレスを用意しましょう。ローラ、手伝ってちょうだい」
「お嬢様、まさかご自分が成金のもとへ嫁ぐおつもりではないでしょうね?」
ローラも家令も驚いた顔を向けてくる。
部屋を出ながら、マリエンヌは小さく首を振った。
「用意するのはマーガレットが着ていくドレスよ。荷造りもしないと……使いの方が戻ってくるまでには、お父様もマーガレットを説得なさるはずだわ」
マリエンヌはローラと協力し、手早くマーガレットの旅装を整えていく。
隣の部屋からはマーガレットの泣き喚く声と、バーバラ夫人の金切り声がひっきりなしに響いていた。
結局マーガレットを説き伏せる前にロークス邸から使者が再びやってきてしまい、マリエンヌは大急ぎでドレスに着替えることになった。
「すまない……マリエンヌ、本当にすまない……」
「もう泣かないで、お父様。わたしは大丈夫だから」
年甲斐もなくすすり泣く父の肩をそっと撫で、マーガレットのドレスに身を包んだマリエンヌは微笑んで見せた。
部屋に再び戻ってきたバーバラ夫人が、マリエンヌを射殺すような目で見つめながら口を酸っぱくして言う。
「いいこと? もし身代わりがばれて戻ってくるようなことになったら……ここの使用人をひとり残らず馘首にして、路頭に迷わせてやるからね!」
幼い頃から使用人として働いていたマリエンヌにとっては、ローラたちこそ大切にすべき家族だった。
その家族がみすみす職を失うようなことはさせたくない。
そうでなくても、身代わりのことが知られれば、この伯爵家は一巻の終わりだ。
マリエンヌは幸か不幸か、そのことを重々承知していた。
「必ず、必ず、結婚式の日までにはマーガレットをそちらに行かせる。それまで……」
「わかっているわ、お父様。わたしは大丈夫だから」
式の日までは一週間ある。邸で必要なのは式の準備であり、仕事の鬼と言われているロークス様と接触することもそうないだろう。なんとかばれないように努めなくては……そう思いながらマリエンヌは何度も「大丈夫」と繰り返し、古い鞄を手に邸の外へ出た。
鞄はローラからもらったお下がりで、中には替えの下着と簡素なワンピースだけが入っている。先方に身ひとつで構わないと言われていたので、それに甘えることにしたのだ。
マーガレットだったら、たとえそう言われてもお気に入りのドレスや靴をごっそり持っていくだろう。だがマリエンヌにはそもそも荷物などほとんどなかった。
そうして本当に身ひとつで邸を出るマリエンヌを、使用人たちは涙を流して見送ってくれた。
「ああ、お嬢様。なんとお気の毒な……」
「泣かないでローラ。ほんの数日のことよ。すぐに戻ってくるわ」
使用人たちを心配させないため、マリエンヌはあえて明るく笑って見せる。
ロークス商会の紋章が入った馬車に乗り込み、邸が見えなくなるまで、マリエンヌは笑って見送りの人々に手を振り続けた。
だが、馬車が曲がり、馥郁たる薔薇の香りが遠ざかったとき、こらえていた涙がこぼれそうになり唇を噛みしめる。
(悲しむことなんてなにもないわ。数日すればまた戻ってくるのだから……)
そう自らに言い聞かせていると、向かいに座ったロークスの使者が、にっこり微笑みかけてきた。
「マーガレット様は、邸の使用人に大変慕われていたようですね」
慌てて目元を擦りながら、マリエンヌは小さく頷いた。
「その……みんなとてもよくしてくれたから」
「違いますね」
マリエンヌは驚いて顔を上げる。
すると使者の少年は悪戯っぽく片目をつむって見せた。
「逆ですよ、マーガレット様。あなたがみなによくしてあげたから、使用人たちもあなたとの別れを惜しんでいるんです。どうやらあなたは噂と違い、寛大で思いやり深い方のようですね」
「……」
マリエンヌは、じっと相手の顔を見つめてしまった。
「これは失礼。僕はロークス氏の従者でリチャードと申します。どうぞお見知りおきを」
「……従者?」
それにしてはずいぶん若い。
おまけに異国の血も混ざっているようで、その肌の色はいくぶん浅黒かった。
「母が南方の生まれなもので。もっとも、両親はとうに死んでいますが」
「まあ……」
「旦那様からも注意されるんですが、遠慮のない性格はもう矯正しようがないので、お気に障ったときは遠慮なく仰ってください。言い方は気をつけますので」
あっけらかんと言い放つ少年に、マリエンヌは不覚にも笑ってしまった。
「馬車はこれからロークス邸へと向かいます。マーガレット様のご実家からは少し離れたところにございまして、到着するのと日が落ちるの、どちらが早いかは微妙でございます」
「郊外にあるの?」
「はい。けれど少し下れば街もあって、なかなか過ごしやすい場所ですから」
リード伯爵邸は他の貴族たちの家同様、高級住宅街の一角に設けられていたが、ロークスが普段生活を送る家はそことは離れたところにあるらしい。
人嫌いだったり、第一線を退いたりして隠遁生活を送る貴族は、あえてそういったところに家を構えるものだと聞いたことがある。ロークスも都会の喧噪を避け、空気のよい郊外に自宅を構えることを選んだのだろうか。
「ちょっと慌ただしいんですが、邸に着いたらすぐに着替えていただきます。少し遅い時間になりますが、旦那様も今日は邸に戻ってきますので、晩餐をご一緒なさってください」
「旦那様……」
ロークスの笑みが頭に浮かぶと、マリエンヌはたちまち落ち着かない気持ちになってしまった。
「その、ロークス様は、おうちに戻らない日も多いのかしら?」
「むしろそういう日がほとんどですね。会社にも寝床はありますし。あのひとは仕事の虫というか、鬼というか、とにかくそういうひとなんで、常に自分が現場にいないと落ち着かないきらいがあるんですよ」
「まあ、そうなの……」
(それでは休暇を取る暇もないのかしら? 身体を壊してしまわないか心配だわ)
家に戻ることが少ない、というのは今のマリエンヌにとっては幸いなことだ。そのぶん身代わりが発覚する可能性が減ることに繋がるのだから。だがその相手が仕事ばかりの毎日を送っていると思うと、やはり無関心ではいられなかった。
その後も馬車は休むことなく走り続けた。
リチャードの気取らない話しぶりに聞き入ったおかげか、たいした疲れを感じることもなく目的地に到着する。
「さ、長時間お疲れ様でした。ここがロークス氏のお邸です」
ここが、と言いながら馬車はまだ止まらない。リチャードは窓を覆っていたカーテンをさっと開けた。
夕暮れに染まる丘が視界いっぱいに広がる。
マリエンヌは「まあ!」と大きな声をあげた。
ロークス邸は丘の上に建てられていた。なだらかな丘には多くの木々が生い茂り、たくさんの花が咲いている。邸はそんな木々に埋もれていてもはっきりわかるほど大きく、夕日の照り返しできらきらと橙色に輝いていた。
馬車は入り口までの一本道を軽快に走っていき、やがて噴水が備えられた門のところでゆっくりと停車する。
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