リョウタの話

安倍川きなこ

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リョウタの話〜中後編〜

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「あ、おはようございます。えーと…。」
 リョウタはどうするか迷った。
「どこか出かけるのかな?邪魔なようなら私は退散しよう。」
 社長は背後の先輩をチラリと見遣りながらリョウタに問う。
「あ、えーと。今日は物件の下見とか、ショッピングモールで買い物なんです。社長もお時間が合うようでしたら。」
 先輩はリョウタの選択に口を挟むことはしなかった。
 かくして、リョウタは社長と先輩と三人で家を出た。物件はなかなかいいところが見つからず、休憩も兼ねてリョウタ達は昼頃にショッピングモールに到着した。そこそこに昼食を済ませ、これからのリョウタの生活に必要なものを見て回る。
「服とかも揃えといた方がいいぞ。これから季節の変わり目だからな。」
 と先輩は適当にリョウタに服などを見繕う。社長はその様子をただ見ているしかなかった。何か聞かれれば答えるが、必要以上に口を挟んでリョウタに煙たがられたくなかった。あと先輩からの圧が余計にそれを助長していた。
(気まずい。しかしこれからのリョウタの動向を掴むためには同行するしかない。)
 今のところリョウタから割と好意的に接してもらえていることでなんとかこの場にいられるだけだ。
「あ、ケータイ…。」
 そろそろお開きかと言うところで、リョウタは思い出したように呟いた。
「ああ、契約するんだったな。ごめん、忘れるところだった。」
 先輩はそう言うと、素早くリョウタを携帯電話ショップへと誘導していく。
(忘れていてくれた方が良かったのに。)
 先輩は少しだけそんな思いを抱きながらも、そんな態度は微塵も見せずにリョウタと笑い合いながらショップに到着した。
「いらっしゃいませ~。何かお探しですかぁ?」
 少し気だるい店員のお出迎えを受けつつ、三人で機種やプランを話し合い、リョウタは新しい携帯を手に入れた。
 リョウタはあまり機種に頓着しない方で、型落ちした安いものでいいと主張したのだが、社長から最先端機種を無理矢理押し付けられた。
「これから頻繁に使うことになるならこのくらいのものを持っておいた方がいい。」
 とのことだった。機種代はもちろん社長が一括で支払うという。
「いえ、そんな。悪いです。」
 恐縮しまくるリョウタを前に、社長は有無を言わさず見たことのない色のカードで華麗に決済を済ませた。
「これも投資の一環だよ。君の未来へのね。」
 社長はリョウタに良い贈り物をしたと鼻高々に自慢したい気分だった。
 先輩は静観していたが、相変わらずズレた発言をする社長に冷たい視線を送っていた。
 その視線に気づいた社長は先輩と一瞬火花を散らす。が、リョウタの次の発言でその火花は敢えなく溶けていった。
「あ、最旬スイーツだって。このプリンアラモード食べたい。」
 リョウタは早速手にいれた最新機種で近くのカフェを検索していたらしい。その発言に先輩は無意味な争いをやめ、意識をリョウタへと向ける。
 社長も同じく今争っても無駄だと感じ、リョウタの見ていたスイーツを見せてもらう。
「おっし。んじゃそれ食べにいくか。リョウタ、夕飯はどうする?」
 先輩は素早く切り替えると、リョウタの身を案じる発言でリョウタの好感度をぐんぐん上げていく。その様子を見て社長は歯噛みする。
(くそ、なぜだ。この差はなんだ。)
 側にいる時間は同じなのに、どんどん差をつけられていると体感する。何が違うのか、自分に足りないものは何か、社長は必死に思考を巡らせる。
「あの、社長もお電話番号、交換させていただいても?」
 考え込んでいると、リョウタが上目遣いで遠慮がちにそう聞いてくる。新しいリョウタの連絡先。交換しないわけがない。先に先輩との番号交換は済ませていたようで、考え込んでいる間に少し話が進んでいた。
(せっかくのリョウタの情報を得られるチャンスだ。もっとしっかりしなければ。)
 今まで仕事で何か遅れをとるということが少なかった社長は、遅れをとり始めているリョウタの好感度について焦りを感じていた。
 このままではまたこの先輩とやらに敗北を喫する。今度こそ勝ち取ってみせる。社長の決意は固かった。
 リョウタはお目当てのプリンアラモードをペロリと完食すると、今度は先輩と夕飯の話をしている。社長はホットコーヒーをゆっくりと味わいつつ、二人のやりとりに聞き入っていた。
 リョウタは実家に引き取られたが、両親に冷遇されているらしく、家で食事をするのは気が引けると言う話だった。なぜ両親が冷たいのかはリョウタは理解できず、兄からの情報も交えて先輩に説明している。先輩は当然知っている情報だったろうに、そうなのか、とリョウタの話を遮ることなく聞いていた。平日の夜は兄が買ってくる弁当を部屋でもそもそと食べているらしかった。
 社長はリョウタの一人暮らしには賛成だ。しばらくの保護観察者として先輩が就任しているのは解せないが、リョウタを誘いやすくなるし、差し入れという名目で料理を持っていけば、部屋にあげてもらえるかもしれない。
 ただ、今日の物件の下見では、初めは静観していた先輩が、この物件は日当たりが良くないとか、安いけど事故物件じゃないのかとか、とにかく事あるごとに不動産業者を完膚なきまでに叩きのめし、結局決まらなかった。リョウタは言われるままに情報を聞いていたから、危なっかしいところはあったが、先輩の指摘の仕方は厳しいものが多かったように感じる。
 三人は結局夕飯をショッピングモール内の定食屋で済ませ、その日は解散となった。
 
 先輩はマンションに帰って一人考えていた。
(今日のリョウタは記憶がないから仕方ないとはいえ、危なっかしいことばっかしてたな。リョウタの意思を尊重したかったから、社長を連れていくかは任せたけど、物件の事は隠した方が良かった。)
 今日先輩が不動産業者を叩きのめしたのは、社長に新居を知らせないためだ。あの男、リョウタが一人暮らしを始めたなどと言ったら、また何をしてくるかわからない。今はリョウタへの良心の呵責で大人しくしているが、リョウタの記憶が戻らないのを良いことに、また調子に乗り始めたらまたリョウタが傷つくことになる。今度こそ守ってみせる。先輩は固く誓っていた。ケータイのことも、リョウタから切り出すまで忘れたことにしていたのは計算だった。あのまま解散していれば、後日また物件のことも含めて相談に乗ってやれると思っていた。
 危惧しているのは、社長と番号を交換したことで、社長からしつこく誘いが来ないかということだ。まあ、新規契約だし、社長とは番号の交換しかさせていないから、直接電話でしつこく誘うということはいくら図々しいあの社長でもなかなかしないだろう。チャットでやり取りできるアプリを入れさせて、アカウントを交換したこちらの圧倒的優位は揺るがない。
 早速リョウタとのやりとりを開始する。
 今日はお疲れ様。物件決まらなくて残念だったな。家に帰って少し調べたからまた明日出直さないか?
 メッセージを送信すると、リョウタからはすぐに既読がつき、返信が返ってくる。
 ありがとうございます。でも、土日両方出かけたら先輩が疲れちゃいませんか?
 リョウタは記憶を失っても以前と変わらず優しい子だった。やっぱりリョウタはリョウタなのだ。先輩は気遣いを少し嬉しく思いつつも、実家での暮らしにくさを考えると、一刻も早く一人暮らしした方がいいと思っていた。
 そんなことは心配しないでいい。リョウタに特に用事がないなら、明日また会おう。
 そう言ってまた明日会う約束をして、先輩とリョウタは眠りについた。
 
 次の日の物件選びは、先輩がリサーチしたというところを見に行き、しばらくの仮住まいという事で、家具つきマンスリーマンションを契約した。日当たり良好、事故物件なし、一人暮らしには十分な広さ。これなら良いだろうと二人は納得した。リョウタはまだ休職中の身なので、ここから出勤するわけではないが、まだ数式の本が終わっていないと言って、ここでしばらく一人で落ち着いて数式に向き合うようだ。
「ここって、先輩の家からは近いんですよね?」
 リョウタは先輩の行動範囲内での一人暮らし、という条件付きで兄から承諾を得ていることもあり、聞いてみた。
(そっか、記憶、ないんだもんな…。)
 先輩はリョウタが家を知っているものとして進めてしまっている節があったので、己を反省した。先輩は自分の住んでいるマンションまでの道のりを軽く説明し、何かあったらこの部屋番号を押すんだぞ、と念を押した。リョウタの一人暮らし用の部屋はすぐ入れるという事だったので、一旦実家に戻り、リョウタのそれはそれは少ない荷物を持ってきた。
 昨日買った服などを合わせても、よくこれだけの荷物で生活していたな、という量しかなかった。
「よし、せっかくキッチンあるし、昼飯になんか作るか。」
 ここのところ冷たい弁当ばかり食べていたようだから、何か温かいものを食べさせたくなった。
「先輩、ラーメン食べましょ。」
 リョウタは先輩にそう提案する。
「え、ラーメン?そんな簡単なもんでいいのか?」
 先輩は拍子抜けしてしまう。ラーメン、か。でも確かに実家に戻ってからのリョウタには食べられなかったものだったかもしれない。
 うんうん、と頷いているリョウタが可愛いし、二人は近くのスーパーで買ってきたラーメンを拵えて一緒にすすった。野菜不足にならないよう、野菜炒めトッピングを添えて。
「先輩。今度、遊園地に行きたいです。先輩と二人で。」
 ラーメンを食べ終わってまったりした時間を過ごしていると、突然リョウタはそんな話を始めた。
「おう、いいぞ。どこの遊園地がいい?時期も週末ならいつでもいいぞ。」
 先輩はリョウタの口調が前のようには戻らないことに少し悲しさを感じつつ、二人で出かけたいと言ってくれるまでに回復してきたことを喜んでもいた。
「やったー!プラン考えておきますね。」
 リョウタはこの時初めて、記憶を失って以来の笑顔を見せたのではないだろうか。
(ああ、リョウタがやっと笑ってくれた。)
 もうずいぶんリョウタの笑顔を見ていなかった先輩は安堵した。
 先輩の心は揺れていた。リョウタの全てを取り戻すと誓った。でも、それは正しいことなのだろうか。記憶が戻らなくても、リョウタは笑えている。両親と折り合いの悪い幼少期のことや、社長から受けた仕打ちを考えれば、思い出さないほうがリョウタにとって幸せなのではないだろうか。
 例え、自分との出会いを忘れたままでもー
 
 次の次の週末
「お天気に恵まれて良かったですね、先輩。」
 リョウタは上機嫌でそう言った。先輩はそうだな、と頷き返し、二人は遊園地へと足を踏み入れた。そこは昔からある遊園地で、いわゆる近代型のテーマパーク程の規模はないのだが、二人でゆっくり一日回るのには十分な広さだった。リョウタはいわゆる絶叫系にはあまり興味がないらしく、メリーゴーランドなどの一般的なアトラクションに乗りたがった。一通り回って、昼食のホットドッグを食べた後、夕方まで園内をぶらつきながら、リョウタが楽しめたアトラクションはリピートしたりして満喫する。楽しそうなリョウタを先輩は微笑ましく思いながら、また一方でやはり心は揺らいだままだった。話しながら園内を散策していると、昼間は通らなかった、敷地の奥の方へとやってきてしまった。そこにはまだ回っていなかったアトラクションがあり、リョウタは興味津々に近づいていく。
 だが、先輩はこれはないな、と思いながらリョウタについて行った。なぜなら、それは高所から落下して無重力を体験するものだったからだ。高所恐怖症であるはずのリョウタが乗りたがるとは思えなかった。
「先輩。これなんでしょう?」
 上を見上げながら問うリョウタに、先輩はこのアトラクションの趣旨を説明する。
「へえ。無重力。体験したことないし、面白そうかも。」
 意外な返答に先輩は驚く。以前のリョウタなら、この高さを見ただけで即アウトだった。観覧車さえ乗らない徹底ぶりだ。
「高いところは怖くないのか?」
 先輩は素直に疑問をぶつける。リョウタは、ん~、と考え込み、
「怖いけど、先輩がいてくれるから。」
 と笑って答えた。先輩は胸が熱くなるのを堪えつつ、そっか、とリョウタと一緒にアトラクションに乗り込む。
 程なくして、アトラクションは出発する。上昇していく感覚に、リョウタは緊張している様子だった。
「大丈夫か?」
 と先輩が声をかける前にリョウタは目を瞑って先輩に訴えた。
「やばい。怖い怖い怖い。」
 とはいえ、アトラクションを止めてもらうわけにもいかない。
「リョウタ、ちゃんと俺がいるからな。目は開けといたほうがいいぞ。」
 と声をかけ、最大限恐怖を和らげてやれるよう心がける。そうこうしているうちにも上昇が止まった。
(あ、来るな。)
 先輩がそう思った時だった。一瞬ふわっと浮いた感覚がして、落下していく。先輩は割とこの手のアトラクションは苦手ではないが、終わった直後にリョウタの様子を確認すると、顔が真っ青である。これはただ事ではなかった。
「どうした、リョウタ。歩けるか?気分悪い?」
 なんとかアトラクションからは降りたが、気分が悪いのかという問いかけに力無く頷く様子は尋常ではなかった。急遽救護室にリョウタを運び、容体が落ち着くまで休ませてもらう。
 やはり高いところがダメだったのだろうかと先輩が思案していると、リョウタが少しずつ言葉を発した。
「ごめ、なさ。せっかくの、おやすみ。」
 何を言い出したのかと思ったら、またリョウタは自分の心配よりも先輩のことを気遣っていた。そんなこといいから、自分の心配をしろと先輩はリョウタを気遣う。
 一時間ほど休ませてもらい、リョウタはだいぶ落ち着いたので、帰路に着く。ちょうど遊園地も閉園の時間あたりになっていた。
「大丈夫か?無理してないか?」
 そう問いかける先輩に対し、リョウタはだいぶはっきりと受け答えができるまでに回復していた。しかし、なぜあそこまで気分が悪くなったのか本人にもさっぱりわからないという。高いところが怖かったのは事実だが、落下中に急激に気分が悪くなったのだそうだ。本人曰く、慣れない感覚に酔ったのかも、ということだった。リョウタは夕飯を食べられる状態ではなさそうだったので、先輩はリョウタを部屋まで送り届け、寝かしつけてから自分のマンションへと戻った。
 
 リョウタは夢を見ていた。これは悪夢だとリョウタは直感した。
 今までも似たような悪夢を何度か見ていた。
 迫ってくる何かから逃れようとして、逃げた先が空洞だったりするのだ。
 ぽっかり空いた穴に吸い込まれる感覚で目を覚ます、みたいな事が何度かあった。
 何に追われているのか、リョウタは今まで確かめなかった。ただ逃げなければ、という強迫観念みたいなものがあり、逃げることに必死だった。
 一体何からそんなに必死に逃げているのだろう。リョウタは初めてその正体を確かめる気になった。
(あ…。)
 リョウタの意識はそこで途絶えた。
 
 午前三時、先輩は雨の音で目を覚ました。
(結構降ってるな…。)
 いまだに慣れない一人きりのベッドで、先輩は寝直そうと寝返りを打つ。
 ピンポーン
 先輩は飛び起きた。誰だ。こんな夜中に。
 恐る恐る玄関のモニターを確認すると、そこには部屋の前に立っているリョウタらしき人物が映し出されていた。
(リョウタ?こんなに濡れて…でも、部屋番は教えたけど玄関のセキュリティの解除は教えてないはず?何が起こってる?)
 相手はとりあえずリョウタだと確認したところで先輩はドアを開ける。そこには濡れそぼって立っているリョウタの姿があった。
「リョウタ?どうした、こんな夜中に。しかもそんなに濡れて。」
 先輩は夕方のこともあるし、優しく様子を確認する。もしかしてまた気分が悪くなったのかもしれない。
「先輩。俺…。」
 リョウタはそれだけ言うと黙ってしまった。でも先輩はその一言で何が起こっているのか察してしまったのだ。
(記憶が戻ってる…。)
 そう、記憶を失ったリョウタは決して『俺』とは言わなかった。
 とりあえず先輩はリョウタを中へ入れる。このままでは風邪をひいてしまう。タオルと着替えと温かいミルクを用意して、先輩とリョウタはリビングで向き合った。
 リョウタは何も言わずじっとしている時間が長く流れた。先輩もリョウタも、お互い何から確かめ合えばいいのかわからずにいた。
(あ、そうだ。)
 先輩はリョウタに元々リョウタが使っていたプライベート用携帯を差し出す。リョウタは小さく頷いて手に取ると、息をするようにロックを解除する。それは記憶を取り戻したリョウタにしかできないことだ。リョウタはしばらく色々と携帯の中身を確認していたようだが、最後にアルバムを開き始めた。
 そこには先輩と二人で写った写真が並んでいる。それはリョウタと先輩の歴史でもある。高校の卒業式から、大学の写真、果ては入社式に向かうスーツ姿の二人など。リョウタはそれらを眺めて一呼吸置くと、嗚咽を漏らし始めた。
(混乱してるんだろうな。)
 先輩はそんな思いを抱きつつ、声を殺して泣き続けるリョウタにそっと寄り添った。
「よしよし、よく頑張ったな、リョウタ。もう大丈夫だからな。」
 頭を優しく撫でながら、先輩はリョウタを宥め続ける。一方のリョウタは一向に泣き止む気配がなく、ただ携帯の写真と、本物の先輩に囲まれながら気の済むまで泣き続けた。
 
 朝
(あれ…。俺何してたんだっけ。)
 リョウタは目を覚ました。見れば昨日の夜着たはずの服と違っているし、そもそも部屋も違う。
「ここは…、」
 リョウタは明確な見覚えと共に、驚きを隠せない。
「おはよ、リョウタ。」
 そう、先輩との愛の巣である。
「あ、先輩。おはよ…。」
 リョウタはあの後泣き疲れて眠ってしまったのだ。先輩はそんなリョウタをベッドまで運んで自分もまた眠りについた。
 リョウタは幾分落ち着いたのか、昨日先輩と別れた後のことを思い出してはポツリポツリと話し始めた。
 夢をみたんだ。でもあれは夢じゃなくて、先輩にもう会えなくなるって覚悟した時の最後の映像だった。ということや、あの日起こった出来事を鮮明に思い出したこと。社長の魔の手から逃れるにはああするしかなかったこと。先輩を裏切りたくない一心だったこと。徐々にリョウタから明かされる事実を知るにつけ、先輩は社長への憤りを強めていった。一部社長からことの顛末は聞いていたとはいえ、やはり加害者側から聞くのと、被害者側から聞くのでは違ってくる。リョウタがどんな思いで十二階から身を投げたのか。先輩は胸が締め付けられる思いだった。
 話し終わったリョウタは、少し呆然としていたが、先輩はそんなリョウタをきつく抱きしめると、感謝と謝罪を口にした。
「ありがとう、リョウタ。俺のことそこまで想ってくれて。そしてごめん。リョウタがそんなに追い詰められてたのに俺は何もしてやれなかった。守れなかった。」
 それを聞いたリョウタの目からは再び涙が流れるところだった。
「ううん。俺の方こそ、いつも先輩がいてくれたからここまで来れた。先輩がいてくれるって信じてたからあそこまで我慢できた。あと今はこうして一緒にいてくれる。それだけで十分だよ。これからも、俺と一緒にいてくれる?」
 当たり前だろ、と返す先輩の頬にも涙が伝い、二人で思いっきり泣いた。
「でだ。」
 二人で思いっきり泣いたあと、二人とも力尽きて眠ってしまい、気づけば夕方だった。二人は再びリビングで向かい合い、今後について話し合うことにした。
「リョウタはどうしたい?あの会社、辞めたほうがいいんじゃないか?」
 それは当然そうだろう。リョウタの記憶が戻った今、社長のいる会社に未練もなければ、い続ける理由もない。
 しかし、リョウタの結論は意外なものだった。
「一つ考えたんだけど。今回の件で俺たちはある意味社長の弱みを握ったんじゃないかな?それなら、先輩とのこと隠す必要ないあの職場は案外ラッキーかもしれないよ?」
 先輩もこれにはびっくり仰天である。
「なっ、確かにそうだけど、リョウタ自身の危険を考えろ。リスキーにも程があるだろう。またあの社長が襲いかかってきたらどうするんだ?」
 うーん、とリョウタは少し考えた。
「むしろ、その時は証拠を押さえて週刊誌に売り込んでやるぞって脅しかける、とか。」
 先輩は呆れた。リョウタはあんな事があって、少し強かになったようだが、強かすぎないか、と。
「証拠を押さえるって、それリョウタなんかされてるだろ。却下。」
 それはそうだね、とリョウタは先輩と冗談めかして笑い合う。しかしリョウタの傷が癒えたわけではないので、二人とも真剣に対応を検討する。
「まず、こうしよう。定時連絡を取る。それを社長にも了承させる。どうしても取れない時は事前に連絡。あと何があってもリョウタに手を触れるのは禁止。髪の毛にゴミがついてるとかでもダメなものはダメだ。」
 先輩は今後のリョウタに関わる話なので、細かくメモを取りつつまとめていく。
「これらを了承できないと言ってきたら、リョウタはあの会社辞めること。いいな?」
 うん、とリョウタは了解の意を示す。本当は部署変えてもらったら手っ取り早いけど。と先輩は漏らす。あの社長の性格からして、異動願いを出したところで、リョウタを手放すようなことはしそうにない。会社に残ると言ったら、側に置いておきそうだ。
 だが、思い知ってもらおう。社長にとってリョウタは高嶺の花なのだと。
 どんなに手を尽くしたとしても、リョウタと先輩の間に入る隙間はないのだと。
 
 月曜日
「おはようございます。社長。」
 社長は人生で一番驚いたかもしれない。
 もちろんリョウタが目の前で消えた時、そのリョウタが目覚めた時には記憶をなくしていた時、など人生の驚きはここ最近大忙しだが、記憶を失って療養中のリョウタがある朝いきなり出勤しているのだ。しかも自分より早く。
「な、ぜここに…。」
 リョウタはしっかりとスーツを着こなし、ワイシャツだってシワひとつない。ネクタイも一ミリも曲がっておらず、まさに完璧だ。とても記憶を失っているとは思えない。
「今日は復職の手続きに参りました。おや、僕の顔に何かついてますか?」
 社長はリョウタを凝視していた。
(まさか、記憶が戻ったのか?だとしても、今なんて言った?)
 社長はリョウタの記憶が戻ったら、警察沙汰にされることまで覚悟していた。自分の人生終わったかもしれない、などと考えたこともあった。
 だが、証拠はないし、あの時警察の捜査でも事故と判断されたじゃないか。しかし、リョウタ自身からは嫌われることは免れないと覚悟していた。
「いや、問題はない。何もついてないとも。で、復職?いまそう言ったか?」
 社長は混乱した。あんな事があって、リョウタが完全復活したとしたら、真っ先に三行半ならぬ退職願を叩きつけられるとばかり思っていた。戻ってきてくれるということは、脈ありと期待してもいいのだろうか。いや、そんなはずはない。
(どうしたらいい、どう対応するのが正解だ?)
 社長はこんなに難しい判断を迫られたことは今までなかったんじゃないかというくらいに今までの流れ、今あるリョウタの状態や言動、今後の展開について考えを巡らせて、頭がパンクしそうになった。
「おい。」
 気がつけば、先日リョウタのために購入した最先端携帯をリョウタがこちらへ差し出している。声の主はそこにいた。
「へ?」
 ドスの効いた低音に、思わず間抜けな声を出してしまった。
「へ?じゃねえ。今度リョウタになんかしたら、今度こそ警察とマスコミに突き出してやるから覚悟しろ。リョウタが復職するにあたって、条件を出すから耳かっぽじってよく聞け。」
 その声の主は先輩だった。リョウタが知っている優しい先輩とはうってかわって、どこから出しているんだろうと思うような低音で社長にあれこれと条件をつけている。社長は先日の自分の失態と、先輩の低音の圧にただ条件を聞き入れるしかないようだった。
「リョウタに一ミリでも触れたら即セクハラで訴えるからな。毛先一ミリでもだ。リョウタにはウェアラブルカメラを提案したが、リョウタは慈悲深いから自己申告制になった。それを忘れるな。」
(先輩って、たまに悪のオーラ出すよね。)
 リョウタはそれを聴きながらそんなことをぼんやりと考えていた。
 社長は先輩からこってり絞られ、朝から疲れ果てた様子になった。とりあえず条件は飲んだらしく、先輩からは、じゃ、手続き済んだら今日はまっすぐ帰るんだぞ。といつもの優しいトーンで通話を終了された。
 社長は何から切り出そうと少し考えたが、一番に言わなければいけないことは忘れなかったらしい。
「申し訳ないことをした。許してくれとは言えないが、まず、謝りたい。」
 社長はそれなりに社会経験を積んでいる。間違いは正さなければいけないということくらいは流石にわかっていた。
「その上で、私は君に好意を抱いている。と言うのは変えられない。ただ、君にも相手がいるのだということは嫌というほど痛感させられた。もう変に手出しはしないと誓おう。」
 リョウタは社長の謝罪を受け入れることにした。
「社長のおかげで先輩とは切っても切れない仲っていうことが証明されましたし。むしろ感謝ですけど、条件をお忘れなく。」
 リョウタから痛い釘を刺され、うっ、と社長はたじろいだ。先ほどの先輩との会話を思い出したせいだ。
(あの男、只者じゃない…。)
 社長は思い返すだけで珍しく胃が痛くなりそうだった。
 リョウタは全てを思い出したことによって、むしろ心が軽くなったそうで、社長からはもう変に手出しはしないと言ってもらえたし、先輩との仲が公認になったので、手続きを終えると嬉しそうに帰っていった。
(敗けた、か…。)
 社長は今回の件に関しては完敗を喫したことを感じた。それがわからぬほど子供でも愚か者でもなかった。
 しかし、転んでもただでは起きないのが敏腕社長、九条ナオヤである。
 
 後日
「え?なんですって?」
 復職してきたリョウタにある頼み事をしたところ、この返事だ。望み薄かな、と思いつつも、追求してみる。
「君と先輩から提示された条件にこの件は当てはまらないと思うのだが?」
 リョウタは少し考えたが、そこへ携帯電話が鳴る。
「あ、ちょうど定時連絡なので、相談してきますね。」
 そう言うとリョウタは席を外した。くそ、奴に勘繰られる前にカタをつけたかったのに。
 五分後にリョウタは戻ってきたが、答えはノーだったらしい。通話状態のまま戻ってきたのだ。
「また変な気起こしてるんじゃないだろうな?」
 電話口の先輩は怪訝なトーンで社長に問いかける。そんな先輩に社長は秘策を用意していたのだ。
「とんでもない。むしろ変な気がないから素直にこうして頼んでいるんじゃないか。」
 リョウタと先輩は共に首を捻る。
「どうしよう、先輩?」
 そう言いながらまたリョウタは席を外す。
「リョウタはどうしたい?」
 そう問いかける先輩に、リョウタは素直な思いを吐露する。
「うーん、断ってまたフラストレーションため込まれて、思い切った行動に出られても困るし、毎日ってわけでもなさそうだから、今のところオッケー、かな?」
 そうか、と先輩はリョウタの心境を尊重する。
「じゃあ、とりあえずお試しで反応見るところまでならやらせてやるか?リョウタは優しいからな、つけ込まれないようにするんだぞ?」
 はーい、と言ってリョウタと先輩は定時連絡を終了した。
 ガチャ。
 社長室に戻ると、社長は普通に仕事に戻っていた。が、流石に先ほどの話題を忘れたわけではない。
「で、結果は?」
 短く尋ねるに留める。リョウタは、少しだけどうしようかと迷ったが、社長の頼み事を引き受けてもいい、という旨の返事をした。ただしお試しで、と付け加えて。
「そうか、助かるよ。ありがとう。早速明日頼みたいのだがいいだろうか?」
 わかりました、と答えてリョウタもまた業務に戻る。
 
 その日の夜
「リョウタ、今日は大丈夫だったか?あいつまた何か企んでるんじゃないだろうな?」
 先輩は帰宅するなりリョウタの身の安全を確認した。
「うーん、多分大丈夫、だと思う。なんか、前もあったし。」
 そう答えると、先輩は『は?聞いてないぞ。』とリョウタに詳しい説明を求めた。
 ああ、あの時はね。先輩と離れ離れになって。お弁当がおいしく感じられなかったから片付けてたんだけど。そしたら食べかけの俺のお弁当食べてたから。社長は昼食難民なんじゃないかって…。
「は?あの野郎、何しれっとリョウタと間接キスしてんだよ。ふざけんなよ。」
 みるみる怒りを募らせていく先輩だったが、リョウタもそこは同感だった。
「流石にあれは引いたけど、ただ単にお腹すいてるだけなんじゃ?」
 リョウタは社長の頼み事を聞いた時、そういうことだったのかな?と思った。
「いや、そんなわけないだろ。リョウタの弁当とか、リョウタの手料理だから食べたがってるんだろ。やっぱりあいつ懲りてないんじゃないか?」
 そうなのか、とリョウタは先輩の鋭い洞察力に感嘆する。
 そう、社長の頼み事。それは、『たまにでいいからリョウタの作った弁当を昼食にしたい』ということだった。
「弁当作るとか、時間外労働だと思うぞ。いいのか、それで。」
 先輩は反対派なので、どこまでも渋る。
「お弁当くらいで済むならいいかも。社長室防音仕様にされて、なんかされるとかよりは。」
 リョウタの中で、社長はかなり極悪人になっているようだ。社長室改造とかどれだけ経費かける気なのだろうか。
 そして明日頼みたい、と言われたが、一つ問題があった。
「お弁当箱の大きさ聞いてくるの忘れた!」
 リョウタは社長の胃袋の大きさを知らない。どれだけ拵えたら昼食として満足してもらえるのだろうか。社長はいつも昼時になると、いなくなるか、食べずに仕事しているかの二択なのである。いない時にどこで何を食べているのかリョウタは全く知らない。
 以前に高級レストランでステーキとか誘われた事があるので、結構食べる方なのだろうか。でもそれは夕食の話だし、昼食はガッツリ食べない方かもしれない。
「とりあえずこれでいーよ。」
 先輩は無茶苦茶適当にお惣菜パックを取り出した。
「うーん、確かに今からじゃ本腰のお弁当箱は用意難しいし、明日はこれにしよっか。」
 リョウタも先輩の提案は否定しない方なので、社長の初のお弁当はお惣菜パックになった。
 
 朝
「おはよ、リョウタ。無理するなよ。」
 先輩が早めに起きてきて、リョウタの様子をうかがう。
「おはよ、先輩。大丈夫だよ。一応あっちからの要望でハンバーグ入ってるけど、ごめんね。あんまり好きじゃないよね。」
 そんなのいいって、と先輩は軽くリョウタを赦す。ああ、やっぱりこの人と一緒でよかったとリョウタは安心する。
 お惣菜パック丸出しではなんなので、一応布で包み、リョウタは自分の分と社長のお弁当を持って出かけた。
「おはようございます。社長。」
 出勤すると、リョウタは先に来ている社長に挨拶をし、業務に入る。今日は特別なことは何もないスケジュールで、リョウタもゆっくり昼食の時間が取れそうだった。
 
 昼
 ソワソワし始める社長をよそに、リョウタは業務に集中していた。お昼の鐘が鳴り、現実に引き戻される。
(もうそんな時間か。そういえば、今日は社長にお昼ごはん作ったんだっけ。)
「お疲れ様。今日は天気もいいし、屋上でランチというのはどうだ?」
 社長は上機嫌でリョウタに声をかけた。
「いえ、僕はもう少し仕事したいので、社長だけでどうぞ。あ、こちらがお弁当です。」
 社長は希望を砕かれたような顔で少し固まっていたが、観念してお弁当を持ってどこかへ出かけて行った。かと思えばお茶を買ってきただけのようで、リョウタの分も、と缶コーヒーの差し入れをしてくれた。
「お弁当を作ってくれたお礼とまではいかないが。頑張りすぎも良くないぞ。」
 そう言うと、自分の席に着席してお弁当を広げ始めた。
 社長は肉が好きだ。一番の好物はステーキだし、焼肉とかすき焼きとか、ハンバーグなどの類を好んでいると自負している。今回はリョウタにお願いし、ハンバーグ弁当を作ってもらったのだ。好きな子が作ってくれた弁当というものは、こんなにテンションが上がるものなのかと社長は初めての感情に戸惑った。昔学校で、調理実習の度に男子たちが色めき立って、女子からの差し入れを期待していた気持ちを、今頃初めて知った。
(なるほど…。私もまだまだ至らぬところがあるということか。)
 社長は以前、リョウタの残した弁当を強奪して食べたことがあるが、リョウタの料理の腕前はかなりのもので、今回も期待が膨らんだ。
 前回は煮物などが中心だったので、リョウタの作るハンバーグとか、興味津々だった。しかもハンバーグときたら、手捏ねが主流だし、リョウタの手作りということは。社長は思春期男子くらいまで脳みそが逆流しそうだった。
 そうとは知らず、リョウタは業務をキリのいいところまで片付け、自分の分の弁当を広げるところだった。
(ハンバーグとかあんま作ったことないんだよな。先輩これ系好きじゃないし。やっぱ得意分野は煮物かな~。)
 評価してくれる人が周りにいなかったせいで、リョウタは洋食系はあまり得意ではない、というか作る機会が少なかった。とはいえ、料理の知識はあるので、それなりのものが出来上がるのだが、やはりおいしく食べてくれるものを作りがちになるのは仕方のないことだ。リョウタはエプロンより割烹着の似合う青年になっていた。ぼんやり思考の海に沈みながら黙々と食事をしていると、目の前に急に社長が現れた。
 ビクッと身を震わせ、社長を見ると、そんなに警戒しなくても、と落胆の声が聞こえた。
「美味しかったよ、ありがとう。これからも時々よろしく頼む。」
 そう言って器を返却してくれた。が、唯一の不満が溢れる。
「量に問題はなかったのだが、このお惣菜パックはどうにかならなかったのか?」
 と。大きめのお惣菜パックだったので、量的にはやっぱり結構食べる方なのかな、と思ったのだが、リョウタはすみません、と一言断ってから、
「量的な問題を失念していて。急拵えだったので今回はそれになりました。もしよろしければ、丁度いい大きさのお弁当箱を社長の方でご用意いただけると助かります。」
 と付け加えた。社長もそれは納得してくれたようで、
「そうだな。私もそこまで思い至らなかった。すまないな。」
 と言ってくれた。社長も今まで特定の相手から手作り弁当を受け取るということがなかったので、弁当箱という文化に触れてこなかったらしい。早速手頃な弁当箱を手配する、と言い残して食後の腹ごなしに散歩してくるとどこかへ消えた。
 
 先輩はやきもきしていた。リョウタは無事だろうか。この頃自分はリョウタの恋人というより保護者になりつつあるので、なんとかしたい。あくまでもリョウタとは対等な立場でいたいのだが、あの厄介者がそうはさせてくれないのだ。今朝もリョウタは得意ではない料理を頑張って作っていた。いつもより時間がかかるからといつもより早起きし、手伝おうかと言った自分にも気を遣って大丈夫だから、と言った。リョウタに気を遣わせないように寝ているフリをしていたが、レシピとにらめっこしていたので、あれは相当手間がかかったに違いない。
 俺はコンビニで済ませようか、とも言ったが、
「先輩の分作らないなら、お弁当作りたくない。」
 と言って聞かなかった。リョウタは優しい子だ。だからこそ心配にもなるのだが、そこが可愛い。それにつけ込んでくる輩はすべからく滅すればいいと思う。いつまでも、優しくまっすぐなリョウタであってほしい。そして自分はそれに見合う男になりたい。それが先輩の想いだった。お昼が終わる前の定時連絡でリョウタの無事を確認した先輩は、午後も頑張ろうと自分のデスクへ戻った。
 
 リョウタは一人残った社長室で、先輩に定時連絡を終えると、夕飯のメニューについて思考を巡らせていた。
 お昼はなんだかんだで社長の意見を取り入れたお弁当になったので、先輩はちょっとモヤモヤしているかもしれない。夕飯は先輩の好きなものを作ろう。何がいいかな。最近煮魚食べてないから、今日は帰りにスーパーで魚でも見よう。そうこうしているうちに、お昼休み終了を知らせる鐘が鳴った。
 
 夕方
 定時になり、特に残業もなかったので、リョウタは会社を後にした。相変わらず社長はリョウタより後に帰るが、大した残業はしていない、と以前言っていた。まあ、その気になればリョウタの先回りをして家にいたこともあったので、そこまで遅くまでは残っていないというのは本当なのだろう。ただ、先方との打ち合わせも兼ねて夕飯は外食が多いようなことは言っていた。社長というのも大変な仕事なんだろうとリョウタはぼんやり思った。
 電車を降り、最寄りのスーパーへ寄って、先輩との家へ戻る。記憶が戻ったことで、先輩が帰ってこいと言ってくれたお陰で、一人暮らし用の部屋は解約した。後に残ったのは、社長から贈られた最先端携帯くらいだが、それも定時連絡などで活用しているので、不用品にはなっていない。リョウタは相変わらずプライベート用携帯を会社で取り出すことはしなかった。先輩との思い出に浸りたい時はあったが、そういうものを会社で出して、誰かの目についたら変な噂の的になりかねないからだ。社長は知っているから問題ないが、かといって社長の前でこの携帯を出すのは嫌だった。なぜなら先輩と自分の思い出を見せつけるのも、社長に踏み込まれるのも嫌だったからだ。リョウタは家へ帰ると、早速煮魚の準備を始める。
(今日は美味しそうなお魚あってラッキーだったな。先輩喜んでくれるかな。)
 リョウタの用意する食事を先輩が喜んでくれないことはまずないのだが、リョウタはいつも気にしてしまっていた。もしまずいって言われたらどうしよう、と。先輩の人柄からいって、そんなことを言う人ではないが、先輩には美味しいものを食べてほしいと思うが故のリョウタの取り越し苦労だ。
「ただいま~。」
 程なくして先輩も帰宅した。
「お。今日は豪勢だな。俺も手伝うからちょっと待っててくれな。」
 そう言って先輩は部屋着に着替えてきて、手伝ってくれる。二人でわいわいしながら料理をして、一緒に食べることの幸せをリョウタは噛み締めていた。
 
 しばらくそんな日々が続いた。リョウタが記憶を取り戻してから一ヶ月あまり経っただろうか。社長の『たまに』食べたいというリョウタのお弁当リクエストは続いていたが、最初のハンバーグ以来特に注文をつけてくることはなかったので、それなりにリョウタの作りたいお弁当を作って提供していた。
「社長はお弁当以外の時、どこで何を食べてらっしゃるんですか?」
 リョウタは以前から疑問だったことを聞いてみた。
 ん。と社長は意識をリョウタに向けると、その質問に答える。
「普通に社員食堂を利用したら、半径一メートルが空洞になるのでな。仕出し弁当を頼んでどこか人の少ないところで食べるようにしているが、どうした急に?」
 そうなのか、とリョウタは妙に納得してしまった。仕出し弁当うんぬんではなく、社員食堂のくだりだ。
「いえ、以前から社長室で食べる姿をあまり拝見しなかったもので。社員食堂でそんなことがあったんですね。」
 社長はリョウタが案外自分を観察していることに驚いたが、冗談めかして続ける。
「そうなんだ。社員食堂に入ったら、ざわめきが起こって、どこか空いている席を探していると、どうぞと譲られ、そこに座って食べていたら、気がついたら周りから人が消えていたんだ。昼時の満員の社員食堂なのに。あたりを見回すと、女子社員に囲まれていて、何やら話しかけたそうにされていてな。手を振ると喜んでもらえたようだが。私には興味のないことだ。ただ、毎回こんなことになっては他の社員がゆっくり食事を摂れないだろうと思い、それ以来社員食堂には行かないことにしたんだ。」
 それを聞いているリョウタには、その情景が手に取るように思い描けた。色めき立つ女子社員の群れ、それを恨めしそうに見る他の男性社員までも想像できそうだった。
「確かにそれは問題ですね。」
 そう答えると、社長はそうだろう、と頷き、こうつけ加えた。
「社長室であまり食べないのは、そうだな。何か仕事との区切りをつけたいせいだな。まあ、君の弁当を頂く時は、他の社員から社長が誰かの手作り弁当を食べている、と噂されたら面倒だから、誰の目にも触れないところということで、社長室で食べるようにしている。」
 それを聞いたリョウタは、社長って案外考えているんだな、とちょっと失礼なことを思った。
 社長も浅慮なわけではない。ただ、リョウタのことになると少し暴走しがちなだけだ。
 仕事との区切りをつけたいというポリシーを曲げてまで、社長室でリョウタの作ったお弁当を食べているのはやっぱりリョウタのことを諦められていないからに他ならない。
(やっぱり好きだ。愛している。)
 社長はリョウタが作ってくれるお弁当を食べるたびに、そう思っているし、今すぐ触れたいという気持ちに駆られる。
 しかし、その思いは届くことはないし、社長は自分が触れることは、リョウタを不幸にしかしないと知ってしまった。社長はそっとその想いをその身の奥深くにしまい、今日も仕事をするリョウタの横顔を眺めるに留める。
 リョウタは割と感情の起伏が顔に出る子で、見ていて飽きない。そんなリョウタが今ここにいてくれているだけで、自分は幸せなのかもしれないと社長は考えた。あれ以来、先輩に向けるような笑顔を見せてくれたことはないが、雑談している時など、少し微笑んでくれるようになった。以前より、少し距離が縮まった気がして、社長は嬉しかった。今ある幸せを享受しよう、社長はそう考えるようになっていった。
 
 今日の夕飯はカレーにしよう。今日はお野菜が安いし、たまにはこういうのも悪くないかもしれない。リョウタはいつもの帰り道で、そう思いながら最寄りのスーパーへ向かっていた。
 にんじん、玉ねぎ、ジャガイモ。お肉は家に鶏肉があるし、こんなものかな。あとカレールーも買わなきゃ。リョウタは必要なものを次々とカゴへ放り込んでいく。カレーは先輩とたまに食べるメニューだから、何も問題はないはずだ。リョウタは手早く買い物を済ませると、家路を急ぐ。カレーは割と簡単だけど、野菜を刻んだりの手間がかかる。お腹を空かせて帰ってくる先輩のことを考えると、あまり待たせたくはなかった。
 家につき、買い物袋をどさりとキッチンへ置く。部屋着に着替えた方がいいかな、と思ってひとまずリビングで一息つく。そこへ携帯が鳴った。
「先輩からだ。えーと、今日は遅くなる。か。」
 じゃあ、ゆっくり作ろうかな。そう思ったリョウタだったが、気が抜けたのか、ものすごく眠たくなってきた。
(ベッド行ったら絶対起きない。ちょっとだけここで休もっと…。)
 リョウタの意識は沈んでいった。
 
「…ウタ。リョウタ。」
(ん…、完全に寝ちゃってた。先輩の声だ。)
「おかえり、先輩。」
 リョウタは寝ぼけ眼でそう答える。
「あ、起きた。寝かしといてやりたかったけど、気を失ってるのかと思った。」
 少し心配そうな先輩に、大丈夫、ちょっと眠たかっただけ、と答えたリョウタは時計を見て真っ青になった。
 九時過ぎてる。
「やっっっば、何もしてない、ごめん先輩!今からカレー作るから!」
 無理しなくていいぞ。と言っている先輩を完全スルーしてキッチンに直行し、リョウタは材料を開ける。
「おーいリョウタ。カレーは明日にして、今日はどっか食べにでも行かないか?」
 先輩はリョウタが疲れているのに、これ以上体に鞭打って料理することのないよう声をかける。しかしリョウタは完全にスイッチが入っており、カレー以外は考えられなくなっていた。
「お肉悪くなるし、今から作る。」
 頑として動かないリョウタ。こうなったらテコでも動かない。と知っている先輩は諦めてカレーの完成を待つことにした。
 リョウタは冷凍してあった肉を出すところまではしていた。数時間経った今、肉はそれなりに解凍されている。
(一旦出したお肉しまったらおいしくなくなっちゃうからな…。)
 リョウタは先輩の口に入れるものがおいしくないことが許せなかった。なので、半解凍されたお肉は今から消費するべきだ。先輩が部屋着に着替えてきて、手伝うことはないかと言ってくれたが、リョウタはさっき帰ってきた残業帰りの先輩には休んでいて欲しかった。
「大丈夫、カレーなら簡単だから。ちょっと時間かかるけど、ほんとすぐだから。」
 リョウタはああせねば、こうせねばという事にたまに縛られがちになる。そんな時はそっと見守ってあげるのが一番リョウタを傷つけない方法だと先輩は長年の経験から知っていた。
(カレーできるまで待っておくか。)
 先輩はリビングでだらりとする。キッチンが見えているのだが、忙しなく動き回るリョウタを見ながら、可愛いなあと思っていた。
(リョウタって完全に小動物だよな。)
 口に出すとリョウタはそんな事ない、と反論するので口には出さないが、リスとかその辺の小動物っぽい。手際よく材料を刻み始めたリョウタの後ろ姿を見ていると、久しぶりにその姿を見た気がして、懐かしいとともに、リョウタに対する感情が溢れ出て、段々抑えがきかなくなってきた。
(あ、やばい。)
 先輩はリョウタに対する情欲を抑えられなくなってきていることに危険を感じていた。あんな事があってから、先輩はリョウタが戻ってきた後も今までリョウタに触れていない。一緒に寝たりはしているが、意思を持って触れることは自ら禁止していた。社長に触れられて嫌な思いをしたリョウタが思い出さないようにー。
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