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己の欲せざるキスは人に施す勿れ

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「ここの支払いは俺がするから」
「でも壮介、お金ないんでしょ?」
「なんとかする。それくらいはしないとな」

今頃になって男気見せられてもな。
そんな姿は、どうせならもっと早く見たかった。
思わず苦笑いすると、壮介も笑った。

「今更なんだけど……壮介は、私の事、好きだった?」
「もちろん好きだと思ったから付き合ってたし、一緒に暮らしてたんだと思う。だけどだんだん好きって気持ちが最初とは違ってきて……一緒にいた期間の後半の方は、なんか家族に近かった気がする」

壮介の『家族に近かった』という言葉は、私の中にストンと落ちてきた。
私も壮介を家族みたいに思っていたから、一緒にいてもドキドキしなかったのかな。

「ああ……なるほどね。私もそうなのかも。もう家族にはなれないけどね」
「うん……。ごめんな、長い間縛り付けて」
「もういいや。これからまた、ちゃんと好きになって、家族になりたいって思える人探す」
「ん?これから探すって……彼氏は?」

ああ、そうか。
壮介は順平の事を私の彼氏だと思っているんだった。

「そうだね。それも考えとく」
「じゃあ……俺、行くよ」
「うん。ありがとう。元気でね」

その言葉は、私の口から自然に飛び出した。
結婚式直前に他の女を選んで私を捨てた婚約者にお礼を言うのもおかしな話だ。
だけどなぜだか、そう言いたかった。

「ありがとう。元気でな」

壮介もそう言って、笑って手を振った。
壮介とは結婚して幸せになれなかったけれど、私はやっと、順平を忘れるために壮介と一緒に過ごした日々も、全く無駄ではなかったと思えた。


私が一人で個室に戻ると、みんな黙々と食事をしていた。
非常に気まずい……。
食事会が終わるまで、この場の空気に耐えられるかな。
私が静かに席に着くと、父方の親戚の中でも一番の発言力を持つ伯父さんが、箸を止める事なくポツリと呟いた。

「できちまったもんは仕方ねぇな。結婚する前にわかって良かったんじゃないか?」
「う……うん……」

他の親戚もうなずいている。
同情混じりのその視線は少々痛かったけれど、しばらく経ったら言うつもりだった『離婚しました』の言葉に向けられるものよりはマシなのかも知れない。

「まだまだ若いんだから、またいい人見つけなさい。今度はちゃんと結婚式に招待してね」

母方の伯母さんが、笑ってそう言った。
伯母さんからはこれまで何度も『朱里ちゃんもそろそろいい歳なんだから』と言われていたのだけど、それも今だけは忘れた事にしておこう。

「はい、頑張ります……」

それ以上は、誰も何も言わなかった。
結婚すると嘘をつかずに、最初から本当の事を話していれば良かったのかなと思う。
だけどきっと、壮介が来て本当の事を話し頭を下げたから、これ以上は何も言えなかったんじゃないかとも思う。
そう考えると、順平のお節介は結果的に良い方へ転んだという事だ。

それからしばらくして、食事会は無事に終わった。
それにしても順平はどこに行ったんだろう?
壮介が来るとわかっていたから、ここに来て姿を消したのかな。
きっと壮介が来なかった時は契約通り偽壮介を演じるつもりで、きちんとした格好をしていたのだろう。
もしかしたら順平は、偽壮介になって本当の事を話すつもりだったのかも知れない。
サクラの依頼の内容とは違うけれど、順平は順平なりに私の事を思ってくれているんだなと思うと、それは素直に嬉しかった。


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