32 / 45
少しだけ
5
しおりを挟む
マスターがギムレットを差し出すと、愛美は浮かない顔をしてグラスを受け取る。
「この間、政弘しょげてたよ。愛美ちゃんに嫌われちゃったみたいだって」
「支部長のことは元々嫌いだし、約束を守れない人はもっと嫌い」
「そっか、デートドタキャンされたから?」
マスターの思わぬ言葉に、愛美は驚いて目を見開いた。
「……知ってるの?」
「得意先の社長さんが事故で怪我して入院したらガンが見つかったって奥さんから連絡があって、手続きに行ったって言ってたよ」
「らしいね。今日、その奥さんから電話があった」
「政弘が新入社員の頃からずっと世話になってる社長さんらしいな。ガンだって聞いて、居ても立ってもいられなかったんだってさ。慌てて駆け付けたけど、思ったより元気そうで良かったって言ってた」
「そう……」
話を聞こうともせず、緒川支部長の気持ちも考えないで、一方的に大嫌いだとか別れるとか言ってしまった。
あれほど好きだと言っていたのに急に素っ気なくなったと言う事は、わがままな自分にがっかりして熱も覚めてしまったのは間違いないだろう。
そう思うと、愛美の胸がチクリと痛む。
マスターは果物ナイフを手に取り、カウンターの上に置かれたかごから取り出したリンゴの皮を剥きながら話を続けた。
「あいつ、大学時代に親父さんが大病患ってさ。その時の保険屋の兄ちゃんが、めちゃくちゃ親身になっていろいろ気に掛けてくれたんだって」
「へぇ……」
「だから自分もそんな仕事がしたいと思って、今の会社に就職したんだって言ってた。営業向きの性格じゃなかったから、しばらくは苦しかったみたいだけどな」
「そうなんだ。支部長にもそんな時代があったんだね。今では考えられないけど」
マスターは皮を剥いて8つに切り分けたリンゴをお皿に乗せ、フォークを添えて愛美の前に置いた。
「うちの親が作ったリンゴ。昨日送ってきたんだ。食べて」
「ありがと……」
愛美はフォークで刺したリンゴを口に運んだ。
「政弘は真面目で優しいからな。社長さんの事も奥さんの事もほっておけなかったんだろ」
「私の事はほっといても?」
「ホントは愛美ちゃんに会いたかったと思うよ。仕事終わって電話しても繋がらないし、メッセージ送っても返信ないし、家まで行っても出て来てくれなかったって、めちゃくちゃ落ち込んでた」
愛美はマスターの話を聞きながら、緒川支部長の切なげな声を思い出してため息をついた。
マスターはうつむいてため息をつく愛美を優しい目で見ている。
「少しだけでいいから、政弘の事許してあげたら?」
「……支部長も私の事、嫌いになったみたいだけど?」
「なんでそう思うの?」
「あれから私の顔も見ようとしないし……。それに聞かれちゃったから、支部長に」
愛美は金井さんとのやり取りと、それを緒川支部長に聞かれていた事をマスターに話した。
「『支部長みたいな人とは一緒になれないわね』って言われて、私は『そうですね』って言った……。ホントの事だけど……何て言うか……」
「愛美ちゃん。たしかに政弘はデートドタキャンしたけど、他の女と会うためとか気分が乗らないとか、自分勝手な理由じゃないよ?」
「うん……わかってる……。こういう仕事だし、特にそういう時にすぐ駆け付けるのは当たり前だって、わかってる。でも……」
うつむき黙り込んでしまった愛美の頭を、マスターは優しく撫でた。
「昔の事思い出して、もう戻って来ないかもって怖くなった?」
「……うん」
「愛美ちゃん、政弘は政弘だよ」
「うん……。それもわかってる……」
愛美の目から自然に涙がこぼれ落ちた。
仕事中の緒川支部長が大嫌いだと思っていたのに、普段の甘くて優しい緒川支部長に惹かれ始めていた。
だけど、仕事のために別人のようになれるのなら、今は優しくても、いつかそのうち変わってしまうかも知れないと思うと怖かった。
また傷付くのが怖くて、これ以上好きにならないように遠ざけようとしたのは自分のはずなのに、緒川支部長に何事もなかったようなそっけない態度を取られると胸が痛んだ。
いつの間にか緒川支部長の事が頭から離れなくなっていると愛美は気付く。
「頭ではわかってても、どうにもならない気持ちってあるよ。愛美ちゃんは政弘に会いたかったんだよな」
「うん……」
愛美は考えるより先に素直にうなずいていた。
マスターは嬉しそうに笑って、愛美の頭をポンポンと優しく叩いた。
「だったら、少しだけ勇気出してみる?」
「この間、政弘しょげてたよ。愛美ちゃんに嫌われちゃったみたいだって」
「支部長のことは元々嫌いだし、約束を守れない人はもっと嫌い」
「そっか、デートドタキャンされたから?」
マスターの思わぬ言葉に、愛美は驚いて目を見開いた。
「……知ってるの?」
「得意先の社長さんが事故で怪我して入院したらガンが見つかったって奥さんから連絡があって、手続きに行ったって言ってたよ」
「らしいね。今日、その奥さんから電話があった」
「政弘が新入社員の頃からずっと世話になってる社長さんらしいな。ガンだって聞いて、居ても立ってもいられなかったんだってさ。慌てて駆け付けたけど、思ったより元気そうで良かったって言ってた」
「そう……」
話を聞こうともせず、緒川支部長の気持ちも考えないで、一方的に大嫌いだとか別れるとか言ってしまった。
あれほど好きだと言っていたのに急に素っ気なくなったと言う事は、わがままな自分にがっかりして熱も覚めてしまったのは間違いないだろう。
そう思うと、愛美の胸がチクリと痛む。
マスターは果物ナイフを手に取り、カウンターの上に置かれたかごから取り出したリンゴの皮を剥きながら話を続けた。
「あいつ、大学時代に親父さんが大病患ってさ。その時の保険屋の兄ちゃんが、めちゃくちゃ親身になっていろいろ気に掛けてくれたんだって」
「へぇ……」
「だから自分もそんな仕事がしたいと思って、今の会社に就職したんだって言ってた。営業向きの性格じゃなかったから、しばらくは苦しかったみたいだけどな」
「そうなんだ。支部長にもそんな時代があったんだね。今では考えられないけど」
マスターは皮を剥いて8つに切り分けたリンゴをお皿に乗せ、フォークを添えて愛美の前に置いた。
「うちの親が作ったリンゴ。昨日送ってきたんだ。食べて」
「ありがと……」
愛美はフォークで刺したリンゴを口に運んだ。
「政弘は真面目で優しいからな。社長さんの事も奥さんの事もほっておけなかったんだろ」
「私の事はほっといても?」
「ホントは愛美ちゃんに会いたかったと思うよ。仕事終わって電話しても繋がらないし、メッセージ送っても返信ないし、家まで行っても出て来てくれなかったって、めちゃくちゃ落ち込んでた」
愛美はマスターの話を聞きながら、緒川支部長の切なげな声を思い出してため息をついた。
マスターはうつむいてため息をつく愛美を優しい目で見ている。
「少しだけでいいから、政弘の事許してあげたら?」
「……支部長も私の事、嫌いになったみたいだけど?」
「なんでそう思うの?」
「あれから私の顔も見ようとしないし……。それに聞かれちゃったから、支部長に」
愛美は金井さんとのやり取りと、それを緒川支部長に聞かれていた事をマスターに話した。
「『支部長みたいな人とは一緒になれないわね』って言われて、私は『そうですね』って言った……。ホントの事だけど……何て言うか……」
「愛美ちゃん。たしかに政弘はデートドタキャンしたけど、他の女と会うためとか気分が乗らないとか、自分勝手な理由じゃないよ?」
「うん……わかってる……。こういう仕事だし、特にそういう時にすぐ駆け付けるのは当たり前だって、わかってる。でも……」
うつむき黙り込んでしまった愛美の頭を、マスターは優しく撫でた。
「昔の事思い出して、もう戻って来ないかもって怖くなった?」
「……うん」
「愛美ちゃん、政弘は政弘だよ」
「うん……。それもわかってる……」
愛美の目から自然に涙がこぼれ落ちた。
仕事中の緒川支部長が大嫌いだと思っていたのに、普段の甘くて優しい緒川支部長に惹かれ始めていた。
だけど、仕事のために別人のようになれるのなら、今は優しくても、いつかそのうち変わってしまうかも知れないと思うと怖かった。
また傷付くのが怖くて、これ以上好きにならないように遠ざけようとしたのは自分のはずなのに、緒川支部長に何事もなかったようなそっけない態度を取られると胸が痛んだ。
いつの間にか緒川支部長の事が頭から離れなくなっていると愛美は気付く。
「頭ではわかってても、どうにもならない気持ちってあるよ。愛美ちゃんは政弘に会いたかったんだよな」
「うん……」
愛美は考えるより先に素直にうなずいていた。
マスターは嬉しそうに笑って、愛美の頭をポンポンと優しく叩いた。
「だったら、少しだけ勇気出してみる?」
1
あなたにおすすめの小説
ヒロインになれませんが。
橘しづき
恋愛
安西朱里、二十七歳。
顔もスタイルもいいのに、なぜか本命には選ばれず変な男ばかり寄ってきてしまう。初対面の女性には嫌われることも多く、いつも気がつけば当て馬女役。損な役回りだと友人からも言われる始末。 そんな朱里は、異動で営業部に所属することに。そこで、タイプの違うイケメン二人を発見。さらには、真面目で控えめ、そして可愛らしいヒロイン像にぴったりの女の子も。
イケメンのうち一人の片思いを察した朱里は、その二人の恋を応援しようと必死に走り回るが……。
全然上手くいかなくて、何かがおかしい??
腹黒上司が実は激甘だった件について。
あさの紅茶
恋愛
私の上司、坪内さん。
彼はヤバいです。
サラサラヘアに甘いマスクで笑った顔はまさに王子様。
まわりからキャーキャー言われてるけど、仕事中の彼は腹黒悪魔だよ。
本当に厳しいんだから。
ことごとく女子を振って泣かせてきたくせに、ここにきて何故か私のことを好きだと言う。
マジで?
意味不明なんだけど。
めっちゃ意地悪なのに、かいま見える優しさにいつしか胸がぎゅっとなってしまうようになった。
素直に甘えたいとさえ思った。
だけど、私はその想いに応えられないよ。
どうしたらいいかわからない…。
**********
この作品は、他のサイトにも掲載しています。
五年越しの再会と、揺れる恋心
柴田はつみ
恋愛
春山千尋24歳は五年前に広瀬洋介27歳に振られたと思い込み洋介から離れた。
千尋は今大手の商事会社に副社長の秘書として働いている。
ある日振られたと思い込んでいる千尋の前に洋介が社長として現れた。
だが千尋には今中田和也26歳と付き合っている。
千尋の気持ちは?
【完結済】25億で極道に売られた女。姐になります!
satomi
恋愛
昼夜問わずに働く18才の主人公南ユキ。
働けども働けどもその収入は両親に搾取されるだけ…。睡眠時間だって2時間程度しかないのに、それでもまだ働き口を増やせと言う両親。
早朝のバイトで頭は朦朧としていたけれど、そんな時にうちにやってきたのは白虎商事CEOの白川大雄さん。ポーンっと25億で私を買っていった。
そんな大雄さん、白虎商事のCEOとは別に白虎組組長の顔を持っていて、私に『姐』になれとのこと。
大丈夫なのかなぁ?
それは、ホントに不可抗力で。
樹沙都
恋愛
これ以上他人に振り回されるのはまっぴらごめんと一大決意。人生における全ての無駄を排除し、おひとりさまを謳歌する歩夢の前に、ひとりの男が立ちはだかった。
「まさか、夫の顔……を、忘れたとは言わないだろうな? 奥さん」
その婚姻は、天の啓示か、はたまた……ついうっかり、か。
恋に仕事に人間関係にと翻弄されるお人好しオンナ関口歩夢と腹黒大魔王小林尊の攻防戦。
まさにいま、開始のゴングが鳴った。
まあね、所詮、人生は不可抗力でできている。わけよ。とほほっ。
結婚直後にとある理由で離婚を申し出ましたが、 別れてくれないどころか次期社長の同期に執着されて愛されています
霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
「結婚したらこっちのもんだ。
絶対に離婚届に判なんて押さないからな」
既婚マウントにキレて勢いで同期の紘希と結婚した純華。
まあ、悪い人ではないし、などと脳天気にかまえていたが。
紘希が我が社の御曹司だと知って、事態は一転!
純華の誰にも言えない事情で、紘希は絶対に結婚してはいけない相手だった。
離婚を申し出るが、紘希は取り合ってくれない。
それどころか紘希に溺愛され、惹かれていく。
このままでは紘希の弱点になる。
わかっているけれど……。
瑞木純華
みずきすみか
28
イベントデザイン部係長
姉御肌で面倒見がいいのが、長所であり弱点
おかげで、いつも多数の仕事を抱えがち
後輩女子からは慕われるが、男性とは縁がない
恋に関しては夢見がち
×
矢崎紘希
やざきひろき
28
営業部課長
一般社員に擬態してるが、会長は母方の祖父で次期社長
サバサバした爽やかくん
実体は押しが強くて粘着質
秘密を抱えたまま、あなたを好きになっていいですか……?
【完結】溺愛予告~御曹司の告白躱します~
蓮美ちま
恋愛
モテる彼氏はいらない。
嫉妬に身を焦がす恋愛はこりごり。
だから、仲の良い同期のままでいたい。
そう思っているのに。
今までと違う甘い視線で見つめられて、
“女”扱いしてるって私に気付かせようとしてる気がする。
全部ぜんぶ、勘違いだったらいいのに。
「勘違いじゃないから」
告白したい御曹司と
告白されたくない小ボケ女子
ラブバトル開始
君がたとえあいつの秘書でも離さない
花里 美佐
恋愛
クリスマスイブのホテルで偶然出会い、趣味が合ったことから強く惹かれあった古川遥(27)と堂本匠(31)。
のちに再会すると、実はライバル会社の御曹司と秘書という関係だった。
逆風を覚悟の上、惹かれ合うふたりは隠れて交際を開始する。
それは戻れない茨の道に踏み出したも同然だった。
遥に想いを寄せていた彼女の上司は、仕事も巻き込み匠を追い詰めていく。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる