オフィスにラブは落ちてねぇ!!

櫻井音衣

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少しだけ

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マスターがギムレットを差し出すと、愛美は浮かない顔をしてグラスを受け取る。

「この間、政弘しょげてたよ。愛美ちゃんに嫌われちゃったみたいだって」
「支部長のことは元々嫌いだし、約束を守れない人はもっと嫌い」
「そっか、デートドタキャンされたから?」

マスターの思わぬ言葉に、愛美は驚いて目を見開いた。

「……知ってるの?」
「得意先の社長さんが事故で怪我して入院したらガンが見つかったって奥さんから連絡があって、手続きに行ったって言ってたよ」
「らしいね。今日、その奥さんから電話があった」
「政弘が新入社員の頃からずっと世話になってる社長さんらしいな。ガンだって聞いて、居ても立ってもいられなかったんだってさ。慌てて駆け付けたけど、思ったより元気そうで良かったって言ってた」
「そう……」

話を聞こうともせず、緒川支部長の気持ちも考えないで、一方的に大嫌いだとか別れるとか言ってしまった。
あれほど好きだと言っていたのに急に素っ気なくなったと言う事は、わがままな自分にがっかりして熱も覚めてしまったのは間違いないだろう。
そう思うと、愛美の胸がチクリと痛む。
マスターは果物ナイフを手に取り、カウンターの上に置かれたかごから取り出したリンゴの皮を剥きながら話を続けた。

「あいつ、大学時代に親父さんが大病患ってさ。その時の保険屋の兄ちゃんが、めちゃくちゃ親身になっていろいろ気に掛けてくれたんだって」
「へぇ……」
「だから自分もそんな仕事がしたいと思って、今の会社に就職したんだって言ってた。営業向きの性格じゃなかったから、しばらくは苦しかったみたいだけどな」
「そうなんだ。支部長にもそんな時代があったんだね。今では考えられないけど」

マスターは皮を剥いて8つに切り分けたリンゴをお皿に乗せ、フォークを添えて愛美の前に置いた。

「うちの親が作ったリンゴ。昨日送ってきたんだ。食べて」
「ありがと……」

愛美はフォークで刺したリンゴを口に運んだ。

「政弘は真面目で優しいからな。社長さんの事も奥さんの事もほっておけなかったんだろ」
「私の事はほっといても?」
「ホントは愛美ちゃんに会いたかったと思うよ。仕事終わって電話しても繋がらないし、メッセージ送っても返信ないし、家まで行っても出て来てくれなかったって、めちゃくちゃ落ち込んでた」

愛美はマスターの話を聞きながら、緒川支部長の切なげな声を思い出してため息をついた。
マスターはうつむいてため息をつく愛美を優しい目で見ている。

「少しだけでいいから、政弘の事許してあげたら?」
「……支部長も私の事、嫌いになったみたいだけど?」
「なんでそう思うの?」
「あれから私の顔も見ようとしないし……。それに聞かれちゃったから、支部長に」

愛美は金井さんとのやり取りと、それを緒川支部長に聞かれていた事をマスターに話した。

「『支部長みたいな人とは一緒になれないわね』って言われて、私は『そうですね』って言った……。ホントの事だけど……何て言うか……」
「愛美ちゃん。たしかに政弘はデートドタキャンしたけど、他の女と会うためとか気分が乗らないとか、自分勝手な理由じゃないよ?」
「うん……わかってる……。こういう仕事だし、特にそういう時にすぐ駆け付けるのは当たり前だって、わかってる。でも……」

うつむき黙り込んでしまった愛美の頭を、マスターは優しく撫でた。

「昔の事思い出して、もう戻って来ないかもって怖くなった?」
「……うん」
「愛美ちゃん、政弘は政弘だよ」
「うん……。それもわかってる……」

愛美の目から自然に涙がこぼれ落ちた。
仕事中の緒川支部長が大嫌いだと思っていたのに、普段の甘くて優しい緒川支部長に惹かれ始めていた。
だけど、仕事のために別人のようになれるのなら、今は優しくても、いつかそのうち変わってしまうかも知れないと思うと怖かった。
また傷付くのが怖くて、これ以上好きにならないように遠ざけようとしたのは自分のはずなのに、緒川支部長に何事もなかったようなそっけない態度を取られると胸が痛んだ。
いつの間にか緒川支部長の事が頭から離れなくなっていると愛美は気付く。

「頭ではわかってても、どうにもならない気持ちってあるよ。愛美ちゃんは政弘に会いたかったんだよな」
「うん……」

愛美は考えるより先に素直にうなずいていた。
マスターは嬉しそうに笑って、愛美の頭をポンポンと優しく叩いた。

「だったら、少しだけ勇気出してみる?」



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